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裕太は雇われ店長だった。千尋ちゃんとのことがあり裕太も店を辞めた。独立することにしたのだ。確かに裕太は腕がいい。独立してもやっていけるだろう。
社長は裕太の後の店長に私を指名した。それは難しいと何度か話し合いを持った。
「接客はできると思います。でもお店全体のマネジメントは…」
「松本さん…、吉田さんになるんだっけ。吉田さんが不安に思う気持ちはわかるけれど、僕も協力するから。それに他の人間が店長になって今まで作ってきたものが壊れてしまうのも辛いでしょう?」
中里社長は美容師ではない。亡くなった奥様が美容師だった。社長は経営者として美容院belleグループを統括している。経営手腕は確かだ。
「娘さんもいるし、そのあたりも配慮するから」
葵の親権を巡って家庭裁判所で調停が行われた。最後は葵の意志で私が親権者となった。更に葵は私が再婚したとしても葵が大学を卒業するまでの教育費を含めた養育費の支払いを裕太に約束させていた。その話を聞いた時に絶句してしまった。葵は一人で裕太の店に乗り込み、その話をまとめ上げ、裕太に一筆書かせたのだ。
葵は私に経済的な心配はしないで一緒に暮らそうと言ってくれた。今まで仕事漬けで葵には我慢をさせてきたのに、葵は仕事をしている私のことを好きだという。応援して、後押ししてくれる。
その気持ちに応えたかった。葵が自慢できる格好いい母親でありたかった。葵のことを配慮してもらえるならばと店長を引き受けた。転居して新たな生活を始めた。
松本菜緒から吉田菜緒へ。予定通り旧姓に戻した。店でも旧姓を名乗ったので、お客さんにも離婚が知れることになったけれど、気にならなかった。
離婚したんです、私の告白に驚きつつも大体の人が励ましてくれた。
中里社長は約束通り私が店長を務められるように様々なマニュアルやルーティンの見直してくれた。1年間、手取り足取り面倒を見てもらい、何とか様になるようになってきた。
裕太も新しい店、salon Adorableを開店させた。駅の反対側で私の店とは客を取り合わないよう配慮してくれたようだ。
アシスタントなしで一人で切り盛りしていると聞いていたが、徐々に軌道に乗ったようで男のアシスタントを置くようになったと風の噂に聞いた。
店の女の子に手を出してしまったから、二度と繰り返さない為なのだろうか。裕太も裕太でいろいろ考えて、悩んで、試行錯誤しながら新しい道を歩いているんだろう。
私は私で頑張らねばと思う。
「そんなに頑張らなくても。吉田さんはよくやっているし、店のカラーもはっきりとわかりやすくて居心地もいい」
中里社長は褒めてくれる。褒めて伸ばすという方針のようだった。
「ありがとうございます。お客様の生活の一部であり続けるよう頑張ります」
「店長になって1年経ったね。お祝いしようか」
「あら、嬉しい。ありがとうございます」
接客業で鍛え上げられた愛嬌で無難な返事を繰り出す。私にもこんなことができるようになった。
時々、中里社長の眼差しが温かく、社長のあどけない笑顔に心臓が跳ねた。元々、よく気にかけてもらっていた。同い年の裕太とは違う、大人の包容力のようなものを感じていた。
そう、憧れの男性だったのだ。美容の専門学校卒業と同時に結婚してしまったが、もし結婚していなければきっともっと惹かれていたと思う。
私はフリーだけど、中里社長は愛妻を病で失った。心は未だ奥様と共にあり、だからこそbelleグループをここまで大きくできたのだ。
勘違いはしない。ときめきは胸の奥深くに隠す。
店が何とかなりそうだと思っていた矢先に世界が一変した。新種の風邪が世界的に流行し始めたのだ。
葵の小学校の卒業式は中止になった。中学の授業はオンラインになり、環境を整えるのに少し苦労した。裕太が手伝うと申し出てくれたが、葵と葵の友達の健人くんと拓海くんに手伝ってもらい、葵はオンライン授業に支障はなく参加できた。
私も葵も裕太を生活の中に入れまいと必死だったのかもしれない。
このパンデミックはせっかく軌道に乗った店の経営に大打撃を与えた。
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