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あれから二年経ち、僕は高校二年生になった。姉さんは、家から電車で一時間弱の大学に通っている。一つ年下のカノジョさんとは、進学先は別々になったけど、まだ交際は続いているみたいだ。
正直、ちょっと羨ましい。
高校の正門を潜り、日陰を選んで校舎に足を進めながら、ふとそう思う。あの頃のことを思い出したからだろうか。もちろん、中学時代の恋愛に未練を残しているわけじゃないけど。それでもやっぱり、相思相愛の状態で交際が何年間も続いているのは羨ましい。だって、今の僕は――
「おはよう、愁一!」
背後から聞こえた大声に、思わずビクッと肩を竦ませた。
振り向く間際、周囲の生徒たちの囁き声が耳に入る。
「ねえ、あの人って――」「ああ、部活の先輩が言ってた。例の人だよな」
「声掛けられてる人、友達なのかな」「おい、目ぇつけられる前にとっとと行くぞ」
好奇心半分、関わりたくなさ半分と言った調子の声が多い。
彼の声はよく通るし、良い意味でも悪い意味でも……どちらかといえば後者の方で、校内では名が通っている。彼に声を掛けられる度に、周囲の囁き声が耳に届くので、一年強の付き合いで、もう慣れてしまった。
「おはよう、ユキくん」
僕は振り向いて、微苦笑を交えた挨拶を返す。そこにいたのは、僕より少し高い、平均的な身長の男子生徒。蒸し暑さが厳しくなってきたこの時期でも制服のシャツのボタンをきっちり上まで留めて、ネクタイまで締めている、生真面目そうな身なり。
彼の名前は、朝瀬初雪。僕と同じ二年A組で、同じ文芸部の、親しい友達だ。
「どうしたんだ愁一、元気がないじゃないか」
僕の微苦笑をどう捉えたのか、ユキくんは大股で近寄ってきたかと思うと、サッと身を屈めて僕の顔を覗き込んでくる。僕は咄嗟に一歩退いて、彼を押しのけるように両手を前に出した。
「だ、大丈夫だから、そんなに顔近づけないで」
「ああ、すまない。パーソナルスペースを見誤ってしまったようだな」
ユキくんはそう言うと、さりげなく僕の隣に並んだ。歩き出す彼に少し出遅れて、二、三歩ほど早足になって隣に追いつく。
歩調を緩めながら、内心、ホッと胸を撫で下ろすような気分でいた。
さっきは咄嗟に飛び退いて、大袈裟な反応をしてしまったけど、ユキくんには変に思われていないみたいで、本当によかった。
まあ、ユキくん自身、大袈裟で大仰な言動が標準装備だから、僕が彼を押しのけるくらいは、彼にとっては大袈裟な反応の範疇に入らないのかもしれない。
「ああ、そうだ愁一」
昇降口で靴を履き替えていた時、ユキくんがふとしたように切り出した。
「今日の昼休み、時間はあるか? 付き合ってほしいことがあるんだが」
「えっ? 時間はあるけど、……付き合うって、まさか」
ざわざわとした予感めいた感覚が胸中を占める。悪い予感というわけではないけど、なんとなく据わりが悪くて落ち着かない、そんな感じ。
僕が言いかけたのを遮るように、ユキくんは「ああ!」と言葉を次いだ。
「今日の昼は、数学の日下部先生に喧嘩別れした恋人と復縁できたのかを訊くため、職員室に赴く予定だ! 愁一もついてきてくれるとありがたい!」
ああ、やっぱり。内心でため息をつく。予感が当たって、余計に胸がざわついた。同時に、昇降口にいた同級生たちの囁き声も聞こえてくる。
「朝瀬、また何かやらかすつもりかよ」「今日の昼は職員室に近寄らない方がいいな」
「また巻き込まれてるね、野々くん」「朝瀬くんに弱みでも握られてるのかな」
いや、周囲の言うことを気にしてる場合じゃない。とにかく今は、ユキくんを説得しないと。
「ユキくん、ひとのプライベートなことを大声で言うのはよくないと思うよ」
「ああ、それもそうだな。今後は気をつけよう」
「それに、この前も他の先生にそういう話を聞きにいって煙たがられてたでしょ? そろそろ職員室出禁になってもおかしくないんじゃ……」
「だからこそ、愁一に付き合ってほしいのだ! 愁一がいると先生方の反応が幾分か柔らかくなるからな!」
悪びれることなく胸を張るユキくんの様子に、諫めるつもりでいたはずの気持ちが萎んでいく。
ユキくんは週に二、三度の頻度で、職員室や、他クラス・他学年の教室、放課後の部室など、校内の様々な場所に乗り込んでは、生徒や教師から恋愛話を聞き出す、ということを繰り返している。
煙たがられたり、逆に『相談に乗ってもらえてよかった』と感謝されたり、反応は人によって多種多様だけど、ユキくんは決して、単なる興味本位で他人の恋愛事情を訊き回っているわけではない。
「もう、わかったよ。けど、日下部先生が嫌がってたら、僕が止めに入るからね?」
「ああ、助かる! ――俺が究極のラブコメ小説を完成させるためには、より多くの恋愛話を聞き集める必要があるからな!」
ユキくんは小説家を志していて、特にラブコメディに深く傾倒している。
そんな彼が他人の恋愛話を聞いて回るのは、彼自身が恋愛経験を積むことは難しい……というより、不可能に近いから。
ユキくんは、自身が無性愛者――Aロマンティック・Aセクシュアルであることを公言している。
彼自身は、誰にも恋愛や性愛の感情を抱くことはない。しかし、物語の中の恋愛や他人の恋愛話を見聞きしていると、――例えば〝これは憧れから恋愛感情に発展するパターンだな〟とかいったような――ある種の法則性を見出せることがある。
そういった恋愛に関する法則性を一つ一つの要素に分解し、理論的に取捨選択して組み立てていけば、無性愛者の自分でもラブコメディを書けるのではないか。
そんな思いつきを、ユキくんは『ラブコメ理論』と名づけ、その理論を用いて彼の思う〝究極のラブコメ小説〟を書くために、多くの人物から恋愛話を聞き集めているというわけだ。
無性愛者だと公言しているのも、彼曰く『個人の内面に踏み込む話を聞き出すなら、こちらがどのような思惑で聞こうとしているのか明かさなければ不誠実ではないか』という意図があるらしい。……まあ、それを公言することが誠実さに繋がっているかどうかは、僕にはよくわからないけど……。
「でも、どうして先生にまで聞こうとしてるの?」
二年生の教室のある二階に向けて階段に足を掛けながら、僕は隣を歩くユキくんを横目で見ながら尋ねる。
「ユキくんが今書いてるのって、確か高校生が主人公のラブコメだよね。だったら、生徒に話を聞く方に集中した方がいいんじゃない? 学生の恋愛と社会人の恋愛は、結構違うだろうし……それに、先生に聞くのを一旦やめたら、目をつけられることも減ると思うんだけど」
「個人の恋愛話を聞く時は、その時々の感情や状況を把握することが重要だからな。一旦聞くのをやめると、すぐに流れが分からなくなってしまう。それに、今は学生が主人公のラブコメを書いていても、いずれは社会人が主人公のラブコメを書くこともあるかもしれない。今から話を聞いておいて損はないだろう!」
「それは、そうかもしれないけど。……最近ユキくんだけじゃなくて、僕に対しても、先生たちの目が厳しくなってる気がするんだよね」
ぼやくような調子で僕が言うと、ユキくんはハッとして踊り場で立ち止まる。
「そうだったのか。すまない、俺の目標のために、愁一に迷惑を掛けていたことにも気づけなくて。今日の昼も、無理につき合ってほしいわけではないんだ」
「あっ、別に、ユキくんの目標に付き合うのが嫌ってわけじゃないからね! むしろ、他の人に迷惑が掛からないようにブレーキ役を務めるのが僕の役目だと思ってるし」
「しかし、愁一自身には非がないことで先生方の心象を悪くするのは……」
ちょっとした文句のつもりだったのに、思ったよりも重く受け止められてしまった。僕は慌てて、彼の沈んだ声を遮る。
「本当に、いいんだって。っていうかユキくん、僕がついていかなかったら、一人で行くつもりでしょ? それでユキくんが暴走した時に止められなかったら、その方が嫌だなって思うし」
そこまで言葉を連ねても、まだユキくんの表情は晴れなかった。
これ以上続けると、余計なことまで言ってしまいそうだ。そう自覚しつつも、今のユキくんをこのままにしておくのは忍びなくて、もう一言つけ加える。
「いつもユキくんが、目標のための道連れとして僕を選んでくれるのは、それなりに嬉しく思ってるから」
言ってから、すぐに顔が熱くなる。こんな恥ずかしい台詞を、生徒たちの往来の中で放つなんて。その癖、大胆になり切れずに『それなりに』と日和ってしまっているのが、余計に羞恥心を膨らませる。
ユキくんから目を逸らして、「とりあえず、教室行こ」と促し、先に歩き出す。
階段を昇り切る辺りで、ユキくんが追いついてきた。
「なかなか嬉しいことを言ってくれるな、愁一は」
掛け値なしに、嬉しそうに弾んだ声で、そんなことを言う。僕の言葉を真正面から受け止めた結果の反応なのだろうけど、先程までの落ち込んだ様子からの切り替えが早くて、気が抜けてしまう。僕も平静を取り戻して、A組までの短い廊下を歩く間、何気ない調子で話すことができた。
生真面目で、馬鹿正直で、それ故に変な方向に突っ走ってしまうこともあるけれど、根っこの部分にある信念と誠実さは、どんな時でも見失わない。
ユキくんがそういう人だからこそ、僕は彼のことを、傍で支えたいと思っている。少なくとも、ユキくんと出会って、彼の人となりを知った初めの頃は、そうだった。
今も、その気持ちがなくなったわけじゃない。
けれど、彼の生き様に付き合うにつれて、少しずつ、別の理由で彼の傍にいたいと思う気持ちが、心の大部分を占めるようになっていた。
やっぱり、姉さんが羨ましいな、と思う。
好きな人と相思相愛になれるなんて、――その〝好きな人〟が無性愛者だったら、絶対に叶わないことだ。
今の僕が、ユキくんに恋しているこの気持ちが報われる日は、絶対に訪れない。
それでも僕は、彼の傍を離れようとは思わない。
ユキくんが夢を叶えるために、真っ先に頼れる〝特別〟な相手として、僕のことを見ていてくれるなら。
たとえ、僕の欲する〝特別〟とは形が違ったとしても、充分に、嬉しいのだから。
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