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一 偽りの出会い
「園子。では行ってきますね」
「お姉様。留守番をよろしく」
「はい……」
「おい。戸締りをしっかりしろよ」
母と妹と、そして父は外出していった。長女の園子は施錠をしてため息をついた。
華族、大原家の屋敷の窓からは三人が楽しそうに車に乗り込むのが見えた。
「お嬢様。御茶を淹れましょうか」
「いいえ。要らないわ。私、部屋にいます」
婆やの優しい声に園子は力なく応えると、自室に向かった。
……そうだわ。本の続きはあの部屋に。
読みたかった本を取りに書斎への廊下を歩くと使用人達の声が聞こえた。
「しかし。園子様だけを置いて買い物に行くなんて、よくそんな意地悪なことができるわね」
「私が来た時からそんな感じだけど、この屋敷ではこうなのよ」
「どうしてなの?園子様が何かをしたの?」
「ここだけの話よ」
園子がそばにいる事を知らない使用人はおしゃべりをした。
「奥様は園子様のお産の後、体調を崩されたのよ。だから園子様は御婆様のお屋敷でお過ごしだったの。そして奥様が元気になったので園子様もここにいらしたのだけど、その頃には妹の品子様が生まれていたのよ。奥様はすっかり品子様に夢中で、園子様に関心がないのよ」
「確かに。園子様はだけ雰囲気が違うものね」
この話を聞いた園子はそっとこの場を離れた。廊下を進むと壁には祖父母の肖像画が飾ってあった。
……お爺様。お婆様……懐かしい。
幼い頃、祖父母の元で暮らしていた園子は、いつか家族みんなで暮らせることを夢見ていた。しかし実家を離れていた時間は長く重く、園子と家族の関係を薄めていた。
さらに愛くるしい妹はこの家のお姫様であり、血の繋がりだけでこの屋敷にいる園子は、ただの同居人扱いだった。
こうして園子は留守の屋敷で読書をして過ごしていた。
そんなある日。女学校から帰って来た園子は両親に部屋に呼ばれた。
「いかがされましたか」
「園子。突然だがお前には学校を辞めてもらうよ」
「これは家族会議で決まったのよ」
「え……それは、どうしてですか」
あと半年で卒業の園子は驚きで両親を見つめた。
「実はな。私の事業に問題が起きたのだ」
父の事情不振のため生活費が乏しくなる恐れがある、と父は言い出した。
「園子。家族が困っているのに、あなただけ楽をするなんてことはできないでしょう」
「お母様。園子は勉強に通っています。楽なんて決して」
「お黙り!」
ここで母は園子の頬を平手打ちした。
「母に向かって口答えするなんて、何てことでしょう」
「そのくらいにしなさい!ともかくこれは決定だ」
口の中が血の味がした園子は、静かに父に向かった。
「ではお父様。品子も退学ですか」
「なにを言う。品子は幼いんだぞ。退学させたら可哀想だ」
「あなたはお姉さんでしょう?妹を助けたいと思わないの」
……やっぱり、私だけが退学なのね。
両親は園子に非道な言葉を浴びせ続けた。心まで冷えてきた園子は諦めた。
「わかりました。明日、学校にお話ししてきます」
「退学の理由はお前のせいにするのだぞ。私の顔に泥を塗るようなことはするな」
「わかったわね」
「……はい」
力なく返事をした園子は部屋に入れ替わりに入って来た品子とすれ違った。
「お母様。今度、学校で写生会で郊外に行くそうよ」
「まあ。楽しみね。そうだわ!お母様が新しい絵の具を買ってあげる」
「うれしい!」
園子の背後には家族団らんの声がしていた。園子は無言で自室に入ると、鞄から封筒を取り出して読んでいた。
……大学の推薦状。先生が推してくれたのに。
女学校での園子は成績優秀であり、学年の代表を務める立派な生徒であった。そんな園子を教師は大学に推薦してくれたが、園子は用紙に雫を落とした。
……行けないわ。たとえ入学できたとしても無理よ。
両親の意見を強行突破し、通うという光もあった。しかし園子にはその勇気がなかった。
無能、邪魔、嫌われ者、役立たずと見下されて育った園子は、父に逆らう事が出来なかった。
……もう、終わったのね。
友人、先生。楽しかった学校生活。家に居場所がなかった園子の唯一の安らぎの場は、これで終わってしまった。
「園子!どこにいるの。お風呂はどうしたのよ」
「すみません。今行きます」
母の呼ぶ声に園子は涙を拭い家事に向かった。
残酷な仕打ちを受けた園子は、笑顔の父と母と妹のために家事を行った。
そして翌日。母に付き添われた園子は教師が反対する中、母の強い意思で女学校を退学した。
「園子。あなたに話があります」
「はい」
退学届を出した夜。園子は両親に呼ばれた。
「これからの事だがな。お前、金曜日に開催される夜会に行きなさい」
「夜会ですか」
「ええ、そうよ」
退学の謝罪も労いも無く、まるで何事も無かったような両親に園子はぞっとした。
さらに退学時の鬼のような顔とは別人で、母は見た事が無いような笑顔で話した。
「あなたは勉強ばかりで社交界には無頓着でしたね。でもこれからはそうもいきません。よってその夜会に行ってみましょうね」
……どうしてかしら。今まで私には行くなといっていたのに。
以前から品子には高価なドレスを着せて夜会に行かせていたが、園子は一度も連れて行ってもらったことはなかった。この掌返しの両親の様子に園子は恐る恐る確認した。
「あの。それはどういう会なのですか」
「若い貴族同士の親睦会さ」
「園子。ドレスも用意したのよ。ね?せっかくだから行きなさい」
「……は、はい」
奇妙であったが断ることもできず、園子は部屋を後にした。
そして家事をこなす日々を過ごしていたが、当日を迎えた。
「お母様、これでよろしいですか」
「そうね。そろそろ車が迎えに来る時間ね」
母が用意したのはどこか古臭いドレスだった。しかし古風な園子に似合っていたがドレス姿に全く関心がない様子の母の背を、園子はじっと見ていると部屋に品子が入って来た。
「あ。お姉ちゃんだけずるいわ」
「品子」
「お母様。私も行きたい、どうしてお姉ちゃんだけなの」
母にわがままを言う様子を園子はただ見ていた。
「今回は我慢なさい。そうだわ品子!あなたには新しいドレスを作ってあげるから。園子も早く行きなさい」
「はい」
まるで追い出されるように園子は屋敷の車に乗った。
……でも夜会なんて。どうしたら良いのかしら。
うつむき不安そうな園子に対し、運転手の爺やは優しく語った。
「お嬢様。途中で青山屋敷に寄って、慶子さまもご一緒ですので」
「わかりました」
どこか励ましに聞えながらも運転手は従姉妹の屋敷に立ち寄った。園子より一つ年上の慶子は車に乗っていた園子を見てびっくりしながらも共に後部座席に座った。
「今夜は品子じゃないのね」
「はい」
「でも楽しみね。今夜の集まりは」
従姉妹の慶子は品子を上回るわがままお嬢様で、縁談がなかなか決まらないと園子の父がぼやいた娘だった。従姉妹であるが今まであいさつ程度しか会話が無かった園子は、夜会に慣れている慶子に少し安心した。
「独身貴族限定の集まりって、珍しいものね」
「あの……慶子様。私、夜会に参加するのは初めてです」
「え」
俯く園子に慶子は驚いた。
「そうなの?だって品子はあんなに夜会に出ているのに」
「妹はそうですけれど、私は初めてなのです。慶子様、園子はお邪魔にならないようにしますので、どうかご指導願えませんか」
「ご指導って。でも」
面倒そうな慶子に園子はすっと頭を下げた。
「お願いします。従姉妹として失敗してしまったら、慶子様に恥をかかせてしまうかもしれません」
「……わかったわよ」
嫌そうなため息が混ざっていたが、慶子は了承してくれた。こうして車は会場に到着した。
「園子。私の通りになさいね」
「はい、慶子様」
派手な流行のドレスの慶子の後を、緑色の古臭いドレスの園子は静々と従っていた。
……華やかなのね。私よりも年下の女性もたくさんいるわ。
受付や参加者に挨拶をしながら会場に入った慶子は、扇子を持ち、そっと囁いた。
「園子。あの柱の所で話をしている女性達は、薔薇組よ」
「薔薇組?」
「声が大きい!あのね」
慶子の話では、彼女達は一番人気がある女性仲間だと話した。
「お美しいし、男性に人気もある爵位が上の方々よ。そして、窓側にいるのが百合組。薔薇組の下になるけれど、人気があるのよ」
……階級があるのね。でもどの方もお美しいのに。
煌びやかな世界に戸惑う園子に、慶子も周囲を見渡した。
「私は百合組なの。でもこれから薔薇組に挨拶をするから。園子も失礼のないようにしなさい」
「はい」
言葉はきついが慶子は丁寧に園子を引き連れ、薔薇組の女性達の元にやって来た。
「皆様こんばんは。恐れ入ります。今宵は従姉妹を連れて参りましたの」
「初めまして。大原園子と申します」
緊張している園子に薔薇組の女性達は目を細めた。
「まあ。可愛らしい方ね」
「素敵なドレスね」
「初めて見るお顔ね」
「……お褒めの言葉ありがとうございます。園子」
「はい」
慶子に肘を付かれた園子は丁寧に頭を下げた。
「どうぞよろしくお願いします」
こうして挨拶を終えた二人は、どっと疲れたがやっとほっとできた。そして百合組に挨拶を終えた後、慶子は園子に飲み物をくれた。
「私も一応、百合組だから安心して。はあ。これで一通り終わったわ」
「ありがとうございます。あの慶子様」
「ん」
園子は静かに慶子を見つめた。
「私は、あの窓側におりますので、どうぞお仲間とお話してくださいませ」
……慶子様はこの夜会を楽しみにしているのですもの。これ以上、甘えられないわ。
「そこから眺めて時間を過ごしております。一人でも大丈夫です」
「……そう」
……品子と全然違うのね。
慶子は親から園子が冷遇されている話を聞いていたが、園子に原因があると思っていた。しかし、こうして一緒にいると園子の人柄の良さに感心を抱いていた。
……品子だったら男探しに忙しいのに。それにそのドレス。
今宵。流行のドレスの女性の中、園子だけは見た事が無いドレスを着ていた。側で見れば古いものだと慶子にはわかるが、新参者の園子は初々しく美しく斬新に映え、非常に目立っていた。
「では、これで」
「園子。お待ちなさい」
真顔の慶子は思わず腕をつかみ、耳にささやいた。
「いい事?男性と二人きりになってはいけないわ。そして人がくれた飲み物は飲まないで」
「え」
「今夜はそういう男性がたくさん来ているの。私も園子を見ているけれど、お友達がいるから目が届かないかもしれないわ」
「慶子様」
優しい慶子に園子は驚きで見てしまった。
「ありがとうございます」
「べ、別に。私達は従姉妹でしょう」
園子に微笑まれて恥ずかしそうな慶子の背後から女性達がやってきた。
「まあ、慶子さん。先日のお茶会ではお世話になりました」
「は、はい。では、そういう事よ。園子。帰りは一緒に帰るわよ」
「はい」
慶子の温情を胸に抱いた園子は、そっと会場の隅に移動しようと動いた。華やかなの男女のおしゃべり畑の中を、園子は緑色のドレスで気後れながら進んだ。
「やあ。君。初めて見る顔だね」
「……はい。すみません。私、失礼します」
何とか目を合わせないように園子は声を掛けて来る男性達を交わし、やっと目的地の窓辺に到着した。
……ふう。ここなら誰にも声を掛けらないわ。
壁の絵画に溶け込むように園子は慶子にもらった飲み物を持って立っていた。そして夜会の様子を観察していた。
薔薇組の女性達は煌びやかで話し掛け来る男性達と、笑顔で楽し気に話をしていた。
……でも、どうしてかしら、怖い気がする。
女性達の化粧の顔や、にこやかな甘い顔の男性達は心から笑っていないように見えていた。俯瞰の世界で見ている園子には、会場にいる人たちは談笑の演技をしている劇に見えていた。
「君はここで何をしているの」
「え。あ」
「さっきから人ばかり見ているけれど、お目当ての人でもいるのかな」
いつの間にか隣に立つ男性は、にこやかに話しかけてきた。
「いいえ。そんなつもりはありません」
「……僕は九条亜佐比と言います。君は?」
「私は。大原園子です」
「大原園子さん。そう」
……うわ。素敵な人。
彼は園子でも着ている服が高価だということが分かった。さらに彼は注目されているようで彼の背後には女性達の熱い視線が集まっていた。
「私、失礼します」
「ねえ待ってそのドレス、素敵だね」
彼は園子の行く手を阻むように彼女を囲んだ。
「ありがとうございます。あの、私はこれで」
「……飲み物はどうかな」
……慶子さんは貰っちゃダメって言っていたわ。
引き止められた園子は、心臓の動悸を深呼吸で抑えた。
「私は、あるので結構です」
「食べ物は?それに、そこは風がくるので寒いでしょう」
そう言って彼は園子の背にそっと手を添えた。
「う?あの、私は本当にこれで」
エスコートなどされた事が無い園子は、彼の温もりにドキドキしていた。
「園子さんと言ったね。夜会はこれからだよ。せっかく来たのだから楽しまないと」
彼は戸惑う園子を伴い、人波を掻き分け会場の中心に進んだ。
「あの。恐れ入ります」
「どうしたの?」
恥ずかしさで頬を染める園子は彼に願った。
「私はこういう席は初めてなのです……お願いです。御手を、どうかお離し下さいませ」
先ほどの窓辺に戻ろうとする園子に彼は眉をひそめた。
「……へえ。これは本物だ」
「え」
「亜佐比様。今宵のお相手はお決まりですか?」
気が付くと彼と園子は女性達に囲まれていた。薔薇組の女性達は熱い視線を彼に投げていた。
「今夜はどうか私と」
「いいえ。私は御手紙で約束してあるのよ」
「亜佐比様。一緒にお話をしましょうよ」
……この隙に。窓辺に戻りたい。
園子など眼中にない世界。この空気に紛れて園子はそっと彼から離れた。
「おっと」
「きゃ」
彼は園子を後ろ手を掴み、くるっと腕に抱きしめた。
「園子さん。僕から逃げるなんてあんまりだな」
腰に手を回し至近距離で見つめる亜佐比に、園子は真っ赤になった。
「お願いです。お離しくださいませ」
「……これはどうしたものかな」
あまりの恥ずかしで涙目の園子を嬉しそうに見つめる亜佐比に対し、女性陣が詰め寄って来た。
「亜佐比様。その方とはどういう関係なのですか」
「ずいぶん親しい様子ですけれど」
「確か。初めてお越しの方ですよね」
「……そうだね。初めて会ったけれど」
しみじみ話す彼は園子から一旦離れた。そして園子の手をそっとつかみ真顔で向かった。
「大原園子さん。どうか僕とお付き合いをしてください」
「え……」
「君に一目ぼれをしたんだ」
……え。嘘でしょう。
にっこり微笑む彼に園子は衝撃で頭が真っ白になった。そんな二人に女性陣の悲鳴に似た声が響いていた。
……嘘よ、これは嘘。
「え?君、大丈夫かい?」
「ちょっと!園子、しっかりしなさい」
あまりの出来事に園子は気が動転してしまった。そして慶子と誰かに抱えられ気が付けば大原家の車に乗せられ慶子と帰って行った。
翌朝。園子は夜会の出来事を父親に報告した。
「で、お前は交際を申し込まれたんだな」
「はい……でも。ご冗談だと思います。私は初めて参加したので」
思い出すとまた心臓がドキドキした園子は、息苦しく胸を抑えた。そんな動揺の園子に父はため息をついた。
「よいか。九条様は華族の中でも上級だ。夜会といえ参加者の前で冗談を言う人ではない」
「お父様はあの方をご存じなのですか」
「いや?その、まあ、彼は有名人だから」
……あの方はそんなに有名なのね。
社交界を知らない園子は、今回の話にすっかり気持ちを振り回されていた。
「それでお父様。園子はどうしたらよいのですか」
「九条様は本気ならこちらに連絡が来るだろう。お前は待っていなさい」
「はい」
そして園子は退室し、自室にいた。
……お手紙なんかきっと来ないわ。あの方は酔っていたのよ。
そもそも年の近い男性と話をした事が無い園子は、そう自分に言い聞かせた。夜会では美麗な女性がたくさんいた。それと比べて自分は見劣りしていたのは事実だった。
……くよくよしても仕方ないわ。この事は忘れましょう。
何かをしていた方が気楽だった園子は、いつものように家事を進めていた。
しかし。その時がやってきた。
「お姉さま。これ」
「品子……あ」
部屋に入って来た妹が手にしていたのは封筒だった。よく見ると宛名は園子になっていた。
「……ど、どうして、亜佐比様がお姉さまを」
「品子。その手紙を見たの?」
様子がおかしい妹に園子は尋ねたが、彼女はびくと動いた。
「よくも私の亜佐比様を」
「痛っ」
品子は園子を殴った。痛さで頬を押さえた園子を見下ろす顔は涙と怒りに満ちていた。
「婚約なんて……絶対認めない」
「品子」
「どうしてよ!どうしてあんたが亜佐比様と」
「品子やめて!」
怒りで園子の髪を引く品子に、園子は必死に抵抗した。
「う、ううう」
「痛い!お願い品子」
やがて泣き出した品子に園子は茫然とした。ここに母が駆け込んできた。
「何が合ったの」
「お母様……お姉様が亜佐比様と婚約なんて、嘘でしょう?」
「品子……」
母は大泣きの品子を抱き寄せた。
「お前にはもっと良い人がいますよ。だからね?落ち着いて」
「いやよ!私は嫌!」
ここに父は顔を出した。
「何を騒いでおるのだ」
「お父様……品子が、その封書を」
唇を切り髪を乱した園子の目線で父は品子に向かった。
「それは亜佐比さんからの手紙か?品子。その手紙を寄こしなさい」
「品子。お父様がそう言っているわよ。ね?お母様に預けなさい」
亜佐比からの手紙を持っていた品子は、涙を拭いながら顔を上げた。
この様子に一同はほっとしたが、品子の手に力が入った。この様子に父は青ざめた。
「お前、それは」
「亜佐比様を……お姉様なんかに渡すものですか」
「品子!まあ。なんてことを」
驚く間もなく品子は手紙を破ってしまった。残酷に破く音とともに細かく手切りした紙は部屋に広がっていた。
……え。私に来たお手紙が。
園子が唖然とする中、品子はその破片を足で踏み始めた。
「こうして、こうして、こうしてやる!」
「愚か者!」
品子を父が容赦なく平手打ちした。大きな音とともに品子は家具を倒し部屋の隅に吹っ飛んだ。園子と母の悲鳴は父の呼吸を乱させた。
「あなた?何をするのですか」
「はあ、はあ。お前達は大原家をつぶす気か!いいから下がれ!俺の前から消えろ!出て行け!」
父は目を真っ赤にして怒り、泣き叫ぶ品子と母を部屋から出した。一人残った園子は、床に散った小さな紙を眺めながら恐る恐る退室しようとした。
「園子よ」
「は、はい」
怒り心頭、肩で息する父は、園子をじっと見た。
「……その内容は、私が電話でお尋ねする。お前は部屋で待機せよ」
「はい」
声を震わせこんなに怒った父を見たことがなかった園子は、痛みも忘れて怒りの部屋を後にした。
その夜。園子は父と話をした。
「あの手紙はやはり縁談の申し込みだった。亜佐比様はお前を気に入ったそうだ。だから園子。お前は九条家に行きなさい」
「本当なのですね」
「ああ」
父は落ち着き無く葉巻に火を点けた。
「本来であれば、お前に花嫁修業をさせてから嫁がせたいのだが。それは九条家で行いたいという申し入れだ」
……お父様は、まだ苛々しているわ。
昼間の品子の態度にまだ怒りが見える父が恐ろしい園子は、質問も何も言えずにいた。
「お前は社交界の事など知らないことが多いのは向こうもご存じだ。とにかくそういう事だ。わかったね」
「……はい」
「行くのは三日後だ。支度は向こうが用意する。お前は身一つで良いそうだ」
「わかりました」
……まだお怒りだわ、とても逆らえない。
淡々と話す父の怒りの前、園子は恐ろしさでそう言うしかなかった。
部屋を後にした園子は品子の暴挙、母のあの冷たい目、そして出会った時の優しい亜佐比の微笑を思い返していた。
……これは本当の出来事なのかしら。夢のようだわ。
園子はまだ信じられなかった。だが、その日がやって来た。
あの日手紙を破った品子は、それ以降ベッドに臥せっており園子は逢うことはなかった。
そんな園子が九条家に行く日、母が園子の部屋にやって来た。
「お母様、このお洋服で良いでしょか」
「……うまくやったじゃないの」
「え」
鏡越しで見えた顔の母は疲れていた。そんな母は部屋の椅子に座った。
「お前を厄介払いしたくて夜会に行かせたのだけど、まさかこんな大物を釣るなんてね」
「釣るなんて……私はそんな」
「純情そうな顔をして……おお、嫌だ」
母はそういってまっすぐ園子を見た。
「でも。そんなお前とはこれでお別れよ。さあ出て行ってちょうだい」
「お母様」
母の目の奥からは強い悲しみが見えた。園子は初めて母と心が合った気がした。
……お母様は、そこまで私が嫌いだったのね。
母の中には、憎しみ、悲しみ、そして痛さも見えた。幼い頃、離れてしまった二人の絆はとっくになく、母も自分を愛せず苦しんでいたと園子は感じた。
「今までお世話になりました」
「心にもない事を」
それが最後の言葉だった。こうして園子は実家を後にした。
「ようこそ。園子様」
「はい、お世話になります」
大原の爺やに送ってもらった園子は九条の屋敷にやって来た。九条家の爺やは園子を出迎えてくれた。
「あいにく。亜佐比様はお出かけでお留守です」
「そうですか」
指定された日にやって来た園子は、不思議に思った。
「亜佐比様は大変お忙しい御方です。まず園子様はこちらの部屋でお過ごしください」
「この広い部屋ですか」
通された部屋は白い部屋だった。あまりにも素晴らしい部屋に園子は見渡した。
「よろしいのですか」
「ええ……それに。その服は着替えていただきます」
大原の母の見立ては古いドレスだった。九条家の執事は園子に新しいドレスを着るように指示した。こうして亜佐比の出迎えのない初日を園子は迎えた。
翌日。園子は勧められるまま一人朝食を終わらせると、玄関が騒がしかった。
「うるさいな。徳磨。わかっているって」
「だったらそうなさってください」
「しつこい、って、あれ、君って誰?」
「え」
部屋に入って来た彼は園子を見て真顔を向けた。これに側にいた黒服が脇を突いた。
「何を言うのですか。ほら、例の婚約者ですよ」
「あ?そうだった。そうか。雰囲気が違うからわからなかったよ」
亜佐比はそういうと、テーブルにあったリンゴを手にしてかじった。
「ようこそ。どうかな、ここの暮らしは」
「ええと。その。快適です」
「ははは、いいね!はい、あげる」
「え」
彼はかじりかけのリンゴを園子の手に置き、うーんと伸びをした。
「ふわあ……悪いけど僕は昼まで寝るから……」
「は、はい」
「そうだ。あの、僕らの婚約の事だけど」
亜佐比は園子の肩に手を置いた。
「まさか本気にしてないよね?」
「え」
彼は首をかしげて園子を見た。
「あり得ないから。君は金だけ受け取って、僕の指示に従えばいい。では」
そう言って彼は部屋を後にした。
遠くなる彼の足音は空っぽの園子に大きく響いていた。
一話 完
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