彼を殺したのは誰?

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 彼の死の真相を知りたい。しかし一体何をどうすればいいのか。私はミステリードラマに出てくるような探偵や弁護士でもなければ警察でもない。捜査なんてできるわけもなく、手元にあるのは「何か思い出したことがあれば」と警察官から渡された名刺だけだ。先ほどの意気込みを置き去りに、いきなり手詰まりとなってしまった。  溜息をついた私は仕方なく1LDKのこの部屋に遺された彼の遺品整理を再開した。しかしさっきまでの彼を失った喪失感と哀惜はいくらか薄らぎ、憔悴していた私にも多少のエネルギーが湧いているようだった。もしかしたらここから何かが掴めるかもしれないのだから。  私はクローゼットから彼の服をすべて引っ張り出してきて床に並べた。  ここにある服はすべてファッションに無頓着な彼の代わりに私が選んであげたものだ。彼はいつも「ユニクロでいいよ」と言っていたが、彼にオシャレであってほしかった私はたびたび彼をショッピングモールに連れていってはその時々の流行を教えてあげた。それだけでは組み合わせのおかしな時があったので、デートのときには私がコーディネイトもしてあげた。彼にとって服を買うための出費は決して小さくなかったが、おかげでいつも白いTシャツとジーンズばかり着ていた彼にも華やかさが出たものだ。  私は彼の服をひとつひとつ広げては畳みなおしていった。いつ、どこで買った服かすべて覚えている。もちろんその時の彼の顔も会話も――。  この春物の薄緑のカーディガンは去年の今頃、原宿で買ったものだ。  初めての原宿に彼は尻込み、「ここは僕みたいなのが来る街じゃないよ」と言っていた。若者の街といわれる原宿にはたしかに尖ったファッションを扱っているお店が多いが、彼にそんな服装を求めているわけじゃない。彼に似合うおとなしい服もあるのだ。そして私が本当に見たかったのは――不安そうに戸惑いながら目をきょろきょろさせる彼は可愛かった。嬉しそうにクレープを頬張る彼も――。  いかん。また感傷に浸ってしまった。彼の死につながるものを探さなければいけないのに。私はティッシュを一枚とって目頭、目尻と拭ってから鼻をかんだ。  さすがにこんなところに手掛かりはないだろう。私は畳みなおした服をひとつひとつ重ねていった。  ん? なんだろうかこの違和感は。私は手を止めた。重ねていた服を横に展開してひとつひとつ注視する。  そして気付いた――彼の服が〝すべて〟ここにある。  彼の服はすべて把握してある。それがすべてここにあるということは、彼は当日何を着ていたのだろうか。スーツ、ワイシャツ、肌着も数が揃っている。高校教師だった彼はいつもワイシャツにジャージを羽織って自転車通勤をしていた。そのジャージもここにある。唯一足りていないのは深緑色の下着だけだった。  つまり彼は当日、下着以外は私の知らない服を着ていたことになる。なぜ? もしかしてこれは大きな手掛かりになるのでは、と思った私は彼のプリンターから用紙を一枚引き抜きメモに残した。  ついでにスーツもあらためたが、残念ながら何も見つからなかった。ネクタイも同様に並べてみたが不審な点は見つからない。色とりどりに並べられたそれらの中から、私はフォーマルな紺のネクタイを手に取った。  これは彼の就職祝いに私が贈ったものだ。就職祝いといっても新卒のときではなく、彼が授業のみを請け負う非常勤講師から学校全体の業務を担う常勤講師になったときのものである。  彼は大学卒業後、県内の私立高校に非常勤講師として赴任した。専任・常勤としての採用がなかったから――ではなく彼は最初から非常勤のみに就職を絞っていた。というのも彼には夢があったからだ。  私と出会う前、高校生のころから彼は小説家に憧れていたらしい。青春のほとんどの時間を小説に費やし、いろいろな新人賞の公募に挑戦しては毎度残念な結果に終わっていたと彼は初めてのデートで私に話した。初めての作品は本当にひどいもので、よくこれを人様に見せようと思ったもんだ、と恥ずかしそうに照れ笑う彼をとても愛おしく思ったことを今でもよく覚えている。  そして大学での四年間も同じように挑戦し続けては「また今回もダメだったよ」とさほど悔しくもなさそうに彼は自嘲気味に笑ってみせた。その様子を見て私は、それが本気の夢ではなくひとつの趣味程度のものなんだろうと思っていたが、彼の就職戦略にその期待は裏切られた。  ハナから専任や常勤を視野から外して、非常勤講師なんてまるでバイトのような雇用を取った彼と、私は初めて喧嘩をした。大学を卒業したばかりだったが、私は彼との結婚も考えていたのに彼は執筆の時間を削られたくないという理由だけで月収十六万の道を選んだのだ。  大学卒業後の数年だけは講師をしながら小説家を目指したい。もちろん上手くいく可能性の方が低い。無理だったら常勤講師や専任教師になって、小説は細々と続けていく。だから保険のために大学では教職課程という負担をしてでも教員免許を取った。そう言う彼の考えを私はすべて聞き入れなかった。彼は私との将来ではなく、自分だけの夢を選んだのである。  学校で働き始めた彼は目に見えてやつれていった。しかし彼は私に仕事の話をほとんどしなかった。ただ一度だけ「僕は教員に向いていないかもしれない」とポツリと漏らしたことがあるだけだ。だから私も多くは訊かず気分転換になればと、休みの日にまで部屋に籠って本を読んでいる彼を都内のオシャレな喫茶店なんかに連れていってあげたりしたものだ。  正直に告白すると内心では、一日に数時間授業をするだけで何をそんなに疲れることがあるのだろうかと、そのころの私は思っていた。しかし実際に彼は憔悴していたし、だったらケアをしてあげるのが彼女である私の務めというものだろう。  彼は私と喫茶店にいるときでさえ小説を読むことがあった。学生のころはそんな彼の顔を眺めているだけで――寂しくなかったと言えば噓になるが――幸せだった。しかし働き始めてからは、四六時中考えている授業や小説のことから離れなければ気分転換の意味がないと思って、彼に「小説なんか読んでないで私とおしゃべりしようよ。私といるときは本を読むの禁止ね」と言った。彼は少し驚いた様子で「今までそんなこと言わなかったじゃないか。それに本を読んでる最中でも話しかけられれば顔を上げてただろ?」と言った。そこで私が彼を気遣ってのことだと説明すると、彼もようやく理解したようで本にしおりを挟んで閉じた。  彼にとって読書こそが安らげる時間だったのに私はそれすらも奪ってしまった。  そういえばあのとき彼が私におすすめしてくれた本がある。タイトルは何だったか……。彼は私が読書が苦手だと知っていて、一度も本を紹介することはなかった。そんな彼が珍しく「読んでみるといいよ」と言っていたのでそのことは覚えている。ただ本のタイトルが思い出せない……。たしか海外のミステリー作家の小説だったはずだけど。  ちなみに私は彼が書いた小説さえも読んだことがない。というより彼が読ませてくれなかった。新人賞を獲ったという作品でさえもだ。  そう、彼は新人賞を獲った。働き始めて二年目に書いた作品で大きくはないが新人賞を獲ったらしい。〝らしい〟というのは彼がどの新人賞を獲ったのか教えてくれなかったからだ。彼はペンネームも教えてくれなかったし、よほど身内に自分の作品を読まれたくなかったようで、「小説には作者の心の内が書かれている。知り合いに自分の心の内を覗かれるのは恥ずかしい」と言っていた。私の友人は「それって本当に賞を獲ったのかな? ちゃんと働きたくなくて噓ついてるんじゃないの?」なんてことも言っていたけど、私には分かる。彼はそんな嘘をつくような人ではない。  しかし困ったのは彼が非常勤講師さえも辞めて、小説を書きたいと言ったことだ。それには私も猛反対した。小さな新人賞をひとつ獲っただけで職業小説家になれるほど簡単な世界ではないのを知っていたし、彼には教員が向いていることも分かっていたからだ。本人は向いていないと否定していても、彼は賢くて、誠実で、優しい――教員に必要な素質を兼ね備えていた。どんな職業だって一年目や二年目は大変なだけで、やっと小さな賞が獲れただけの小説家よりも教員の方がよっぽど彼には向いていた。  彼は真面目すぎた。授業には力が入りすぎて生徒は置いてきぼりになることも多かった。授業が上手くいかなくて深く悩み、もっと力が入り空回る――その悪循環だった。そんなことを私は知らなかった。  私は必死に彼を説得した。小説は小さくとも悲願の新人賞を獲れたのだからそれでいいじゃないかと。それよりも私との将来を考えてほしかった。  そして説得の甲斐もあって彼は教員を続けた。それどころか別の高校で常勤講師として採用してもらえたのだ。そのときに贈ったのがこの紺のネクタイである。襟に当たる部分が擦れて薄くなっている。よほど気に入って、たくさん着けてくれていたのだろう。さっきしまったばかりの涙がまた込み上げてきた。  そして常勤講師となったのを機に彼との同棲生活が始まった。講師といっても仕事内容は専任教師とほぼ変わらないらしく、担任業務、校務分掌、部活の顧問と、仕事は非常勤のころから数倍にも増えたらしい。授業の作成には多少慣れたものの、その学校では教えたことのない地理を受け持つことになり、その予習も彼を圧迫していた。さらには数週間で辞めた教員の授業を肩代わりし、担任する生徒の家庭問題に巻き込まれ――まさに泣きっ面に蜂のごとく災難が重ねて降りかかった。  毎日部活が終わってから校務分掌や担任業務をこなし、遅くに帰ってきてから授業の準備をする。土曜日と木曜日は半ドンに設定されていたが、その日でさえも彼が通常の定時――十六時二十分より早く帰ってくることはなかった。常勤講師として勤めながら小説を書こうと彼は考えていたが、その時間はまったくと言っていいほどなく、彼の肉体は私の目の前でみるみる削がれていった。  私は勤めていた会社を辞め、パートをしながら家事に専念した。少しでも栄養のあるものを食べてほしくて、心を鬼にして彼の苦手な納豆も食卓に出したし、たまにある完全な休日には私が練った計画で気持ちをリフレッシュさせた。それでも彼はいつも心に疲れを抱えていた。私には見せまいと努力してくれていたが。私はそれに気付かず、彼の負担になっているとも知らず、彼を外へと連れ出した。それが彼のためだと思い込んで。
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