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それは私の店とか、belleグループとかということではなく、世界中が混乱した。工場が停止したり、生産量が低下したりした。流通事業者の稼働率が下がり、街からモノも人の姿も消えた。
モノの値段が上がる。感染対策が必須になる。またマニュアルを見直す。
予約が激減する。スタッフやスタッフの家族が感染する。belleグループとして店は週5日の営業、週3日の勤務になった。
その3日で処理すべき内容は変わらない。こんな時も営業宣伝活動もしなくてはならない。忙殺される。
一方で家では娘の様子が気がかりだった。葵は黒くてダボっとした服ばかり着ている。食も細い。なるべく話をしながら夕食を食べたい。
けれど、その行為はリスクを伴う。家からほぼ出ない娘が感染するとしたら接客を生業とする私からだ。食事は別々に摂る。会話はマスク越し。娘の表情がわからない。我慢させていることだけは痛いほどわかる。
だけど…。このパンデミック、私の力でどうなるものでもない。肺炎で死亡する率が高いという。葵を失いたくない。辛いのは私たちだけじゃない。
娘の好きなうどんを作る。美味しいと言って笑って欲しい。そう願いながら。
belleグループ内でも店舗の整理が行われた。私の店は残り、他店からスタイリストがやってきた。長野雅人、クールな風貌でセンスもいいが、口調がきつく、仕事が若干雑だった。
裕太ならば長野にスタイリストとして合格点を与えない。あれから3年以上たったのに、いまだに裕太を判断基準にしている私がいる。
ある日の閉店後、長野くんと2人になった時にその日気になったことを注意した。洗髪の時にお客様の顔にお湯がかかり、マスクが濡れていた。なのに替えを渡すことなく清算を済ませようとしていたのだ。自分の接客もしながら長野くんのお客様に声をかけ、マスクを交換していただいた。
背の高い長野くんは私を見下ろしたまま話を聞いていた。
「でも、前の店では洗髪はアシスタントの仕事でした。数をこなさないとアシスタントも育ちませんよ」
「まだ流行期が続いているから接客時に何人も入れ替わらないようにするのは新しいマニュアルにも書かれています。感染対策上、この店でも取り入れていることです。それがお客様もスタッフも守ることにつながるのよ」
「気を付けます。けれど、こんなに気を配って何もかもしていたら、店長が倒れますよ。俺、本当は心配なんです」
言葉だけ、調子のよいことを言っている、と思う。けれどその瞳は強くまっすぐ私をとらえ、そして揺らいでいた。
張り詰めた日々に不意打ちの心遣い。くらりと心が揺らぐ。
「大丈夫よ。ありがとう。長野くんも頼むわね」
その場を何とか後にした。だけど…。
長野くんが閉店後、何かと手伝ってくれるようになった。その都度気遣うような言葉を、何かを訴える瞳を、何気なく触れる体を、指先を意識せずにはいられなかった。
終わりの見えないパンデミック、うまくいかない店、心を閉ざす娘、なのにうまくいっているらしい裕太の店。
私の不安、私の焦り、私の悲しみ…そんなことには全く気がついてはいない長野くんが私を絡めとる。
冷たい雨の夜。暗い店の中で抱きすくめられた。貪るように奪われた唇、私を欲しいと主張する彼に溺れた。そのまま長野くんのアパートに雪崩込み、離婚する何年も前から裕太が触れなくなった場所を探り当てられた。溢れ出るものに、もどかしいほどの快楽に、与えられたものの熱さに身を焦がした。
恋と呼ぶには不純なものだった。例えば我が家で娘が帰る直前に彼を口に含んだり、食卓に手をついて貫かれたりする背徳感は自分が女であることを自覚させ、女であることに喜びを感じさせた。
時も場所もお構いなしに求められるのは私自身の魅力なのだと思っていた。裕太に捨てられた自分を掬い上げるには十分なことで、その行為に溺れた。
そして母として恥じた。娘が帰るまでには普通の顔に戻らければ。そのスリルに余計に興奮する。
恋とも言えないものに盲目になっていた。まさか、葵に見せていたなんて思いもしなかった。私は浅はかだった。
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