第二章

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第二章

 耳をつんざくようなベルの音が事務所に響いた。まどろみの中で不快感に顔をしかめたが、非常事態に頭は驚くほどに素早く反応する。 ――火事だ。  自分の体を包んでいた毛布を洗面台で水に浸し、転びそうになりながら部屋を出た。物だけは多いこの事務所で火が燃え広がってしまったら、被害がどれほどのものになるのか想像もつかない。仕入れ料金がゼロだとしても、それはそれだ。失った資産の重さにとても耐えられる気がしない。  微かに涙目になりながら、事務所の上から下を全速力で駆け回る。一刻も早く燃え広がる前に火元を抑えなくてはいけない。倉庫の物品もそうだが、ほかの家に燃え移るかもしれない。もし燃え移ったら、その先は考えたくなかった。この村には消防署などはない。その事実と最悪の想像が、駆け回る私の背にまとわりついた。  結局、火元を見つけることはできなかった――というか、そんなものはなかった。代わりに音の出所を見つけた。一階の隅にある小さな棚の上に置かれた雑誌や本をよけると、いつの時代だとでも言いたくなるような黒電話が置かれていた。それから、このけたたましい音は発されている。こんな物がこの事務所に置いてあったことすらも知らなかった。電話をかけることもかかってくることも、一度もなかった。  力が抜けて、床にしゃがみこむ。落ち着くと、昔の電話というのはこんなに喧しい音をしていたのかと、ため息にも似た笑いがこぼれた。自分のスマホから着信のたびにこの音が流れていたら、画面を叩き割ってしまうに違いない。そのスマホも電波の悪すぎるこの村では一度も役割を果たしていないので、正真正銘、車谷を除けば外との初のつながりだ。この電話が車谷からの可能性ももちろんあるが、車谷の嫌味を聞かずに、外を感じられるかもしれない。そう思うと電話への期待が一気に膨らんだ。  私は使い方に不安を感じながらも受話器を取り、耳に当てた。 「はい、もしもし」 「もしもしぃ? 会社名と支店名、応答者の名前を言う。そんな簡単なマニュアルも忘れてしまったのかね? それでどうやって電話応対を――おっと失礼、電話なんてかかってこないんだったなあ」  急速に冷え込んだ。何がとはうまく言えないが、強いて言うなら全部。私の全部が冷水をかぶせられたかのように瞬時に冷え、萎んだ。  忘れるはずもない、忘れたい声だった。 「失礼いたしました、専務。何か御用でしょうか?」 「何か御用かだあ? 専務に向かってなんという言い草だ! 辺境に左遷させられた君のような無能社員に、わざわざ、直々に、専務がお電話をかけてくださっているんだぞ! 君の、なんだ、八つ裂きの村支店だったかね? そこの電話番号を調べるのがどれほど大変だったと思っているんだ!」  もう一つ、聞きたくもない声が耳元で喚き散らす。小杉の声だった。クスクスと専務の笑い声も聞こえる。どうやらスマホのスピーカーを使って電話をしているらしい。気持ち悪い。あのハゲ二人が一台のスマホに向かって身を寄せ合うようにして話している様を想像すると、すこぶる気持ち悪かった。 「やすらぎの村支店ですよ、小杉さん。そのような苦労をしてまで、ここに電話をかけてきたのですから、何か理由があるのではないかと思って聞いたのです。気分を害されたなら申し訳ありません」 「君ねえ、謝って簡単に済む問題じゃないんだよ? 目上の人間への敬意をだね――」 「いいんだよ、小杉くん。彼も自分のダメなところは十分わかっているだろう。あの只野とかいう若造よりは幾分ましだろう。本題に入ろうじゃないか」  どうやら、只野はまだ頑張っているらしい。社長が戻ってどうなったのか気になるところではあったが、こいつらに聞いても無駄なことは考えるまでもない。 「本題といいますと?」  私の質問に、刈谷はふんっと鼻を鳴らす。声とも言えないそんな音に、ここまで傲慢さを乗せることができるのか、と顔をしかめた。 「社長のことだ。君は知っているんだろう? 白々しい。社長はその村にいたらしいじゃないか。そのことで調べたいことがあるのだよ。どうせ悪事を働いていたに決まっているんだ。近々そちらに向かうから準備をしておくように」 ――こいつらは頭がおかしいのではないか?  左遷した相手に電話をして、協力しろ? どういう思考回路をしたらそういう答えに行き着くのだろう。 断ろうと口を開きかけたところで、出鼻をくじくように小杉の不快な甲高い声がこちらに届いた。 「事なかれ主義の君のことだ。ノーとは言わないだろう? 君は黙って私たちの案内をすればいい。君はただ黙っているだけだ、簡単だろ?」  先程まで出かかっていた言葉が、急に粘度を持ったかのように喉の奥に張り付く。それでも、黙っているわけにはいかないと、精一杯の情けない言い訳を絞り出した。 「ですが、専務に来ていただけるような、ちゃんとした入口がなくてですね。失礼になってしまうかと」 「入口? 何をわけのわからないことを言っているんだね、君は。馬鹿にするのも大概にしたまえ」  小杉が喚きちらした。受話器を通して唾がこちらまで飛んでくるのではないかと思い、スピーカーの直線上から耳を外した。幸いにも、そんな機能はついていなかった。  刈谷がガマガエルのような不快な声で小杉を諌める。 「まあまあ、小杉くん。彼も混乱しているんだろう。ただね、これは確定事項だ。もし本当に入口がないというのなら、上司のために入口を作るのもサラリーマンの仕事だよ。もし、私が行ったときに満足いかない事がひとつでもあったら、――わかってるね? 只野くん一人だけなら造作もないことなんだよ。どんなことでもね」 「それは――」  言葉を続ける代わりに、強く拳を握りしめる。拳の甲に血が届かず、白く変色した。これ以上力を加える方法がわからない。それだけが私の拳が形を保っている理由だった。足りない分、奥歯を強く噛み締めた。噛み締めた歯の奥から「わかりました」とだけ、消え入るような声でなんとか返した。 「では、日時は追って連絡する」  それだけ言うと、クスクスと気持ち悪い二つの笑い声とともに電話は切れた。右手に握った受話器を、力を込めて投げた。手から離れた受話器は本体と繋がったコードに引っ張られ、バンジージャンプでもしたかのように滑稽に弾んだ――間抜けだ。  私はそっと受話器を持ち、本体の上に戻した。  車谷の手配した重機は、私の想像した何倍もハイスペックな新型だった。その重機の上では、しっかりとヘルメットを被った車谷が大隈に使い方を教えていた。重機とスーツ、ヘルメットと仏頂面が異様な世界観を醸し出している。  大隈は顎に手をやり、感心しながらも、少し困ったような顔で言った。 「ほお、こりゃすごい。すごいが、ここまでのものは必要なかったんだが」 「安全性に配慮した結果です。チェーンソーなんて危ないもの使わせられますか。これなら木の伐採から、運搬、解体、移動までなんでもできます」 「なんでもはできなくても良かったんだけどなあ」 「もう、シゲさん、文句ばっかり。よっちゃんがせっかく苦労して持ってきてくれたんだから、ありがたく使いなよ。男なら使いこなしてやるってくらいの気概見せなさい」  実際、車谷は苦労したはずだ。今日はヘリポートではなく下に降りる、と黒電話に連絡があったので下で待っていたら、降りてきたのはおそらく軍用であろう輸送ヘリだった。そのヘリから車谷が重機に乗って降りてきたときには、唖然を通り越して、面白く、つい笑ってしまい、車谷に睨まれた。私とは比べ物にならないくらいに大笑いしていた千花と大隈には何もお咎めはないのだから理不尽極まりない。  いったい、こんなものをほんの数日で準備する車谷の会社はなんなのだろう。最近ではそもそも会社なのかすらも怪しい気がしていた。こんなビッグイベントが起こっているのにほかの村人は見に来るわけでもないし、大隈は物自体に驚いてはいるが、持って来たという事実には全く動揺していない様子だ。彼らにとっては驚くようなことではない、ということにひどく驚く。 「おお、そうだな。千花ちゃんにそこまで言われちゃ、俺が怖気付いてるわけにはいかねえ。使いこなしてやろうじゃねえか」  大隈は袖のないシャツの袖をまくった。千花は隣で大隈に檄を飛ばしながら拍手を送った。それを重機の上から無表情に見下ろす車谷。苦笑する私。何とも狂った構図だった。 「ただし、大隈さん。木を切り過ぎないようにだけお願いしますね」  車谷が念を押すように、わずかに声に力を込めていった。大隈が力強く頷く。 「おう。任せろ、目立たねえ程度にバランスよく切るからよ。というか、村の中でしか切る気はねえよ。木だけにな」 「あのー」  ふと思い立ち、話に割り込んだ。車谷があからさまに不快そうな顔をこちらに向けた。 「なんですか? 荷を降ろし終わったなら戻ってもらって結構ですよ」 「いえ、あの、この重機を使って村の入口と道を広げるのって可能ですか? 広げるというか作るというか」  千花と大隈は、私の発言の意図を測りかねているらしく、不思議そうに首をかしげた。一方で、車谷は想像もしていなかったほどの敵意をこちらに向けていた。 「ふざけているんですか? 何のためにそんなことを。あなたのそういう態度が本当に気に食わない。なんであなたなんかがこの村に来たのか」 「まあまあ、よっちゃん。そんなに怒るようなことじゃないじゃない。そんな怖い顔しちゃって。イケメンが台無しですよ?」 「そうそう、スマイルスマイル。こんな重機を持ったら、何かしたくなっちまうのが男の子ってもんよ」  千花と大隈に諫められ、車谷は敵意を静めた。元の仏頂面に戻り、「なぜそんなことをしようと?」と異様に平坦な声で言った。  私は想像もしていなかった、車谷の剣幕に圧倒されながらも答えた。 「いや、実は、昨日会社の専務から連絡がありまして、近々この村に来るから道を整備しておけと」  視線を泳がせながら言った私の言葉に、車谷は呆れてものも言えない、とでも言いたげにため息をついた。 「その専務というのは、あなたに濡れ衣を着せて飛ばした奴ではなかったですか? そんなやつの命令なんか無視してやればいいじゃないですか」  車谷が刈谷のことを知っていたのは意外だったが、もはやその程度のことでいちいち驚いてはいられない。 「友人のことを人質に取られていますし――」 「そんなことはあなたの社長に言えば何とでもなるでしょう。簡単です、電話を一本入れればいい。使い方がわからないのでしたら、教えて差し上げるくらいは私にもできますが?」 「いえ、でも……」  車谷の言うことはもっともで、反論の余地などない。それなのに、思い出したくないことが、あの目が、そこに映ったあの日の自分が、頭の隅をちらついて、次の言葉を続けさせてはくれなかった。理由、と胸を張るにはあまりに古すぎる傷が、それでも思い出したように鈍い、痒みにも似た痛みを放った。 「まあ、いいじゃねえか。別にバスんとこまでの道を整備するぐらい、なんも問題ねえだろ? 俺も実は森の木で彫刻をしたいと思ってたんだよ」  大隈が押し黙った私を見かねてか、大きな声で言った。そのまま、私の背を強く叩き豪快に笑う。叩かれた背は痛かったが、新しい痛みは古い痛みを奥に押し戻してくれた。  車谷は大隈をしばらく見つめていたが、諦めたようにため息をついた。 「わかりました。ただし、バスの所までで、あまり目立たないようにしてください。私はもう戻ります」  車谷はそう言うと、ヘリに乗り込む。ヘリはおよそ街中では許されないであろう爆音とともに浮き上がり、前に進み出したと思うとすぐに小さな粒になり、やがて消えた。 「そういうことだ。シロちゃんも俺の練習に付き合ってくれな」 「ありがとうございます」  情けなさや、感謝や、申し訳なさで、ぐちゃぐちゃだったが、なんとか消え入るような声で礼を言った。大隈はまた大声で笑い、千花の方に顔を向ける。 「千花ちゃんも手伝ってくれるよな?」 「いやっ」  千花は駄々をこねる子供のようにそっぽを向いた。予想していなかったのか大隈が目を見開いた。 「なんでえ。なにを怒ってんのよ。いいじゃねえか、シロちゃん困ってんだぜ。どうせ俺ら暇人なんだし、手伝ってやろうぜ」 「いやなの。なんで修くんを陥れたやつのために修くんが道をつくるの? そんなのおかしいじゃん」 「おかしいってなあ。まあ、その通りだけどよ。シロちゃんにも色々あんだよ」 「色々なんて誰にでもあるよ。でも言ってくれなきゃわかんないじゃん。わかんないまま嫌なことに嫌々協力するなんて私は嫌だからね!」  千花はそう言うと早足にどこかへ行ってしまった。大隈は気まずそうに頬を掻く。 「まあ、シロちゃんも千花ちゃんも若いってことだ。気にするな。若いっていうのは、大概はいいことだから」  大隈がよくわからない理屈で慰めてくれたが、いっこうに気が楽にはならなかった。車谷の言うことは正しい、千花の言うことも正しい。大隈の言うことは優しい。私だけが冷たくて間違っていた。  その後、村人たちに物品を配るのを大隈が手伝ってくれた。いつもは千花が手伝ってくれていたことだ。千花の何倍も力のあるはずの大隈に手伝ってもらっているのに、配るのに何倍も時間がかかった気がする。  きっと私が何十倍も遅かったのだろう。
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