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7.魔女のうた
――付き合ってたの。
美月センパイの声がぐるぐる回る。
――中学のときに少しだけ。
シートベルトをぎゅっと両手で掴む。窓の向こうの景色はただ滑っていくだけ。嗅ぎ慣れた家の車の匂いも、シートから伝わる振動も意識の外にある。
――ごめんね。みのりに知られるの、こわくなっちゃって。
駅にたどり着いたとき、私も美月センパイも自然と足を止めていた。予定ではこのままスーパーに寄って、美月センパイの部屋に行くことになっている。でもうまく体が動かない。伝えられた事実を飲み込めない自分がいた。
美月センパイにとって高遠先生とのことは魔法を使ってしまうほどのことだった。素直に話せないくらいのことだった。それは美月センパイの中で過去になっていないということではないだろうか。話したら私が怒ると思った? 泣くと思った? 怒れたらよかった。「どうして」って。泣けたらよかった。「私にはしてくれないのに」って。繰り返される問いは体の中で膨らみ続けるのに言葉も涙も出てこない。美月センパイのことがわからない。わからないことが悔しくて、悲しくて、たまらなかった。
「みのり」
美月センパイが名前を呼んだのと、私のスマートフォンが震えたのはほぼ同時だった。咄嗟に画面を確認すれば母からの着信を示している。
「出ていいよ」
美月センパイの言葉に押されるように通話ボタンをタップする。「ごめんね」母の声が申し訳なさそうに響き、小さなため息のあと「おばあちゃんがどうしてもみのりに会いたいってきかなくて」と告げた。
「ごめんね」
運転席に座る母の声に顔を上げる。
「ううん」
迎えに来てもらってから今まで、母とちゃんと会話していなかったことに気づく。祖母の心配よりも美月センパイのことを考えてしまっていた自分が恥ずかしかった。予定を変えられて不貞腐れているように見えたかもしれない。むしろ予定が変わったことにホッとしているくらいなのに。あのまま美月センパイと過ごしてもきっと楽しめなかっただろうから。
「みのり」
前を向いたまま母が名前を呼ぶ。
「おばあちゃんね。もう長くないの」
え、と零れた声は音にならなかった。
「いろいろ検査したらね、見つかっちゃって。手術する体力があればよかったんだけど、ちょっと難しくて」
それは初めて見る母の「娘」としての顔だった。
「……そう、なんだ」
「みのりが大事な時期だっていうのもわかってるんだけど、どうしてもって言われたら断り切れなくて」
本当にごめんね、と母が何度目かわからない謝罪を口にする。
「ううん。教えてくれてよかった。私おばあちゃん大好きだもん」
「……うん」
それとね、と付け加えられた言葉に私は静かに息を飲み込んだ。
祖母は角度の調整されたベッドで半身を起こし、窓の外を眺めていた。四人部屋だけど、ほかの人はどこかに出ているらしく、室内にいるのは祖母だけだった。
「おばあちゃん」
「みのりちゃん」
振り返った祖母はふわりと柔らかく花が咲くみたいに笑う。
ぎゅっと胸の奥が痛くなる。
「よく来たねえ。夏休みの宿題は持ってきた?」
思わず隣の母へと視線を向けた。母が小さく頷き、そういうことか、と理解する。
「うん。持ってきたよ」
――今のおばあちゃん、みのりのこと小学生くらいだと思っているみたいなの。
「じゃあ、早く終わらせましょ。お友達と遊びたいでしょう」
友達? 祖母の言葉に疑問符が浮かぶ。
「お友達が来るまで、おばあちゃんが代わりに歌ってあげるからね」
うた? 小学生の私は毎年夏休みに祖母宅に帰省していた。お盆の一週間だけなので、友達なんていなかったし、うたを一緒に歌っていた記憶もない。この口ぶりだとその友達が歌っていたみたいだけど。
戸惑う私には構わず、祖母がメロディに言葉を乗せる。
魔女のうたは祝福 愛する人に捧げる祝福
それは一度きり 心に決めた人だけに
魔女ではない私を見せる瞬間
触れ合わせた先から
魔法は祝福に変わる
一瞬で体の中がざわめく。どうして、と。
「あら、懐かしい」
母の柔らかな声に私は思わず振り返る。
「お母さんも、知ってるの?」
「みのりが繰り返し歌ってたから覚えちゃったのよ」
「私が……? 私は、誰かと一緒に遊んでた?」
「帰省のときは、いつも一人だったけど――」
母が記憶を手繰っていく。
「でも、そうね、目を離した隙にいなくなったことが一度あって」
母の視線が私の右手首に落ちる。
「すぐに見つかったけど、手首にハンカチが巻いてあって、ケガでもしたのかと心配したことはあったわね」
卒業式の日、美月センパイに巻かれたスカーフを思い出す。形にならなかった既視感も。
「ケガはなかったけど、みのりは『友達が助けてくれたから大丈夫』って」
それって、と質問を重ねる前に母が「お母さん、先生のところに行ってくるわね」と部屋を出ていく。祖母のうたはまだ続いていた。私の知らない歌詞が紡がれる。
魔女のうたは祝福 愛する人に捧げる祝福
祝福は呪い 魔女を捉えて離さない
魔女のままの私を失くす瞬間
触れ合わせた先から
呪いを祝福に変えて
魔女のうたは祝福 愛する人に捧げる祝福
それは一度きり 心に決めた人だけに
そんな続きがあったなんて知らない。
「懐かしいねえ」
祖母の目に私は映っていない。ここにはいない誰か、遠い記憶の先を見ている。なぜだかそんな気がした。
「おばあちゃんも昔、『魔女のおうた』を教えてもらったんだよ」
魔女、という言葉に美月センパイの顔が浮かぶ。
「でも、おばあちゃんはその子の魔法を解いてあげられなかったの」
魔女。魔法。祖母の言葉を戸惑うことなく受け止められる自分がいる。だって私は美月センパイと出会ってしまった。
「おばあちゃんも、魔女に会ったことがあるの?」
視線が繋がる。細められた水面には寂しさが浮かんでいる。美月センパイが「バレちゃったか」と言ったときと同じ。
そっと息を吸い込んでから私は口を開いた。
「おばあちゃん」
ゆっくりと繰り返される瞬きをまっすぐ見つめる。
――魔女の魔法はね、好きな人とキスをすると解けちゃうの。
美月センパイはそれしか言わなかった。でも本当は他にも必要なものがあるのではないだろうか。私はそれをまだ持っていないから、だから美月センパイはキスしてくれないのかもしれない。
「魔法って、どうやったら解けるの?」
部屋に着くと、お泊りのためにと準備したあれこれを解くこともせず、ベッドに寝転がった。窓の向こうからは雨の音。あんなに晴れていたのに、病院を出た頃に降り出した。
「……雨」
あの雨の日。美月センパイが直してくれた傘で一緒に帰ったあの日。美月センパイの歌に懐かしさを感じたけれど、何も思い出すことはできなくて、「なんの歌ですか?」と聞いた。美月センパイは何も答えてはくれなかった。
壁に向けていた体を反対に向ける。カバンと大学名の入った紙袋が畳の上で寄り添っている。美月センパイと一緒にいたのが数時間前とは思えないくらい遠くに感じる。
「……美月センパイ」
名前のあと。隙間から歌が零れていく。震えながら落ちていく。
魔女のうたは祝福 愛する人に捧げる祝福
それは一度きり 心に決めた人だけに
魔女ではない私を見せる瞬間
触れ合わせた先から
魔法は祝福に変わる
――その歌……。
高遠先生の声が蘇る。
――それだけは叶えてあげられない。
いつかの美月センパイの声も。
ああ、そうだ。思い出した。私はこう言ったんだ。
「いつか絶対奪ってみせますからね。美月センパイのファーストキス」
美月センパイは、魔法よりも高遠先生を選んだのだ。
魔女のうたは祝福 愛する人に捧げる祝福
祝福は呪い 魔女を捉えて離さない
魔女のままの私を失くす瞬間
触れ合わせた先から
呪いを祝福に変えて
魔女のうたは祝福 愛する人に捧げる祝福
それは一度きり 心に決めた人だけに
痛かった。苦しかった。
美月センパイに好きな人がいたから、じゃない。
美月センパイのことを忘れていたから、じゃない。
――魔法、解けなかったの。
私に歌を教えなければ。
――私、豊君のこと、本当は好きじゃなかったんだよ。
私に出会っていなければ。
――だからみのりは気にしないで。
二人はきっと……。
瞼で閉じ込めても流れていくそれは、雨にはない熱を孕んだまま落ち続けた。
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