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母は歴史の研究者、父は警視庁に勤めている。母はここ数か月帰りが遅く、恭子は家でいつも一人だった。研究方針を巡り、男性中心の職場で孤立しているらしい。
歴史の研究と人間関係がなぜ絡むのか、恭子にはわからない。だけど母が苦境に立っていることは理解できた。
地方調査が決まると母は久々の笑顔を見せて愛娘を誘い、恭子は二つ返事で承諾した。チケットを手配した直後に選抜合宿を辞退したことがバレて「どうして……」と絶句されたけれど、恭子の決心は変わらなかった。
「合宿より家族が大事という意味です」
「剣道で守るの? どうやって?」
剣の腕など何の役にも立たない。わかっている。悪いですか。
「おかしいですか?」
目の前の高校生に少しいらつき、答えが乱暴になった。真栄田はしばらく恭子の顔を見た後、「いや、おかしくない」と真面目な顔で頷いた。
「じゃあ君が用があるのは道場じゃない?」
「迎えを待っています」
「もう素振り稽古が始まってるよ。時間か場所を間違えたんじゃないかな。僕が案内しよう」
そこで応接室の扉が開き、母が姿を現した。
「お母さん、これから海岸を下見してくる。車で三十分くらいだって。恭子は稽古?」
「うん」
「じゃあ六時にここで会いましょう」
いったん背を見せた母が、再び恭子に向き直った。ポーチから櫛を取り出し、自分より背の高い娘の黒髪をすいた。
「高校生の先輩と稽古するんでしょう? 失礼のないようにね」
「ありがとう、母さん」
「恭子、がんばってね」
母が応接室に戻る。重厚な屋久杉の扉がすべてを拒絶するかのように「ばたん」と大きな音を立てて閉まった。
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