ラナ園のお茶会

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ラナ園のお茶会

「ラナ」という植物がある。 最大で背丈が三メートルほどになる常緑樹で、春に赤ん坊の小指の爪ほどの小さな青い花をつけ、初夏には豆粒くらいの白い実が鈴なりになる。南部国境近くの比較的温暖で雨の多い地域では、森に自生するだけでなく人々が好んで庭先に植えるという。 南部国境に位置するアルヘンソ辺境伯領。おれが領主の屋敷を訪れるのは今回で三度目だが、辺境伯家の長女タミア様、次女ソニア様に案内されて向かったのは屋敷に隣接するラナ園だった。アルヘンソ姉妹に挟まれて無表情にラナ園をながめるのはおれの護衛対象であるリアーナ皇太子妃。 リアーナ様は「ラナ」について何も知らないようだったが、おれは「なぜこんなところに」と心中穏やかではなかった。 護衛騎士として傍にいながら、暴漢から彼女を守ることはできても貴族令嬢の婉曲な嫌がらせには臍を嚙むしかない。こぶしを握りしめるおれを見て、ソニア様がクスッと忍び笑いをしたようだった。 「リアーナ様、どうぞこちらにおかけください。病み上がりのリアーナ様をこんなところまでお連れしてしまったものだから、デ・マン卿がお怒りのようです」 ラナ園の端には芝生の広場があり、テーブルにお茶とお菓子が準備されていた。侍女のスサンナがリアーナ様のために椅子を引き、サッと日傘をさしかける。リアーナ様は日傘を避けて振り返り、不思議そうに首をかしげた。 「デ・マン卿は怒っているの?」 ぼんやりした口調は幼子のようだ。 帝都を離れてからというもの、リアーナ様が記憶を失って子どもに戻ってしまったのではと思うことがある。もしそうなら、きっとその方が彼女にとっては幸せだ。けれど、彼女は記憶を失ってなどいない。 「怒ってなどおりません。今日はことさら陽射しが強いので殿下(・・)のお体を案じておりました」 「デ・マン卿、その呼び方はやめてちょうだいと言ったでしょう?」 リアーナ様を傷つけると知っていながらつい「殿下」と口にしてしまったのは辺境伯令嬢二人への対抗心からだ。 「申し訳ありません、リアーナ様」 「もうじき皇太子殿下との離婚手続きも終わるわ。わたしに〝殿下〟と呼ばれる資格なんてないのよ。まして皇太子殿下の従姉でいらっしゃるタミア様とソニア様がいらっしゃる前で」 「お気になさらず」 「リアーナ様はまだ皇太子妃ですから」 二人の令嬢は口々に言う。 タミア様は椅子に腰掛け、ソニア様は立ったままお茶を淹れていた。二人には護衛も侍女もついていない。辺境伯家の敷地内とはいえ年頃の令嬢二人がずいぶん無防備だと呆れたけれど、どうやら二人にとってはこれが普通のようだった。 ――もし、今おれが姉妹を人質にとってリアーナ様との離婚撤回を皇太子殿下に迫ったら…… 大それた考えが頭を掠めたが、おれが処刑されるだけでなく実家のデ・マン子爵家とリアーナ様のご実家フェルディーナ公爵家に多大な迷惑がかかるだけのこと。 おれはリアーナ様の夫である皇太子殿下に忠誠を誓った紫蘭騎士団の騎士だ。リアーナ様の護衛騎士になってから心の中では数えきれないほど主君に悪態をついてきたが、それを実際に口に出して実行に移すほど愚かではなかった。 その一方で、自分が後先考えない愚者ならリアーナ様を救えたかもしれないと思う。 リアーナ様が皇太子妃宮で暮らしていた頃、毎夜扉の外まですすり泣く声が聞こえていた。皇太子殿下が夜間にリアーナ様の宮に渡られたことは一度もなく、初夜すら意味不明な理由をつけて顔を見せなかったとか。 あれは夫を焦がれて泣くお飾り妻のもの。 ――リアーナ様ももっと気楽にお過ごしになられたら良いのですわ。ユーリック殿下はまだ子どもなのです。グブリア皇家の跡継ぎを成すという責任から逃げておられるだけ。 ――皇太子殿下だって巷で噂になるほど遊び歩いているんですもの。わたしたちも好き勝手すればいいのよ。いくら贅沢したって文句言われないわ。 去年の夏。四人の皇太子妃が集まった茶会で、リアーナ様以外の方は思いのほかあっけらかんとした態度だった。 「巷で噂」というのは〝花街(ハナマチ)〟と呼ばれる帝都の娼家街に皇太子殿下が入り浸っているというもの。皇太子殿下からの扱いは三人の皇太子妃もリアーナ様と変わらない様子だったけれど、お茶会でリアーナ様に向けられた彼女らの励ましの言葉はむしろリアーナ様を絶望の淵に追い込んだようだった。 ――政略結婚だとわかっているのよ。それでも愛されたいと思うわたしがおかしいのかしら。あんなに素敵な妻が何人もいらっしゃるというのに、なぜ花街など……。 もともと痩身だったリアーナ様が更に痩せられていく姿を、身近に仕える者たちは皇太子殿下に蔑ろにされたことからくる心労のせいだと思っていた。それが麻薬によるものだと気づいたのは今年に入って「帝都で麻薬が広まっている」という噂を耳にしたとき。 その頃のリアーナ様は少し触れただけでもポキンと折れてしまいそうで、おれもスサンナも他の誰も「麻薬」という言葉を彼女の前で口にすることはできなかった。けれど、あのとき強引に問いただして麻薬をやめさせるべきだったのだ。 「リアーナ様、こちらはラナの葉を使ったお茶です。この辺りではみな庭先からラナを摘んでお茶にするのですよ。どうぞお召し上がりください」 ソニア様にすすめられリアーナ様がティーカップを手にとる。華奢な指先は治療の甲斐あってずいぶん血色がよくなっているようだった。 魔塔主様の治療は一般の治癒師よりもかなり回復が早いようですね――、とは、今日アルヘンソ邸を訪れたリアーナ様に向かってタミア様が開口一番に言った言葉。 「懐かしい味がします。どこかで飲んだような」 リアーナ様の言葉で一度おさまった怒りが再燃した。立場的にも身分的にも会話に割って入る資格はおれにはない。だが、 「ご令嬢たちはなぜリアーナ様をラナ園(ここ)に?」 資格もなく口を出したおれに、アルヘンソ姉妹は顔を見合わせて笑った。 「デ・マン卿はラナ茶をご存知のようね。でも、わたしたちも悪気があってリアーナ様をここに招いたわけではないのです。アルヘンソ家の優秀な治癒師が、ラナの服用はむしろリアーナ様のお体に良いだろうと」 「魔塔主様が治癒にあたっているのに、無関係の治癒師がなぜ口を出すのです」 麻薬に手を出したリアーナ様が世間から指をさされることなくこうして静かに過ごしていられるのは、皇家がその事実を隠蔽したからだ。その一端を魔塔主様が担っている。 リアーナ様の麻薬使用が皇太子殿下に知られたのとほぼ同時に、帝都では麻薬の違法製造販売を行っていたローナンド侯爵が捕まり、貴族だけでなく平民街をも巻き込んで大騒ぎになった。ローナンド家の悪行に注目が集まる中、リアーナ様に関する証拠は皇太子殿下の手で隠蔽され、リアーナ様はひっそりと皇宮を後にしたのだ。 公にされたのはリアーナ様の体調が優れず気候の良い南部の皇家直轄領に静養に向かうということ。馬車は偽装され、色白の痩せた女性が偽物のリアーナ様として馬車に乗って皇宮を出立。リアーナ様とおれとスサンナは〝ゲート〟という魔塔主様の魔術でアルヘンソ辺境伯領内の皇家直轄領に一瞬でたどり着いた。 「デ・マン卿も魔塔主様の力を借りて皇家の南部別荘で過ごされているのですから、世の中にいかに秘密と例外が多いかはご存じでしょう?」 「……世の中にというより」 皇家に、と言いたいところだが、あからさまに皇室を批判するような発言をしてはこちらが不利になるだけだ。 「皇室も魔塔も秘密だらけですよ。わが家門も負けず劣らずと言ったところですが」 あっけらかんと言ってのけたタミア様におれは驚愕の眼差しを向けた。 アルヘンソ辺境家は他の貴族と違ってほぼ自治に近い権利が認められた特別な家門だということは知っていたが、実際にアルヘンソ家の人間と話していると自分がおかしいのか相手がおかしいのか分からなくなることがある。はっきりしているのは、アルヘンソ辺境伯領の文化や考え方は帝国の他地域とかなり異なるということだ。 「当家の治癒師のことですが、実は魔塔主様の直弟子なのです」 「それは帝国法に反するのでは? 魔塔に治癒師協会へ関与する権利はなかったはずです。それに魔術師と一般人が皇家の許可なく関わることは禁じられている。魔術師である魔塔主様が一般人の治癒師を弟子にとるなど」 「ユーリック殿下はご存じですので問題ありません。ただ、皇帝陛下は魔術師嫌いでいらっしゃるからお伝えしておりませんけど」 不穏な会話にも関わらず、タミア様とソニア様はフフッと穏やかにほほ笑みあっている。彼女の言葉を信じるなら、皇帝陛下と皇太子殿下の間にも秘密が存在するということだ。 近年、帝国貴族の中には皇帝派、皇太子派を名乗る者が出てきている。どうやらアルヘンソ辺境伯家は皇太子派なのだろう。アルヘンソ辺境伯は皇太子殿下の叔父なのだから当然といえば当然だ。不思議なのは、なぜ陛下にも秘密にしていることをおれにまで話すのかということだ。 もしかして、デ・マン子爵家を皇太子派に引き入れようとしているのだろうか。長兄は子爵家を継いで領地で奔走しているし、次男はおれと同じく騎士だが剣術の才がなく領地の治安隊に甘んじている。おれがアルヘンソ領に足を踏み入れたのはたまたまだが、この機を利用して子爵家を丸め込もうと―― 「デ・マン卿、考え過ぎは老いの元。時には直感で動くことが未来を切り開くこともあります。騎士であればむしろそういうことの方が多いのでは? 敵が剣を振りかざしているのにそれを前に考え込んでいては困ります。リアーナ様もそう思いませんか?」 リアーナ様はわずかに微笑んだようだった。その微笑はタミア様の次の言葉で儚く消える。 「リアーナ様、今お飲みになったのはラナの葉を使ったお茶です。ラナの葉はローナンド侯爵家が独自の精製法で密造し、帝都で広めようとした麻薬〝ラナ・ローク〟の材料」 スサンナが日傘を投げ捨て、リアーナ様の震える手を支えた。こぼれたラナ茶がテーブルクロスを濡らし、スサンナの手に導かれてリアーナ様は濡れたテーブルにカップをおろす。 「……ラナ・ローク?」 やはり、リアーナ様はご自身が摂取していた麻薬の名前すら知らなかったようだ。「ご安心ください」とタミア様は穏やかな声で続ける。 「ラナの葉はラナ・ロークの材料ですが麻薬ではありません。ロークという木の樹液と混ぜることで精神作用のある麻薬となります。ラナ茶を愛するアルヘンソ領民としてラナ・ロークとラナ茶の違いをぜひ知っておいてもらいたかったのです。ラナ茶にも薬効はありますが、日常的に飲んで障りのあるものではありません」 タミア様はニコッと笑ってカップに口をつけた。ソニア様は新しいカップにラナ茶を注いでリアーナ様の前に置き、甲斐甲斐しく焼菓子を取り分ける。濡れたテーブルクロスはさも最初からそういうセッティングだったようにハンカチを敷いて済ませてしまった。 「リアーナ様、ラナの木は花の時期よりも実をつけた今の時期のほうが美しいの。白い実が涼しげでしょう? あの実は渋くて食べれたものではないけれど、来週には収穫してラナ酒を造る予定なんです。収穫前にこの美しい景色を見ていただきたくてお招きしたの。良かったらラナ酒も一緒に造ってみませんか?」 「来週、ですか?」 リアーナ様は居心地悪そうに視線を泳がせている。 「リアーナ様、来週にはユーリック殿下との離婚手続きが終わるとお聞きしました。その後どうするかもうお決めに?」 「……おそらく、フェルディーナ公爵家に」 尻すぼみに答えながら、リアーナ様はゆっくりとうつむいた。 表向きには彼女の麻薬使用が伏せられているとはいえ、離婚を進めるにあたりお父上であるフェルディーナ公爵閣下には真実が伝えられている。リアーナ様が皇家直轄領の別荘に移られてすぐに面会に来られたけれど、やつれた娘を心配しつつ困惑気味の表情で早々に帰っていった。離婚で皇家との姻戚関係がなくなっても、今後フェルディーナ公爵家は皇家に頭が上がらないはずだ。 「離婚してしまえば皇家の別荘にはいられないでしょうけど、リアーナ様さえ良ければしばらくアルヘンソ家で静養してはいかがです?」 タミア様の提案でリアーナ様は希望の光を見たようにパッと顔をあげた。けれど、そのあと不安そうにまた顔をうつむける。皇宮にいたときは傷つきながらも周りを安心させようと気を張っていたけれど、今はそれがプツンと切れてしまったようだ。 「リアーナ様、アルヘンソ家での静養はユーリック殿下からの提案です」 その言葉に再びリアーナ様が顔をあげた。どうして、とおれは思う。 どうしてあんなに傷つけておきながら今さら別れる妻に温情のようなものをみせるのか。どうしてあんなに傷つけられながら、「ユーリック」という夫の名前だけでそんな顔をするのか。 「公にされる離婚理由はリアーナ様が気鬱のため社交の場に顔を出すこともままならないからということになるようです。離婚成立後すぐに公爵家に戻って皇家から厄介払いされたような印象を与えるより、ユーリック殿下の母親である故リリアンヌ皇后の実家であり、気候のよいアルヘンソ領で静養した方が円満な離婚に見えるだろうと」 皇家は体面ばかりだ、とおれが心の中で毒づくと、ソニア様が見透かしたように笑う。 「円満離婚であれば再婚話も円滑に進むでしょう。リアーナ様の体調が回復されれば男性からのお誘いが殺到しますよ」 思わぬ言葉に動揺しているのはおれだけ。リアーナ様は「わたしなど」と他人事のように口にした。 「リアーナ様。わたしたちはユーリック殿下がリアーナ様をどのように扱って来たか当人から聞き及んでおります。いくら忙しいからといって妻をずっとほったらかしにするなどあり得ません」 その「忙しい」が花街通いで忙しいということは白状していないらしい。 「わたしたちはリアーナ様の味方ですのでご安心下さい。なんならアルヘンソ家に嫁いでいらしてもよろしいのですよ」 「えっ!」 思わず声が出て、おれは慌ててゴホンと咳払いをする。リアーナ様は困惑気味にスサンナと顔を見合わせ、アルヘンソ姉妹はおれの反応に声をあげて笑った。 アルヘンソ家に嫁ぐとなれば相手はこの姉妹の兄であるランド・アルヘンソ。 彼はおれと同じく紫蘭騎士団員だが、皇太子殿下の補佐官であり〝紫蘭騎士団最強の男〟と言われている。屈強な体に卓越した身体能力、加えて皇妃宮や皇太子妃宮の侍女たちが噂するほどの男前。逆立ちしたっておれに勝ち目はない。 「やはりデ・マン卿はおもしろいわ。ソニアもそう思わない?」 「そうね。せっかくだからリアーナ様だけでなくデ・マン卿も舞踏会に招待してはどうかしら?」 「舞踏会ですか?」 おれが問い返すと、リアーナ様も首をかしげる。 「帝都では初夏にデビュタントの舞踏会が開かれるでしょう? 当家でも懇意にしている貴族の令嬢令息を招いて舞踏会を開くことにしたの。かしこまったものではないから気負わなくていいわ。リアーナ様がアルヘンソに留まるにはちょうどいい言い訳にもなる。帰りに正式な招待状を渡すからいい返事をお待ちしています。デ・マン卿は……」 タミア様はふと思案顔になり、「保留にするわ」と口にした。 「どうしてですか?」 縋るような目でタミア様に聞いたのはおれではなくリアーナ様だ。 去年の夏のお茶会以来、体調不良を理由に一切公式の場に姿を現さなかったリアーナ様にとって、どんな小さな集まりでも不安になるのは変わりない。今日アルヘンソ邸に訪れるのさえ緊張していたくらいだ。けれど、タミア様は容赦なかった。 「デ・マン卿の主君は皇太子殿下ですよね。リアーナ様が皇族でなくなったあとデ・マン卿がどうなるか分かりませんし、帝都に戻るとなれば辺境地の舞踏会にお誘いするわけにもいきません」 リアーナ様は息をするのも忘れてしまったようにボウッとタミア様の口元を見つめていた。おそらくおれがいなくなるとは思いもしなかったのだろう。 帝都にいた頃の聡明な彼女であればすぐに分かったはずだが、あの事件(・・・・)以来リアーナ様は考えることをやめてしまった。これ以上傷つかないために。 「デ・マン卿はいなくなってしまうのね」 感情のないぼんやりした声。それが事実だと自分に言い聞かせるような言い方だった。 「リアーナ様、わたしは……」 ずっとそばにいます、と心の中で叫んだ。でもそれが叶わないことはわかっている。 「仕方ないわ。デ・マン卿がそばにいなくなるのは不安だけれど、どこかで生きてくれているならそれでいい。そうでしょう?」 かすかにほほ笑むリアーナ様のそばで、スサンナがこっそり目頭を押さえた。彼女が泣いているのはおれと別れるのが寂しいからではない。きっと、あの事件(・・・・)が頭を過ったからだ。 リアーナ様の麻薬使用が皇太子殿下によって明らかにされた日のこと。リアーナ様の幼馴染であるローナンド侯爵令嬢が麻薬取引に関わっていたという事実も判明した。ローナンド家の養女だったその令嬢はリアーナ様を利用するために近づいたようだが、その日、ローナンド家が雇っていた暗殺者によって口封じのため殺された。 リアーナ様が心を閉じてしまったのは皇太子殿下のせいではなく、幼馴染を失ったせいだろう。幼馴染だと言うあの女は暗殺者の放った毒蛇で全身を青黒く変色させ、リアーナ様の腕の中で息をひきとった。 皇宮敷地内で起きたその事件についても緘口令が敷かれ、あの場にいたおれもリアーナ様もスサンナも事件のことは一度も話題にしない。だが、「どこかで生きてくれているなら」と言ったリアーナ様の頭には、きっとあの女のことがあったはずだ。 「スサンナもデ・マン卿がいなくなるのが寂しいのね」 「ええ……、ええ。リアーナ様。寂しくてなりません。わたしは何があってもリアーナ様についています」 スサンナのように「おれもついています」と言えたらいいが、実際そうするには紫蘭騎士団を辞めなければならない。そうしたところでリアーナ様に仕えられるとは限らない。彼女のご実家のフェルディーナ公爵家が護衛を手配するとしても、おれを選んで皇太子殿下に睨まれるようなことはしないはずだ。 姉妹はおれの様子をじっと観察しているようだった。おれの秘めた気持ちに気づいていながら、リアーナ様の後ろで一喜一憂する姿を見て愉しんでいるとしか思えない。 その日、リアーナ様はラナの葉と招待状を姉妹から受け取り、帰りの馬車に乗り込んだ。週明けには離婚に関する最終手続きのため皇太子殿下が皇家直轄領の別荘を秘密裏に訪れることになっている。そのときにおれの処遇も言い渡されるはずで、リアーナ様の護衛騎士でいられるのはあとわずか。 おれは皇家の別荘への帰路、水平線に浮かぶ島影をながめながら馬上で一人ため息を漏らした。 ここに引っ越してきた当初、ずっと内陸部で暮らしていたおれは視界の右から左まで続く海原を見て言葉を失ったが、一週間も過ごせば見慣れた景色になった。それでも、すべてが茜に染まった海は格別だ。リアーナ様も馬車の小窓から海をながめている。 別荘管理人の話によると、地図にないあの島の存在も、そこへ向かう船も皇家とアルヘンソ家の極秘事項なのだという。これだけの秘密を知ってしまった一介の騎士が紫蘭騎士団を辞めたいなどと言ったら――。 「考え過ぎは老いの元だ」 タミア様の言葉を思い出し、おれが海に背を向けて別荘のある松林へと馬を進めたときだった。 ヒュ、と風を切る音がし、振り返るとリアーナ様の乗る馬車に火矢が刺さっている。 「敵襲だ!」 立て続けに火矢が馬車を襲ったが、車体に耐火魔術が付与されていると気づいた黒づくめの男たちが剣を手に姿を現した。
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