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二 騙された婚約
「園子さん。あの。園子さん」
「は?はい」
「大丈夫ですか」
「あなたは、確か」
亜佐比が去った部屋には黒服の男性が園子を見つめていた。園子は思わず息を飲んだ。
「夜会の時、亜佐比様と一緒にいらした方ですね」
「そうです……詳しい話をしたいので、こちらにどうぞ」
彼はそう言うと園子を奥の部屋に案内した。慣れた様子で廊下に進み、使用人に無言で指示した彼は、南向きの部屋で園子にお茶を出した。
「まず。申し遅れましたが私は北畠徳磨と言います。亜佐比様の護衛や秘書、まあ側係りです」
「北畠様ですね」
「長いので徳磨で結構です。そして」
徳磨は椅子に座ると深呼吸をした。
「ええと、まず今回の婚約についてです」
徳磨は事務的に話を始めた。それはこの婚約は契約だという事だった。
「この契約書をご覧ください。あなたも聞いていると思いますが、この婚約は両家の話し合いによるいわば契約婚というか、『かりそめのもの』ということになっています」
「『かりそめ』ですか」
「ええ」
父の字を見つけた園子は、勧められた書類を手に取った。
……どういうことかしら。
この書面の内容を徳磨は淡々と話した。その言葉の温度は園子をどんどん冷たくしていた。書類で隠れる園子の心の色を知らず徳磨は説明を続けた。
「念のためにお話しします。今回の契約婚の前提には、大原家が九条家に借り入れがあることにあります。そしてこの契約は大原様と九条亜佐比様と約束されたものになります。そして……」
……借り入れ、そうか、私は。
徳磨の声が遠くなる中、園子の頭の中には今の状況が飛び込んできた。これは素敵な出会いではなく、計画されたお芝居だった。華やかで美しく、煌びやかな光が溢れていたあの舞台のような夜会で、自分だけが素人であり本気だったのだと彼女は悟った。
……そうよ、あの方が私に交際を申し込まれるはずなんか、なかったのよ。
「園子さん。聞いていらっしゃいますか」
徳磨はどこか苛ついていた。彼の説明の中、書類を読んだ園子は心の痛みが全身に広がっていたが、これ以上、傷付く箇所が無くなったと涙を呑んで書類を机に置いた。
「はい。ではこの婚約は形だけ、という意味ですね」
「そうです。表向きであり、そして極秘です」
見えない傷からの流血を押さえやっと声を出した園子に、面倒くさそうに徳磨は長い足を組んだ。
「あなたも聞いていると思いますが、亜佐比様は今までも縁談があり、婚約まで至った女性が何名もいました。しかしどの方も何者かに襲われる事件に遭っているのです」
「『襲われる事件』?あの、それはどういう事でしょうか」
「……それはですね」
一つ一つ反応が強い園子に、徳磨はようやく気が付いた。
「そうですか、みなさん襲われているのですね」
「……失礼ですが、あなたは大原氏にこの件について聞いていないのですか」
「はい。すみません。何も知らされず来てしまいました」
申し訳なさそうに園子は冷めたお茶を飲んだ。この様子に徳磨は慌てて組んだ足を戻した。
「それは……もしかして、亜佐比様に交際を申し込まれた時もですか?」
「はい、そうなります」
「ちょっと待ってください」
……どういうことだ?すべてを承知でここに来たのではないか。
慌てて髪をかき上げた徳磨はまっすぐ園子を見た。
てっきり金目的で理解の上でやって来た娘だと思っていた徳磨は驚いた。
「すみません。至急、大原氏に確認します」
「いいえ。待ってください」
「え」
「良いのです」
……私に一目ぼれするはずないもの。信じた私がいけなかったのよ。
心の傷に深呼吸し、痛みを流した園子は、立ちあがろうとした徳磨を制した。
「……『敵を欺くには味方から』ですものね」
「え」
「私はすぐ気持ちが顔にでてしまうので、父はそうしたのだと思います」
「そ、そうですか」
……お父様も九条様の命令通りにしろと言っていたし。この人のせいじゃないもの。
飲んだお茶で現実が見えてきた園子は、戸惑っている徳磨に向かった。
「では、私が囮になって犯人をおびき寄せれば良いのですね」
「囮?……ええと、まあ。その意味です」
「ではこれから私は何をすればよろしいのですか」
「あ、ああ、説明します」
まっすぐな園子に徳磨は汗を拭きながら話をした。
「これまでは夜道で頭を殴られる、又は人込みを歩いている時に斬り付けられる等の被害に遭っています。どれも軽傷ですが、最終的にはいずれも婚約は破棄になっています」
「……犯人が誰なのかはわからないのですね」
「はい。女としかわかっていません」
「左様でございますか」
……私はどうなっても良い娘だから選ばれたのね。なるほど。
顎に手を置き、園子は考えていた。この様子に徳磨は額の汗を拭った。
「この話も、初めて聞いたかもしれないが、君の事は警備が」
「……もしかして。たくさんの人の前で私に交際を申し込まれたのは、犯人を意識しての作戦ですか?」
「え」
「……そうね、その方が効果的ですものね……」
「は、はあ」
……本当はそうじゃなかったんだか。
一人納得している園子に、徳磨は本当の事が言えなかった。
上級華族の九条亜佐比は、社交界ではその名を知らぬ者がいないという人気者である。
夜会での亜佐比の交際の公開申し込みは、犯人を刺激する作戦としては最高だった。しかし当の本人が知らされていないのは徳磨には想定外であった。
あの夜会にいた徳磨は、交際を申し込まれ卒倒した園子を車に運んでいた。演技が上手な強かな女とあの時はむしろ軽蔑していたが、今は全身の血の気が引いた気がしていた。
……あれは演技ではなかったのか。本当に驚いていたのか。
純粋無垢な乙女の気持ちを無下にしてしまった今の自分に、徳磨は苛まれていた。
……だが、あまり落ち込んでいないな。
しかし、今目の前の園子は心を弄ばれたはずなのに、冷静に現状を受け入れ、これからの事を思案しているように見えた。
「徳磨様。では今後の予定をお聞かせください」
「は、はい」
徳磨は戸惑いを隠すように髪をかき上げた。
「とりあえず、今はお二人の婚約の話を社交界の噂で流します。その反応でこれからを決めたいと思います」
「わかりました。あと質問ですが、この婚約が偽りという事を知っているのはどなたですか」
彼は、亜佐比、園子。園子の父。そして自分だと話した。
「よってこの四人以外、九条のご家族も屋敷の者も知りません」
「そうですよね。その方がいいですものね」
そうかと納得している園子は、ふと徳磨を見た。
「では。私はここで何をしていれば良いですか?」
「九条家のご家族はあなたが本当にここに嫁ぐと思っているので、まずは花嫁修業をしていただきます」
「わかりました」
……うん。それならできそうだわ。
しかし、徳磨は考え込む園子の顔を覗き込んだ。
「どうかな。君は話を聞いて驚いたと思うけれど、不安があれば」
作戦を白紙にしても良い、と徳磨が話そうとしたが園子は真顔を向けた。
「今はありません。が、分からないことは徳磨様にお聞きします。それでよろしいですか」
「もちろんです」
「徳磨様」
園子は立ちあがった。
「私。どこまでできるか分かりませんが、精いっぱい囮を努めてさせていただきます。これからもどうぞよろしくお願い申し上げます」
丁寧に静々とお辞儀をする園子に、徳磨は驚いた。
「いや、そんな。こちらこそ、あなたを利用してしまう事になって」
徳磨は慌てて立ち上がり園子に頭を下げた。そんな彼に園子は慌てて彼を制した。
「まあ、徳磨さま。どうぞ私の事は気にしないでください。それよりも犯人を早く捕まえましょうね」
「あ、ああ」
「では。私は部屋で次のご指示を待っていますね」
「え?あ、はい」
そう言って園子は張り切って部屋を後にした。徳磨は茫然とその後ろ姿を見つめていた。
◇◇◇
「ん……そんな時間か?で、彼女はどうだった」
「その前にいいですか。彼女は何も知らないでここに来たようですが」
「ふふふ。やっぱりそうだったんだ」
「やっぱりって、はあ」
自室のベッドで寝ていた亜佐比を起こそうと、どこか怒っている徳磨は静かに正午の部屋のカーテンを開けた。
「泣いた?」
「いいえ。自分は囮になると言っていましたよ」
「囮?……へえ面白い子だね」
眩しい!とベッドに亜佐比はもぐりこんだ。徳磨はその布団をポンと叩いた。
「面白いというか」
賢い、と徳磨は思っていた。
今回の作戦は亜佐比の悪戯的な話から始まっていた。この作戦に不可欠なのが偽の婚約者である。条件としては、華族の令嬢である事、彼の過去の婚約者の被害や彼の女癖を気にせず作戦の意味を理解してくれる事。また犯人を騙せる賢い活動をしてくれる事であった。
「とにかく協力してくれるそうです」
徳磨は亜佐比が潜っている布団を苛立ちのままさっとめくった。その中で丸まっている亜佐比は観念して体を起こした。
「ふわあ……てっきり、騙されたと泣いて怒るのかと思ったのに。そうじゃないんだね」
「私も騙されましたけれどね」
「そう怒るなよ」
上半身裸で寝ていた亜佐比は、あくびで涙を流した。
園子は金で雇った偽の婚約者だった。彼女の父親からは娘を夜会に行かせるので、その場で求婚してくれと亜佐比は言われていた。
……あの時、本人にだけに言うつもりだったけど。
ベッドの上で胡坐をかき、亜佐比は痒かった首の後ろをかいた。
「あの夜会は遊び慣れた女性の集まりだったのに……しかもあんな古臭いドレスで。ふふふ」
「知らずに参加されたのでしょう。初めてだと言っていましたし」
「金もなさそうだし。いいじゃないか。互いにとってこれは都合がいいし」
「しかし。彼女はそんな女性では」
「とにかくこれで進める。ふわああ」
……それにしても、面白かったな。
園子はあまりに純情だったので彼はつい公然で交際を申し込み、彼女の反応を楽しんでしまった。あの時の恥じらいの園子を想うと、徳磨の説明で協力をしてくれるという理解力の落差に微笑んだ。
朝寝から起きた亜佐比は、窓の外を見た。暑い夏が訪れようとしていた。
九条亜佐比は九条家の嫡男である。父は他界し母と妹と暮らしていた。爵位があり資産があり、美麗な容姿で幼い頃から人気者であった。
学生時代、学校から帰宅のため亜佐比が屋敷の車に乗り込むのを見ようと、女学校経由で来るバスの左側の席が満席になっていたのは伝説である。あまりの人気に亜佐比を一目見ようと窓から身を乗り出す女学生も現れたため、危険とみなしたバス会社から九条家に亜佐比の乗車位置を移動の依頼があったほどである。
甘いマスクで頭脳明晰。人当たりの良さでいつも話の中心であり、彼は友人も多く人望もあった。
亡き父に代わり九条家の資産運用を行っている彼は、現在、交際範囲を増やし事業を拡大していた。その交際の多くは華族令嬢や有閑マダムとしている彼は、独身貴族の生活を大いに満喫していたが、そろそろ身を固めたいと思っていた。
互いが承知のはずの政略結婚を望む亜佐比であったが、今までの婚約者は彼を束縛し、挙句の果てに何者かに襲われる事件が続いていた。
……全部、彼女達が悪いんだよ。
「どうされました」
「いや、過去の女達を思い出して」
かつての婚約者達を思い出した彼はため息をついた。
「確かにこんな僕と婚約して寂しかったのかもしれないけれど、みんな政略結婚だとわかって婚約したはずだろう。それなのに愛だの恋だの面倒だな、と」
そういって亜佐比は徳磨がくれたグラスの水を飲んだ。徳磨は白いシャツを手に取ると亜佐比の背中からそっと掛けた。
「それだけ皆さん、あなたが好きだったのではないですか」
「はあ……とにかく、ああいうのはもう勘弁して欲しいよ」
女性遊びが激しい亜佐比を振り向かせるため、かつての婚約者たちは色んな手を使ってきた。家出、自殺未遂をした娘もいた。そんな過去の婚約者達は、最期は自暴自棄になり九条家を飛び出し、そして事件の被害に遭っていた。
「今回は大丈夫かな」
「恐らく。大丈夫かと」
「……珍しいじゃないか。お前が気に入るなんて」
シャツのボタンを留めながら話す亜佐比に徳磨はベッドを整えていた。
「そういうわけではありませんが、これで最後にしたいので」
「確かに!それは僕も同じさ。さて、と。さっそく囮の花嫁にご挨拶でもしようかな」
にっこり微笑んだ亜佐比は部屋を出た。九条家にはまぶしい日差しが降り注いでいた。
「やあ、こんにちは」
「九条様。御世話になっております」
部屋に徳磨とやってきた亜佐比に園子は、読んでいた本を閉じ、立ち上がりお辞儀をした。
「この度は私のような者に重大な任務を与えて下さり、大変名誉に思っております」
「え」
園子は必死に気持ちを打ち明けた。
「事情は徳磨様から伺いました。今までの婚約者さんが被害に遭われたそうで。その、九条様の心痛を想うと、私も悲しくなりました」
「悲しい?……まあ、座って」
「はい。失礼します」
驚き顔の亜佐比の指示に園子は静々と腰かけた。
「私に何ができるか分かりませんが、お役に立てますよう努めさせていただきたいと思い、色々考えさせていただきました」
「……徳磨。彼女にちゃんと説明をしたんだよな?」
「はい」
真剣な園子を前に亜佐比は思わず頭をかいた。
「で、君の考えって?」
「……はい。まず」
園子は考えを述べた。
「このお屋敷で事情を知っているのは私達だけなので、みなさんの前では婚約者のふりをしたいと思います。そして外出先では、九条様の口から婚約した話を広めると伺いましたが」
「まあ、そうなるだろうね」
「私の方でも、女学校時代のお友達にこの婚約をお手紙で知らせることができます。その時は遠慮なく申し付けてください」
真剣な園子に彼は長椅子に座り足を組んだ。
「それはそうだけど、そんなに広めたら君が困るだろう」
「なぜですか」
亜佐比様はあきれた顔で答えた。
「だって、犯人が捕まれば僕らは婚約破棄だ。君の立場が悪くなるよ」
「構いません。私はお嫁には行かないつもりでしたので」
「え」
園子は膝の上の手を見た。
「それに、これくらいやらないとうまく行かないと思います。婚約は本物だ、と犯人に思わせないと」
「確かにそうだけど」
亜佐比はちらと徳磨を見た。徳磨は仕方なく答えた。
「では。お二人には世間的は恋人のふりをしていただきます。それはこの屋敷でもです」
彼の声に二人は頷いた。
「わかった。では、園子さん。一緒に昼食に行こう」
「は、はい」
当たり前に手を引いた亜佐比に、園子はドキドキした。
「あの、九条様」
「どうしたの」
「私。今まで男性とお話する事がなかったので、すみません、まだ緊張してしまって」
「でも……こうしないといけないね」
「はい。ですが頑張ります」
「良かった」
「え」
共に廊下を歩く亜佐比は悪戯に微笑んだ。
「君で良かったなって。あ。僕の事は亜佐比でいいよ」
「なりません。それよりも私の方こそ、園子でお願いします」
「そう……では園子」
「はい」
亜佐比が開けたドアの先には居間が広がっていた。そこには彼の家族や使用人がいた。
……みなさん。私が囮だって知らないのね。
「園子?」
「……大丈夫です」
……もうやるしかないもの。
思わず立ちすくんだ園子に、背後の徳磨は優しく二人の間に言葉を入れた。
「さあ、中へお入りください。亜佐比様も園子様を紹介してください」
「はいはい。さあ、どうぞ園子」
「はい」
徳磨の声に押されるように二人は部屋に入った。
かりそめの婚約を決めた二人には、窓から日差しが降り注いでいた。
二話 「かりそめの婚約」完
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