彼を殺したのは誰?

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 ――もし彼の死が自殺なら原因は仕事にあるのではないか。仕事に忙殺され鬱になってしまうという話はよく聞く。と、そう考える一方で彼は私に何の相談もなく自殺を選ぶような人ではない、と思考が繰り返される。彼を殺したのは学校ではないか。いや、彼なら自殺なんて道は選ばない。頭の中で行きつ戻りつする。彼の遺言なしにこのふたつを結びつけることはやはり無理だろうか。せめて彼が何か遺書を残してくれていればと私は思い部屋を見渡した。  仕事といえば、彼の通勤カバンの中を見ていないことに今更ながら気が付いた。カラーボックスの横に立てかけてある大きくて丈夫そうな黒いリュックサック。これが彼の通勤カバンだ。私は肩ひもを右手一本で取ったが、それは予想以上に重く、一度目では持ち上げることができなかった。気合を入れなおして持ち上げたそれはやっぱり重たくて、彼の服を整理していた寝室の床に置いた時にはドンと鈍い音が響いた。  中には教科書や参考書、ノート、クリアファイルなど。それから黒いノートパソコン。  私はパソコンを食卓の上に持っていき電源を入れた。画面に彼の名前が映し出され、PINコード――四桁の暗証番号を要求された。試しに彼の誕生日を入力してみたがハズレ。もしかして、と少し期待をして私の誕生日を入力したがこれもハズレ。私はちょっとがっかりした。生まれた年、入籍日、携帯番号の下四桁。いずれもハズレだった。思いつく限りの番号を試したがどれも梨の(つぶて)で、私はひとまず諦めることとした。警察に頼めば何とかしてくれるだろうか。私は警察官に渡された名刺の番号に目を落とした。    パソコンのことはひとまず諦め、彼の授業ノートを見ているうちに気付けば部屋の中はかなり暗くなっていた。私はカーテンを閉めて部屋の明かりをつけた。しばらく放置していたスマホを見てみると着信が一件――なんと大学時代に付き合っていた元カレからだった。別れて以来メールすらも交わしていなかったのに突然何なのだろうか。いつもの私なら無視してやるのだが、今の私にはどうも彼の死と関係があるのではないかと思えてしょうがない。私はメールで一言、『急にどうしたの』とだけ送り、返信があればすぐに気付けるようにマナーモードを解除しておいた。  彼と元カレは友人関係にあった。彼は元カレのことを高校からの数少ない友人だと言っていた。同じ高校から同じ大学へ進み、そして大学一年生のときに私は合コンでふたりと出会った。元カレは彼の友人らしく優しそうな人で、当時の私はその紳士的で積極的なアプローチに、ころりと落とされてしまった。  しかし実際付き合った元カレは嫉妬深く暴力的な男で、元カレと同じように連絡先を交換していた彼とメールでもしようものなら容赦なく殴られた。元カレの暴力を彼に相談してはまた殴られた。元カレに殴られると分かっていて彼と連絡を取り続けたのは、そのときすでに彼に惚れていたからだと思う。元カレの暴力を口実にメールをして電話をして会って。  そして私から彼を押し倒した。  私は元カレにそのことを話してキレイさっぱりと別れてやった。  それ以来、彼と元カレも絶縁状態にある。彼は無二の友人を失ったが、私としてはあのような友人を持ち続けることは彼にとっても良くないと思っていたので一石二鳥といったところだ。しかしそんな状態だから彼の死を元カレが知っている可能性は低いだろう。  スマホが短く鳴った。 『いや、ただ何となく元気にしてるかなって』  やっぱりか。残念な思いでスマホをソファに放り投げた。  ――いや、それにしてもタイミングが良すぎる。もしも元カレが私と()りを戻せるチャンスだと分かっているのだとしたら?  彼が死亡したホテルの部屋に人の出入りはなかったらしいが、毒殺ならその場にいなくても殺害は可能だ――まあ方法はまだ分からないけど……。いや、さすがにあの元カレでも今さら絶縁状態にある友人を殺してまで私と縒りを戻そうとするなんてことはないだろう。いや、しかし可能性はゼロではない。私の中で生まれた新たな疑念は行ったり来たりを繰り返しながら、ますます強くなっていった。  私はソファの上のスマホを取って、〈あまり元気じゃないけど、よく分かったね〉と送信した。とりあえず多少泳がす感じで元カレから情報を探ってみよう。もしかしたら、ということもある。  スマホをテーブルに置いたところで、突然お腹が鳴った。その音で思い出したように空腹を感じる。私は「こんなときでもお腹は()くんだな」なんてよくある言葉をため息に包んで吐きながらキッチンへと立った。  しかしとてもじゃないが包丁を握る気分になんてなれない。私は何か出来合いのものでもないかと冷蔵庫のドアを開けた。中は私が部屋を出る前と同じ――彼のために作り置きしておいた豆腐ハンバーグとカボチャの煮物がそのままに残っていた。  彼が最期に食べたものは私の手料理ではなかった。そこにあったのはその事実だ。急激に彼に拒絶されたような思いに頭をガンと殴られた。  私はやにわにキッチンにあるゴミ箱のふたを開けた。彼の好きなハンバーガーショップの紙袋が捨てられていた。  なぜ?  なんで?  私の胸に悲しみとも怒りともつかない感情が小さなあぶくとなってぷつぷつと沸き立つ。初めは小さな泡だったそれはみるみるうちに溢れんばかりの勢いで沸騰し、そしてパンッと一瞬で弾けて消えた。  もう分からない。彼がなぜ死んだのか。なぜ私が選んだ服を着ていなかったのか。なぜ私が作った料理を食べなかったのか。  いま私にあるのは哀惜や憔悴ではなく疲労感だ。ただ疲労感だけが残っている。考えることが煩わしくなっていた。  私は冷蔵庫から取り出した豆腐ハンバーグを食卓に持っていき、冷めたままのそれを口へと運んだ。味も何も分からない。ただ口に放り込まれた冷たい塊が私の体温を奪っていく。  二、三口食べたところで喉の奥に冷たいしょっぱさを感じた。それが引き金になったかのように、熱いものが頬をつたい鼻水が流れ出る。  みじめだった。彼のために尽くしてきたというのに、その最後がこれだなんて。私は涙も鼻水も気にせず、ハンバーグを食べた。  次に私の頭にあったのは彼のものをすべて処分することだった。私は立ち上がりゴミ袋を手に取ると、綺麗に畳まれた彼の服を片っ端から詰め込んでいった。袋はあっという間にパンパンになり、様々な色がひしめき合うひとつの塊になった。  私は右手親指の付け根で目の下を強く拭い、ふらふらと立ち上がった。白いカラーボックスの前に座り込み、下段の棚に視線を落とす。そこには文庫本が前後二列になって押し込まれていた。差し込みきれない分は本の上に横倒しで乗せられている。  この本たちももちろん彼のものだ。本当はもっとあったのだが、同棲をするにあたってそのほとんどは古本屋で処分した。ここに残っているのは彼が特に好きだった本ばかりである。  私は上に乗っかっている本から手に取った。外国人作家の、たぶんSFやミステリー小説。それらを脇に置き、続いてぎっちり詰まった前列の左端から十冊ほど両手で引き抜いた。目に入った表紙が過去の記憶を呼び起こし、また涙腺を刺激する。引き抜いた拍子にぱたぱたと倒れた本を手に取ろうとしたその時、奥にあった一冊の本が目に飛び込んできた。右手の人差し指をその本の上に置き、ぐっと力を込めて引っ張り出した。 『春にして君を離れ』アガサ・クリスティー。  一陣の風が私の体の中を巡った感覚がした。この本だ。あの日、彼が私に勧めたのは間違いなくこの本だった。  私がその本を手に取ると最後のページから小さな紙切れが一枚、ひらりと落ちた。 〈一九八四〉  そこには彼の丁寧な文字でそう書かれていた。いったい何のことなのか。私は少し考えたのちにハッと思い出した。パソコンのPINコード。これはその番号に違いない。  私は急いで彼のノートパソコンを開き、その四桁の数字を入力した。ビンゴ。デスクトップ画面が液晶に映し出された。  彼は私がこの小説のことを思い出すと分かっていて、この暗証番号を残していたのだろうか。だとすれば、ここには私に対する何かが必ずあるはずだ。  デスクトップには『遺書』というテキストファイルがひとつだけ、ぽつんと残されていた。  そのファイルをおもむろにダブルクリックする。中身は遺書というより、まるで小説のようだ。彼が書いたものだろう。  私はひりひりと痛む目でそれを読み始めた。  今まで読書なんてほとんどしてこなかった身だ。それでも読まなければいけない。私はガンガンと痛む頭で必死に文章を追った。そこにあったのは彼が最期に遺した言葉だった。
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