3.デートの約束

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3.デートの約束

 美月センパイに会える。  返ってきた模試の結果を手に廊下を曲がる。昼休みの校舎内はどこにいても落ち着かないが、あそこなら、と足を進める。家に帰ってからなんて待てない。メッセージじゃなくて声で伝えたい。  数学準備室と社会科準備室が並ぶ廊下の奥。先生たちは職員室にいることがほとんどなので、ここには資料を取りにくるだけ。昼休みの今は誰もいないだろう。スマートフォンを使って通話していても見つからないはず。  ――今度の模試でB判定以上だったら、デートしようか。  美月センパイの言葉に、目の前に人参をぶら下げられた馬のごとく、魔法をかけられた少女のように、私は今までにない集中力で試験に臨めた。  そっと息を吐き、スカートのポケットから端末を取り出す。この時間なら美月センパイも休み時間だ。ちょっとくらいは話せるだろうと期待を膨らませる。 「……みのり?」  三コール目で待ち望んだ声が聞こえた。周りを気にするような小さな声に喜びよりも先に不安が弾けた。迷惑だったろうか。 「あ、あの、いま大丈夫ですか?」 「うん。大丈夫。ちょうど外に出たところ」  美月センパイの声の後ろから風の音がする。正確には木々の葉がさざめく音。美月センパイがいま立っている場所を想像する。パンフレットとホームページから得た情報しかないけど。敷地内には桜や銀杏の樹が植えられていて、緑が多かった。 「みつ」 「いいことでもあった?」  一瞬早く美月センパイが言った。クスクスとくすぐったそうに笑いながら。まだ何も言っていないのに。どうしてバレちゃうのかな。 「模試の結果が返ってきました」 「なるほど。じゃあ、デートできるんだ」  結果についてはまだ何も言っていない。そして聞いてもくれない。いや、こんなふうに電話している時点で伝わってしまったということか。もうちょっと「頑張ったね」みたいな一言があってもいいと思うのだけど。今までにない点数だったのだから。どうしたら褒めてもらえるかな、と眉を寄せたところで 「どうする? うちに遊びに来る?」  聞こえた言葉に一瞬にして顔が戻る。いや、戻るどころか驚きと嬉しさでいっぱいになった。 「いいんですか⁉」 「うん。でも最寄り駅までは自力で来てもらわないとだけど」 「行きます!」 「ふふ、じゃあ、よければそのまま泊まっていきなよ」 「ふえっ⁉」 「といっても二日とも遊ぶのはどうかと思うから次の日は勉強することになると思うけど」  飛び跳ねた私の声に構うことなく美月センパイは続けた。美月センパイの部屋にお泊り。学年が違うから行事が一緒になることはなかったし、家を行き来することはあってもお泊り会をしたことはない。美月センパイと夜まで一緒に過ごすのは初めてだ。どうしよう。もう心臓が揺れすぎて痛い。 「みのり?」 「は、はい」 「どうする? やめておく?」 「やめません! 泊ります!」 「……うん。了解。じゃあ細かい日程はまた後でね」  小さな笑いを含ませたまま、美月センパイが優しく言って通話は終了した。  静かになった画面を見つめていると、予鈴が鳴った。教室に戻らないと。午後の授業の憂鬱さなんてどこにもない。ふわふわと体が軽くて、胸は弾むことをやめない。美月センパイに会える。それだけでなく美月センパイの部屋に遊びに行ける。実家は何度も行ったことがあるけど、一人暮らしの部屋は初めてだ。お泊りもしていいなんて。普段センパイがどんなふうに過ごしているのか教えてもらえるのだと思ったら、頬は緩み、スキップで教室に帰りそうになった。  そんなふうに浮かれていたから、廊下の角に差し掛かっても注意力は戻らなかったのだろう。 「うわっ」 「ひゃっ」  突然視界を埋めたものが何なのか認識することもできず、衝撃に体が傾く。後ろに転ぶと思われたが、腕を引き止められたことでどうにか堪えた。 「大丈夫ですか」  掴んでいた手が離れ、顔を覗き込まれる。高遠先生の目が眼鏡の奥で不安げに揺れる。  咄嗟に距離を取ろうと動いた足が床を擦り、キュッと上履きが鳴った。 「だ、大丈夫です」  不規則に跳ね上がる鼓動を落ち着けようと息を深く吸いこむ。すると窓からの風が甘く柔らかな香りを運んできた。――ジャスミンの香り。一瞬でわかってしまう。胸の奥を染め上げられてしまう。ほんの数分前まで聞こえていた声が、内側で再生される。  ――みのり?  美月センパイが名前を呼んでくれるだけで嬉しくて切なくて胸が苦しくなる。美月センパイはここにいないのに。会いたくてたまらない。ジャスミンの香りひとつで泣きそうになるほど私は美月センパイのことが好きだ。 「ケガはないですか?」  落とされた声に、クン、と記憶の端を引っ掛けられる。忘れていたものが釣り上げられそうになる。そうだ、私は美月センパイに高遠先生のことを……。 「あ、はい。大丈夫です」  高遠先生に笑顔を返しながら、美月センパイの顔を浮かべる。何か聞こうと思っていた気がするのに、靄がかかったように思い出せない。記憶の欠片を引っ張り出そうとすればするほどそれは頑なに水底へと沈もうとする。まるで水の中に閉じ込めようと誰かがしているみたいに。 「気をつけましょうね、お互い」  てっきり一方的に注意されると思っていたのに、高遠先生は「今のは僕も悪かったので」と小さく笑う。その表情が思いのほか幼く見えて、なんだか得をした気分になる。 「はい。失礼しました」  くすぐったくなった胸を隠して、私は教室へと向かった。
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