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8.魔法の解き方
いつのまにか眠っていたらしい。気づけば、部屋の中は暗かった。窓の向こうでは変わらず雨の音がする。どれくらい寝てしまったのか。スマートフォンを探して、枕元に右手を彷徨わせたが、何も見つけられない。ぼうっと重い頭で振り返れば、カバンから出していなかったことに気づく。
はあ、と息を吐き出してから起き上がる。目の周りが痒い。瞼が腫れているのは鏡を見なくてもわかった。――美月センパイ。名前を呼ぶだけで胸の奥がきゅっと痛む。乾いたはずの涙がもう一度生まれそうになる。ぐっと喉に力を入れて堪えるが、言葉は滑り落ちた。
「……どうして」
どうして、美月センパイは魔法を解こうとしないのか。
足の裏から伝わる畳の感触。ここに越してきてもうすぐ二年。明かりを点けなくても自然と体は動く。
薄暗い部屋の中、カバンの前にしゃがみ込む。外ポケットに入れていたスマートフォンを取り出せば、画面が明るくなる。眩しさに目を細めながら確かめる。時刻は午後八時。並んだ数字の下には通知の吹き出しが浮かぶ。
――不在着信。
美月センパイからだった。かかってきたのは十分ほど前。いつもならすぐにかけ直すのに。体が動かない。会えて嬉しかった。直接名前を呼ばれて嬉しかった。美月センパイの隣にいるだけで嬉しくて。嬉しい気持ちでいっぱいの日だった……のに。
美月センパイが好きだから、だから、こわい。だって私は知ってしまった。どうしたら魔女の魔法が解けるのか。
――魔法って、どうやったら解けるの?
――魔法を解くにはみっつ必要なの。
――みっつ?
「ひとつ、魔女が祝福を与えること」
――祝福って、うたのこと?
――そう。でもこれはたった一度しか与えられないものだから、とっても大事なの。
「ふたつ、魔女が心から想う相手を選ぶこと」
――本当に好きなひとってこと?
――そうね。
「みっつ、唇を触れ合わせること」
――キスはしないでね。
思い出したのは祖母の声ではなく、美月センパイの声だった。
「……っ」
魔法を解く鍵を私はすべて持っている。
今なら魔法を解くことができる。
それなのに美月センパイは拒み続ける。
高遠先生のときは、失くしてもいいと思ったくせに。どうして私には思ってくれないのか。美月センパイの好きな人は私ではないのだろうか。ふたつめの「心から想う相手」に私はなれていないのだろうか。だから、美月センパイは……。
――おばあちゃんは、どうして魔法を解いてあげられなかったの?
――さあ。どうしてだろうね。
祝福を別の人に渡してしまったあとだったのか。好きな人になれなかったのか。キスができなかったのか。どれかはわからない。わからないけど、懐かしむまなざしには寂しさが滲んでいて、きっと祖母は本気で魔法を解こうとしたのだろうと思った。
暗くなっていた画面が再び明るくなると同時、振動が手から伝わってきた。美月センパイの名前が表示される。ぎゅっと痛む心臓を無視して指先で触れる。
――みのり?
ほんの数時間前までは直接響いていた名前が、機械越しに戻る。ただそれだけのことに悲しくなる。何もなければ今も隣にいたはずなのに。
「……美月センパイ」
――おばあちゃん、大丈夫だった?
変わらない。美月センパイはいつもと同じ。優しいまま。私が好きになったセンパイだ。
「はい、大丈夫、でした」
もう長くはない、という母の言葉は胸に置いておく。今はまだうまく口にできないから。
――そっか。よかった。
心配してくれていたことが伝わってきて、鼻の奥が痛くなる。美月センパイはこんなにも変わらずいてくれるのに、私は……。
「美月センパイ」
――ん?
「私じゃ、センパイの魔法は解けないんですか……?」
堪えてきた熱が抑えきれずに溢れ出す。乾いた肌を再び雫が流れていく。センパイ。美月センパイ。私はこんなに美月センパイのことが好きなのに。どうして。どうして私とは一緒に魔法を解こうとしてくれないの。私はしゃくりあげながら祖母から聞いた話を伝える。魔女の魔法。魔女のうた。過去に会っていたであろうことも。
「私が、忘れていたから、ですか? だから」
――みのり。
決して大きくはないのに、美月センパイの声はしっかりと私の中で響く。胸に刺さった針を震わせる。
――違うの。
僅かな間のあと、美月センパイは言った。
――私がみのりに魔法をかけたの。
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