第三章

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第三章

 この村でお見舞いの品を見繕うのは難しい。普通ならフルーツの詰め合わせでも持っていけば問題はないだろう。だが、この村では頼んだものが届くのは、通常であれば三日後か四日後になる。車谷に電話で連絡を入れ、タイミングよく配達日と噛み合えば次の日には届くだろうが、体調不良がそうタイミングよく起こってくれるはずもない。実際に、今日は金曜日で、次の納品は三日後だった。  仕方なく、頭を悩ませながら事務所内を捜索する。  村人全員が数週間は生活できるであろう備蓄の中にも、自信を持ってお見舞いですと持っていけるようなものは見つからない。備蓄からお見舞い品を見繕うことは諦めて、両腕をさすりながら、冷凍倉庫を後にした。  なぜお見舞いが必要なのかといえば、子供たちが体調を崩しているらしいからだった。今は近所の人の家に体調の悪い子達を集めて皆で看病をしているらしい。千花が朝方早くに氷枕や熱さまシートを置いてないかと聞きに来たことで知った。事務所の倉庫にはなぜか多すぎるほどにそれらが置いてあったので、届けるついでにお見舞いを持っていこうと思った次第である。  体調の悪い子を一箇所に集めて皆で看病というのは、なんともアットホームというか、人と人の距離が近い。そこに引っかかると、子供たちの親が誰なのかなどを全く知らないことに気づいた。なぜ疑問に思わなかったのかと苦笑する。まあ、子供たちは毎日誰か大人の家で寝泊り、食事をしていたので意識する機会がなかったせいもあるかも知れない。いつもどこかに集まって遊ぶ子供たちの家すらも私は知らなかった。後で聞いてみようと思った。  結局、フルーツの詰め合わせのような気の利いたものは見つからず、自分用の冷蔵庫に入っていたゼリーをいくつか袋に詰めて持っていくことにした。見栄えは悪いが、子供ならこちらのほうが嬉しいだろう。ゼリーの入った袋と、看病用品を持って事務所を出た。  千花に聞いた家の方に向かって進んでいると、道中の家の扉が開き、シゲさんがのっそりと出てきた。こちらに気づくと表情を緩め手を振ってくる。私も小さく手を挙げてこたえた。 「シロちゃんもお見舞いかい?」 「ええ、お見舞いの品なんてなくて困りましたよ。冷蔵庫の中の物をかき集めてきましたけど」  シゲさんは私の持っている袋を覗き込み、悔しそうな表情を浮かべた。 「いいじゃねえか。ゼリーなら上々だろ。俺は何もなくて手ぶらになっちまった。酒を差し入れるわけにもいかねえしなあ」  シゲさんの言葉に「そりゃ、そうでしょ」と吹き出す。子供へのお見舞いとしてはもちろんのこと、病人へのお見舞いとしても相応しくない。まあ、シゲさんの場合は相手が大人なら持って行ってしまいそうな気はするが。 「このゼリーを俺とシゲさんからの見舞いってことにすればいいですよ」 「いいのかい? すまねえな。今後は支給物資の内容もよく考えなきゃなあ」  シゲさんは少しだけ深刻そうに空を見上げたが、私が見つめていることに気づくと、いつもと変わらない悩みのなさそうな表情に戻った。  私は口を開く。 「そういえば、病気の子達の親御さんは?」 「親御さんはっていうのは?」  私は先ほど浮かんだ疑問を口に出しただけだったが、聞き返すシゲさんは少し緊張した面持ちだったので、内心首をかしげた。質問の意味がわからなかったのだろうか。確かに、少し省略しすぎたかもしれない。 「親御さんは誰なんですか? 村の人たち全員で親、みたいな感じだったので意識してなかったんですけど」  シゲさんは「ああ」と気の抜けた様子を見せたが、返事をせずに黙り込んでしまった。  聞いてはいけないことを聞いてしまったのだろうかと不安に駆られながら、数秒ほど、無言で歩いた。 「やっぱり、俺から話すのは違う気がするわ。悪いシロちゃん、勘弁してくれ」  シゲさんは不機嫌になっていたわけではなく、答えるべきかどうか考えてくれていたらしい。心苦しげにそう言うシゲさんを見ると、疎外感を抱くことはなかった。家庭の事情などもあるだろうし、そもそもシゲさんに聞くようなことではなかった、とむしろ反省した。 「いえ、すいません変なこと聞いちゃって」 「いやいや、シロちゃんが知りたいと思ってくれたことは嬉しんだ。だが、そのへんは難しくてな。子供たちにも聞かないでやってくれると助かる。そのうち、わかることだと思うからよ」  私は「わかりました」と頷くと、話題を変え、シゲさんもその話に乗っかった。ちょうど盛り上がってきた頃に目的の家に到着してしまう。この村は会話をしながら歩くには狭すぎることが難点だ。  私が家の扉を開けようと手を伸ばすと、手がドアノブに触れる前に扉が開いた。危うく顔を打ちそうになったが、なんとか仰け反り、かわした。  開いた扉の先には、岸が普段よりも数段階は陰鬱な雰囲気で立っていた。  ビクリとしてしまったがなんとか「お疲れ様です」とかろうじて挨拶をした。しかし、岸は「失礼」とだけ言い残すと、早足で診療所の方向に去っていった。  私は岸の様子に不安を感じながら家の中に入った。もしかしたら、容態は芳しくないのかもしれない。そうだとしたら、車谷にすぐに連絡を取って、大型の病院にヘリで運んで貰えないか交渉をしなくてはならない。そんなことを考えながら、声のする部屋の戸を開けると、まったくもって私の杞憂であることがわかった。  部屋の中では、多少顔を赤くしながらも元気に遊び回る子供達と、相手に疲れたのか力が抜け切った様子の大人たちがいた。  私とシゲさんに気づくと、子供たちは好き好きにこちらに飛びかかり、大人たちも柔らかな笑顔で迎えてくれた。 「真美さんたちが世話をしてたんですね。これ、千花に頼まれた看病に使えそうなものと、お見舞いのゼリーです」  私が持ってきた袋を掲げると、子供たちは「すぐ食べる!」と私の腕から袋を奪い取り、持って行ってしまった。さっきまで人気絶頂とばかりに抱きつかれていたシゲさんは、急に取り残されてションボリと背を丸めた。 「シロちゃんありがとうね。それにしても、やっと名前を覚えてくれたか」  真美さんがやや切れ長の目を悪戯っぽく光らせながら言った。  村に来たばかりの頃、この仲良し三人組が区別できないから、と名前を覚えていなかったことをからかっているのだ。名前を呼ぶたびにからかうのは勘弁して欲しかった。とはいえ、確かにあれは私が悪い。今となってはなぜ見分けられないと思ったのかわからない。我ながら失礼な話だと思う。 「真美さんの名前しか覚えてなかったりしないわよね」 「からかわないでくださいよ。麻子さん、涼子さん。でしょ。というかこのくだり何回させるんですか」  私が指を差しながら名前を言った瞬間に、三人から(なぜかシゲさんからも)「おおー」と歓声が上がる。いつになったら許してくれるのか、と私は肩を落とした。 「何回もしておけば一生忘れないかなってね」  真美さんがそう言うと、麻子さんと涼子さんも口々に賛同した。シゲさんも調子に乗って同意していたが、麻子さんに「で? シゲさんは何を持ってきてくれたの?」と言われ、一転してまごつき始めた。私は苦笑いを悟られないよう少し俯きながら、シゲさんにポーカーはさせない方がいいな、と思った。  シゲさんは、挙動不審ながらもなんとか口を開く。 「ゼリーはシロちゃんと俺からのお見舞いだぞ。失礼だな、まったく」 「本当にー? どうせシゲさんはお酒しかなくて諦めたんじゃないの?」  涼子さんの意地悪な返答に、いよいよ狼狽えてしまったシゲさんに、三人が集中砲火を浴びせ始めた。一般的な家庭の父親とはこういう感じなのだろうか、とほっこりとした心持ちで眺めていたが、流石にそろそろ助け舟を出そうかと口を開いた。 「そういえば、千花に頼まれて来たんですけど、千花はいないんですか?」 「千花ちゃんなら岸先生が来る少し前に出て行ったわよ。他に体調が悪い人がいないか見てくるって」  確かに、老人や体力の落ちている人にうつってしまっていたら、助けも呼べずに苦しんでいることもあるかもしれない。千花らしい気遣いに思えた。 「でも、このガキンチョたちを見てたら、まだ大丈夫そうね」 「岸先生も毎日様子を見に来るって言ってたし、心配しなくてもいいでしょ」  女性たちが堰を切ったようにおしゃべりを始め、シゲさんはホッとしているようだった。  風向きの変わらないうちに帰りたそうなシゲさんの雰囲気を感じてお暇しようとすると、真美さんが「シロちゃん、時間があったら千花ちゃんの様子見に行ってあげてよ。不安そうだったから」と言った。  今朝ははそんな風には見えなかったけどな、とは思いながらも、別にすることがあるわけでもないので快諾し、家を後にした。元気のないシゲさんを慰めながら家まで見送り、村の中を歩いて千花を探し始めた。  辺りを見回ったが、千花の姿は見当たらない。家々を訪ねてみても、千花は一瞬声をかけに来ただけで、すぐにどこかに行ってしまったとのことだった。 ――ということは。 「はあ」  思わずため息が漏れる。千花が見たらないときにいる場所は決まっている。今日も途中から薄々わかってはいたのだが、行くのが嫌で最後に回した場所だった。その結果として、総移動距離は伸びてしまうことになったのだが、それでもわずかな可能性にかけたくなる程度には行きたくなかった。  だが、もう行かないわけにはいかないだろう。私は小山に登ることを決意した。  相変わらず登る人のことを無視した造りの階段を、相変わらず足を持ち上げるようにして一段一段登る。先日、とうとうシゲさんに直接文句を言ってやったのだが、シゲさんは彫刻の出来の良さを熱弁するだけで、私の抗議は耳に入らないようだった。あんた本業は大工だろ、という私の言葉も、シゲさんの弾むようなトークに打ち消されてしまった。まあ、そもそも山に階段を付けるという行為そのものが大工の領分なのかも怪しいのだが。  息も絶え絶えに、山頂への到達を示すアーチを抜ける。  すぐには顔を上げず、膝に手を付いたままで息を整えた。もしこれで、千花がここにいなかったら膝から崩れ落ちてしまうことは間違いない。それを避けるためにも、まずは自分自身を整えることが必要だ。 「よし」  小さく気合を入れて顔を上げる。不安はすぐに掻き消えた。ベンチに一人腰掛ける千花の姿がすぐに飛び込んできたからだ。私は安堵の笑みを浮かんでしまっていることを感じながらベンチに近づいた。  反応がないので、そのまま隣に腰掛ける。それでも千花からの反応はない。 「おい、大丈夫か?」  いやに鈍い千花を不審に思い、顔を覗き込む。千花の顔は赤く、うっすらと汗をかいていた。反射的に千花の額に手のひらをのせる。熱い。だが幸いにも、そこまで熱は高くはなさそうだった。 「あ、修くん。ごめんね、なんとか登れたんだけど降りられなくなっちゃった」 「体調が悪かったんならなんで登ったんだよ」  千花は私の呆れ顔を見て、儚く笑った。  熱で朦朧としている人間を責めても仕方がない。私は千花の背に手を回し、ゆっくりと立ち上がらせようとした。千花は体重をかけるようにして抵抗し、駄々をこねる子供のように首を左右に振った。 「歩くのしんどいかもしれないけど、ここにいても治らないぞ。岸先生に見てもらおう」  諭すように言った私の言葉に、千花はまた首を左右に振る。少し強引に立たせようとするが、千花は私を押し離そうと両腕を伸ばした。わがままを言うな、と叱ろうと千花の顔を覗き込んだときに、異変に気づいた。 「おい、千花どうしたんだ? 大丈夫か?」  千花は声を発さず、大粒の涙を両の目からポロポロと流した。泣きながら、なおも私から距離を取ろうと、突っ張り棒のように両手を突き出してくる。  心配やら、疑問やらで、私も半ばパニックのようになりながら声をかけ続けた。千花からの返答はなく、唇を噛み締めるようにしながら、無言で泣きじゃくった。 「おい、千花? 千花? 大丈夫か? ――千花!」  千花はベンチに座ったまま上半身を折り、喉の奥から空気が漏れるような音をさせながら苦しみ始めた。千花は息を吐ききっていないのに、何度も大きく息を吸った。その度に、千花の様子は一層苦しそうなものになった。 「千花! 息をゆっくり吐け。過呼吸だ。大丈夫だからゆっくり息をしろ」  私の言葉が聞こえているのか、いないのか、千花の呼吸はどんどん荒くなる。私は千花の背をさすり、声をかけながら、何か袋の代わりになるものはないかと探すが、あいにく私も千花も手ぶらだった。周りを見渡しても、ここは山の上。そんなものがあるはずもない。  千花の体がベンチから離れ、前のめりに地面に倒れ込んだ。  慌てて近づき、声を掛けるが反応はない。まだ、荒々しい息づかいは聞こえる。どうやら気を失っただけのようだ。生きているとわかり、胸を撫で下ろした。だが、過呼吸の末に意識を失うことが、安心できる状態なのかわからないことに気づき、再度慌てた。  そこからはもう記憶も確かではなく、気がついたら岸の診療所の前にいた。どうやら千花を背負ったらしいこと。そのまま、あの階段を駆け下りたらしいこと。一度も止まることなく、岸の診療所まで走ったらしいこと。それしかわからない。それすらも状況からの推測でしかなかった。  覚えているのは、千花を医者に見せなければという強迫観念に似た強い使命感と、岸なら何とかしてくれるという信頼感だけだ。あんなに訝しんでいた岸に、緊急事態だからとはいえ、突然全幅の信頼を置いてしまうのだから、人は愚かというか、医者はすごいというか。  頭の片隅の変に冷静な部分でそんなことを思ったが、岸の名前を叫ぶ私の声からは、冷静さは一切感じられなかった。  千花を背負ったまま、右手で乱暴に診療所の扉を叩く。この状況では、診療所の四面すべてに扉があることはありがたかった。入口を探して診療所の周りを回る時間すらも惜しい気がした。病人を背負った人間の心理というものを、私は一切理解していなかったらしい。 「岸先生、白坂です。千花が倒れ――」  言い終わらないうちに、扉が勢いよく開いた。岸の鋭い視線が、すぐ目の前に現れる。 「どういう状況で倒れた? 何分前だ? 出血は? 異常な点はなかったか?」  岸は、岸らしからぬ剣幕でまくし立てた。  ただでさえパニックに陥った頭に矢継ぎ早に質問され、私は涙目になりながら「えっと、えっと」と情けなく狼狽えた。私の様子を見て、岸は鋭い表情を崩しはしなかったが、私の肩に手を置き、落ち着いた口調で言った。 「すまない、混乱させてしまった。千花くんが倒れたときの状況を詳しく教えてくれないか?」  これではいけない、と唾を飲み込み、余計な方向に飛んでいこうとする思考を押しとどめ、なんとか説明を始めた。 「千花は小山の上にいたんです。俺が千花を探してて、そこで見つけて。そしたら体調が悪そうで、うつったのかもしれないから、あ、子供たちも病気なんですけど、それで岸先生の所に行こうって千花に言ったら、千花が泣き出して、そしたら、過呼吸になって、倒れたんです。前のめりに倒れて、それでここに来たんです」  岸は私のちぐはぐな説明を、真剣な面持ちで聞いていた。聞き終わると、私の肩越しに千花の額に手を乗せ、一人頷いた。 「吐血や喀血、体からの不可解な出血はなかったんだね? 嘔吐も。気絶の直前に起こった症状は過呼吸だけかい?」  何度も首を縦に振って頷く。  岸はホッと安堵したような表情を浮かべた。 「心配ない。ただのストレスによる過呼吸だろう。念のため詳しく調べてみるから、ベッドに運んでくれるかな。千花くんの後で君の治療もするから待っていてくれるかい?」  岸の言葉に安心し、頷いた後、初めて自分の体を見た。衣類は破け、すり傷や切り傷だらけになっている。足の辺りが特にひどい。どうやって負った怪我なのかすらも定かではなかったが、千花に怪我はなさそうで胸をなでおろした。  千花をベッドに寝かせると「じゃあ、色々と検査をしないといけないから、君は向こうで待っていてくれ」と言って、岸は仕切りのカーテンを閉めた。  まだそわそわと落ち着かず、診療所内をあてもなくふらつく。まったく大変な日だ。子供たちに始まり、千花までも体調不良。質の悪いウィルスでなければいいのだが。  今日の診療所は、当然のことではあるが、すべての照明が点いており、明るかった。前回暗くて見えなかった辺りも、よく見える。  壁にかけられたコルクボードには、英字の新聞や外国人のものと思われる連絡先、おそらくドイツ語で書かれている論文や、その他いっさい理解できない書類がびっしりと貼られていた。よく見れば、紙の貼り方はびっしりどころではなく、古い紙の上に別の紙が重ねられ、厚い層を作り出している。 それらには赤い線が何重にも引いてあったり、岸の字と思われるコメントが乱雑に書いてあったりして、研究者の一種の狂気のようなものが感じられた。  こんな片田舎の局地の辺境中の秘境のような場所の医者も、これほどまでに研究をするものなのだろうか。本棚にも、背表紙が英語やらおそらくドイツ語やらで書かれた分厚い本が並んでいる。パラパラとめくってみたが、もちろん一切読めなかった。紙が手垢で汚れきっていたので、よほど古い本なのだろうと、裏表紙を開いてみたが、発行されたのはここ数年のことらしく、いったいどういうことだ、と首をかしげた。  本を棚に戻し、再び手持ち無沙汰になったので、コルクボードに再度視線を移す。アルファベットの羅列に目をチカチカさせていると、折り重なった紙の最下層に、日本語がチラリと見えた。  興味を惹かれ、上の紙を剥がさないように慎重にめくった。どこかで見たような気がする精悍な顔つきの男性が、背筋を伸ばし毅然とした表情で正面を見つめていた。 ――岸博士、日本人特有の遺伝子病を発見。  理解が追いつかず、頭が真っ白になった。隣もめくる。 ――日本人の一部が持つ遺伝子が原因か! ――治療法不明。既に数名の発症確認!  嫌な想像を振り払うように、乱暴に表層の紙をボードから引き剥がした。剥がしたさきから見たくもないのに、次に次に記事が現れる。 ――致死率百パーセント! 治療法なし! ――緩やかに死に至る病! ――新たに発症者確認! ――岸博士「自覚症状がないなら検査は不要」 ――内閣から説明なし。収まらぬ混乱!  細かい吐息が何度も何度も口から漏れる。涙がこぼれる直前のように、瞳が潤んだ。  表層のほとんどを剥がされ、読めない文字で埋まっていたはずのコルクボードは、今ではほとんど日本語一色になっていた。  コルクボードの右下には、他の記事に比べて小さな記事が、ひっそりと貼られている。すべての記事に写っている男が、深々と頭を下げていた。 ――内閣、岸の主張を完全否定! 岸謝罪!  地面が不規則に揺れているような感覚に襲われた。上下左右の感覚もおぼろげになる。自分の立っている場所が信じられなくなり、床にへたりこんだ。 「すまない。待たせたね。君の治療も――」  カーテンを開け出てきた岸は、部屋の様子を、もしくは私の様子を見て動きを止めた。  無表情に私とコルクボード、床に散らばった紙を眺め、納得したように「そうか」と呟いた。 「岸先生。先生は嘘つきだったんですよね? それでこの村に逃げてきた。そうですよね? 誰にも言いませんから答えてください」  岸の姿が、写真やテレビとあまりに違いすぎて、疑いもしなかった。この写真に比べて、岸の頭はあまりに白く、岸の姿勢はあまりに悪く、岸の顔はあまりにくたびれていた。疑いもしなかった。そして疑うことのないまま過ごしていたかった。そうしたら、こんなどうしようもない不安を感じることなく生きていけただろう。 「先生。黙ってないでなんとか行ってくださいよ」  情けなく、半笑いで言った。  不安になっていることさえ馬鹿らしいと、頭の中の冷静な自分が嘲笑する。政府が否定しているのに何を疑っているんだ? そんなことがあるわけがないだろう? 嘘つきが田舎に逃げてきただけだ、ちょっと考えればわかるだろう? そのすべての言葉の合理性を理解した上で、それでも心の中の靄は一寸たりとも晴れてはくれなかった。大きな合理性で納得するには、この小さな違和感が多すぎた。違和感の一つ一つが繋がりかけては離れていく。もしかしたら、自分自身で無理やり離しているだけなのかもしれない。 「なんとか言えよ、岸!」  私の叫びにも、岸は反応を示さなかった。  病気なんてものは嘘だ、とは言ってくれなかった。  千花はたまたま体調を崩しただけだ、とは言ってくれなかった。  千花の検診を度々行っていたことに、深い理由はない。皆と同じくただの定期健診だ、とも言ってくれなかった。  ただ一言、否定の言葉が聞ければそれで十分だったのに、岸は何も言ってはくれなかった。  表情からは、岸の感情を読み取ることはできない。感情が隠れているというよりは、その感情を受け取れるだけの感受性が私には足りていない。そんな表情に思えた。  岸は微かに震える吐息を吐いた。不安と期待が、追いすがりたい気持ちと逃げ出したい気持ちが、体の中でせめぎ合って、内蔵を圧迫した。 「私が話していい話ではない。明日、話す権利を持った人間を呼ぼう」 「それじゃあ――」 「明日の朝、事務所に行く。いいね」  質問ではなかった。岸の雰囲気に気圧されながらも、食い下がろうと試みたが、「それに千花ちゃんがいる所でする話ではない」という岸の言葉に口を塞がれた。それはわずかに寝息の聞こえる千花を気遣う気持ちと、心に湧いた絶望による作用だったのだろう。私はうなだれて診療所を出た。  ズボンの穴から、うっすらと血のにじむ傷跡が覗いていた。痛みは感じない。
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