アルヘンソ辺境伯家の常識

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アルヘンソ辺境伯家の常識

グブリア帝国では魔力測定で一定値を超えた者は魔塔に集められる。魔塔は魔術師の管理機関であるとともに研究機関でもあるが、魔力を使った体術や剣術はその埒外。よって、グブリア帝国に「魔剣士」は存在しない。 ――ということになっているのだが。 「そこはあれよ、魚心あれば水心っていうの? 融通きかせてもらわないと国境の向こうは魔獣生息域を抱える魔術師の国バンラード王国なんだから。うちの隣のバルヒェット辺境伯領も秘密の多さではいい勝負――」 「よっ」っと語尾を弾ませ、クラリッサは剣に魔力を込めて間合いを詰めた。 彼女は風魔法を足に纏っているらしく、おれはその予測不能な動きについていくのに精いっぱいだ。なんとか七度剣を受け止めたものの、バランスを崩した途端に足を払われて尻もちをついた。こんな姿はリアーナ様に絶対見せられない。 「さすがトビアスね。魔剣士相手にそれだけできれば十分よ」 おれに手を差し出したのはそばで見ていたソニア様。 「大丈夫。一人で起きあがれます」 おれがヒョイと立ち上がって尻についた埃を払うと、ソニア様は不服げに肩をすくめた。 「リア様は見てないのよ。手をつなぐくらい問題ないと思うけど」 「ソニア様はおれと手をつなぎたいんですか?」 予想外の反応だったらしく、ソニア様は目を見開いてクラリッサを振り返った。 「ねえ、トビアスが変だわ。リア様の名前を出しても顔色ひとつ変えないなんて」 「運動直後で赤いんですから顔色の変わりようがありません」とクラリッサ。 「言われてみればそうね」 まったく、いつからおれはソニア様とクラリッサのオモチャになったのか。 「リア」というのはリアーナ様のことだ。彼女は帝国北部に住むリア・ドルチェ男爵令嬢、おれは男爵令嬢の従者トビアスということになっている。トビアス・デ・マンというのがおれの本名だが、ここでは苗字のない平民騎士。 素性の怪しげな客がアルヘンソ家に滞在するのは珍しいことではないらしく、辺境伯閣下かタミア様が認めた者であればみな余計な詮索はせず受け入れるようだった。そうやってアルヘンソ家に迎えられて兵士となった者もかなりの数がいて、クラリッサもその一人。ただ、彼女の場合は辺境伯閣下の客でもタミア様の客でもなく、故リリアンヌ皇后に連れられてアルヘンソ家に来たらしい。 アルヘンソ辺境伯領では他地域の常識が通じないと聞いてはいたが、女性兵士の多さにまず驚いた。だだっ広い訓練場では二十人ほどの兵士が自主練をしているが、その半数が女性。そして、兵士ではないが辺境伯令嬢ソニアの剣術の腕前もかなりのものだった。 体を動かすのが嫌いだというタミア様とはアルヘンソ邸に移ってから二回ほどしか顔を合わせていないが、ソニア様とクラリッサとはほぼ毎日顔を合わせている。おれの主な訓練相手はこの二人。 袖をまくり上げたチュニックに胸甲、ズボンにブーツ。女性のこういった姿は皇宮では当然目にしない。紫蘭騎士団に一人だけ女性騎士がいるが、遠目に一、二度見かけた程度。そういえば、その女性騎士が愛用している剣はソニア様と同じレイピアだと聞いたことがある。 レイピアは刃渡り一メートルほどの細身の刺突剣。同じレイピアでもソニア様の剣は儀式用かと思うような装飾がマナ石で施され、そのマナ石から剣に魔力が供給されている。 彼女の(レイピア)はおれの短剣のように光の刃が現れるわけではなかった。魔力で剣を形作るのはかなりの量のマナを消費するため、隠し持つ必要がなければ刀身そのものに魔力を纏わせる方が効率がいいらしい。 ソニア様だけでなく、アルヘンソの兵士は魔剣士だろうが魔力のない剣士だろうが魔法剣と普通の剣の二本を腰に差している。だが、おれのように魔力で刀身を具現化するタイプの魔法剣を使う者はいないようだった。 おれの剣にはめ込まれたあの青いマナ石は平民が一生暮らせるだけの価値があるとか。それを二度新しいものと交換したが、ソニア様が「はい」と飴玉のように投げ寄こしたのはアルヘンソ辺境伯家がマナ石鉱山を所有しているからだ。それに、マナの消費されたマナ石は魔術師が魔力を込めることで再利用できるらしい。その場合は天然のマナと違って特定の属性を持つ魔力を付与することが可能なため、兵士のほとんどは「魔力石」と呼ばれる再利用のマナ石を使っている。 「それ、ちょっと貸してみて」 クラリッサは自分の剣を鞘におさめ、おれの手から短剣を奪った。彼女が柄を握るとおれの時と違って赤橙色に輝く光の剣が出現し、ヒュッと軽く剣を振るうと刃が炎を纏う。その火は刃渡りの二倍ほどにまで達し、もう一度振ると今度はビュッと鋭い風切り音とともに小さな竜巻が土埃を巻き上げた。 「最初は火属性の魔力、次は風属性の魔力。両方ともわたしの魔力だけど、魔力石を使っても似たような感じになるわ。トビアスもそろそろ魔力石を試してみたら?」 「それはおれも考えていた。他に氷と雷も魔法剣向きの属性だと聞いたが、それも見せてもらえないか?」 えーっ、とクラリッサは面倒臭そうに眉間にシワを寄せる。アハッとソニア様が笑い声を漏らした。 「クラリッサは氷と雷は苦手だからきっちり詠唱しないと属性付与できないのよ。剣で戦うのにいちいち詠唱する訳にいかないでしょ? 魔剣士が放つ魔力は魔獣と同じで本能的なものだと考えた方がいいわ。魔獣は種類によって魔力波の特性が決まってるでしょ?」 帝都で暮らしていると魔獣はあまり馴染みがないが、魔獣を防犯用に飼っている貴族もいる。ネコ魔獣の火球は火事になるがイタチ魔獣は熱波だからそっちの方がいいと誰かが言っていた。 「つまり、クラリッサは魔獣ってことか」 「失礼ね。わたしだって力任せに魔力を放ってるわけじゃなくて、臨機応変に魔力属性を変えたり魔術付与したりしてるのよ。ロイを斬ったときだって、生け捕りするためにわざわざ治癒魔法を付与したんだから」 「ああ、それで出血が少なかったのか」 「そういうこと」 ここに来てから彼女たちと互いのことについて色々話したが、クラリッサが上級魔術師レベルの魔力を持ちながら魔術王国バンラードから密入国してきたのは、術式構築が性に合わない((面倒くさい))からだそうだ。魔術を使うのは彼女にとっては難解なパズルを解くようなもの。時間をかければできなくないが、やらなくていいならやりたくない、と。 ――こっちは日々生きるか死ぬかだったのよ。魔術公式なんて覚えてる暇があったら剣を振って魔獣を狩った方がお金になるでしょ? でも、あの国の魔術師は魔剣士をバカにするの。頭が空っぽの脳筋。遠距離攻撃できず突っ込むしか能がない猪だって。 腹立ち紛れに勢いで国外逃亡を図ったというから猪という表現はあながち間違ってなさそうだ。 通常、バンラード王国からの密入国者はアルヘンソ領の隣にあるバルヒェット辺境伯領の山脈沿いに国境を超えるのだが、クラリッサはバルヒェットへ向かわずトゥエス海へ向かった。海岸沿いにバンラード王国と国境を接するのはアルヘンソ辺境伯領だ。 ――本当はグブリア帝国じゃなくて、あの島(・・・)に行こうとしてたのよ。あそこも魔術の国だって聞いたから。 だが、水平線に見えたのはかすかな島影だけ。放置されていた小舟で渡ろうとしたが途中でひっくり返り、潮に流されてたどり着いたのが皇家直轄領の海岸だった。そして、彼女を発見したのが別荘に赴任したばかりのチャールズさん。クラリッサの膨大な魔力を感知したチャールズさんは魔術嫌いの皇帝に彼女を突き出すのを憐れに思い、皇太子殿下を連れて別荘を訪れていたリリアンヌ皇后に相談してアルヘンソ家に任せることになったのだとか。 酒のつまみとしてはなんとも刺激的で波瀾万丈な話だった。リリアンヌ皇后はそれから一年も経たず事故で亡くなり、クラリッサが皇后に誓った忠誠は息子の皇太子殿下へと向けられて今がある。 「クラリッサは治癒魔法だけはまともに使えるのよね。アルヘンソ家に居座るために頑張って勉強したから」 ソニア様はクラリッサの肩に手をのせて匂いを嗅ぐような仕草を見せた。剣を交えていてもハッキリ分かるが、クラリッサは治癒師特有の薬草の匂いがする。 「そうね。でも治癒魔法をブツブツ詠唱するより薬草をゴリゴリやってる方がよっぽどわたしに合ってる」 クラリッサは「返すわ」と短剣をおれに差し出した。柄を握ると彼女の魔力の名残なのかフワッと風がおきる。 「クラリッサ、おれに向いてる属性ってなんだと思う?」 クラリッサはソニア様に目配せし、他の兵士の目を避けるようさりげなく訓練場の外に向かった。木塀で囲われた訓練場を出て建物沿いに歩きながら向かっているのは、おれとリアーナ様が寝泊まりしているラナ園近くの建物のようだ。 リアーナ様は今タミア様と一緒に仕立て屋の相手をしているはず。舞踏会のドレスが仕上がったから試着して最終調整するのだと言っていた。 「で、なんで訓練場を出たんだ?」 「トビアスの場合、闇属性も選択肢に加えてもいいと思って」 おれはここに来てから習った魔術の一般基礎知識を思い返したが、〝闇〟というのは教わった覚えがない。 「その闇というのは黒魔術のような禁忌なのか?」 「際どいところね。死霊術が禁忌なのは知ってると思うけど、それに使うのが闇属性の魔力。でも魔力はただの魔力でしかないわ。術式を用いて魔術を発動しない限り死霊を操ることはできない」 「屁理屈のような気もするが、実際その闇属性が付与された魔力石を使うとどうなる?」 「傷の治りが遅くなるの」 返って来た答えにおれは拍子抜けした。 「それだけ?」 「甘く見てると痛い目見るわよ。闇属性の魔力は周囲のマナや魔力を引き寄せる作用がある。魔術師に限らず人間の体にはマナと魔力が循環しているわけだから、闇属性の魔力石をつけた魔法剣で攻撃されたら、傷口はマナが過剰に、反対に体の他の部分はマナ不足に陥る。魔術師の場合、傷が治るまで術式構築できず魔術が使えなくなるから致命的なの。一般人だと視野狭窄や脱力なんかで済むらしいけど」 「魔剣士の場合は?」 「さあ?」 「さあって、自分のことだろ」 「自分の体を使って実験なんかしたくないわよ。そもそも闇に関しては情報が少ないの。魔力に闇属性を付与するのって魔術師にとっては危険行為なんだから。一歩間違えば自分を傷つけて魔術が使えなくなる可能性だってあるのよ」 どうやら闇属性の魔力は人間相手より魔術師を敵に回したときのほうが効果的だ。 「それなら闇属性の魔力石を作ってくれる魔術師がいないんじゃないか? それに、人間相手ではあまり意味がない気がするが」 「魔力石はすでにいくつか作り置きがあるのよ。アルヘンソ家が変人の集まりなのはもうわかってるでしょ?」 ソニア様は苦笑を浮かべているが、クラリッサは構わない。 「人間相手に闇の魔法剣を使う利点は、見た目だけなら魔力を使ったように見えないってこと。だって、傷が治りにくいだけなんだから」 たしかに火と氷と雷による傷はすぐわかるだろう。風は良さそうだが、クラリッサの剣術を見る限り魔力波の及ぶ範囲が広く舞踏会のように大勢がいるところでは使い勝手が悪そうだ。 「クラリッサ。闇属性の場合、剣を振ったとき魔力波はどれくらいまで届く?」 「魔力同士が引き合うからか、せいぜい剣先数センチってとこ。トビアスの剣の場合、ロングソードの状態でね」 舞踏会まであと数日。選ぶなら今と同じマナ石か闇属性だが。 「風属性と闇属性、両方試してみたいんだが」 「そうね、場面によって使い分けできるようになればそれに越したことはないわ。でも、わたしは闇の相手はしないわよ。怪我したらリア様の代役ができなくなるもの」 「闇属性の魔力を帯びた傷に治癒魔法は効かないのか?」 「安易に治癒魔法を使えば悪化する。薬で化膿と痛みを抑えて根気よく闇属性の魔力が消えるのを待つしかないわ。他の属性の魔力なら数分か遅くとも数日で分解してマナになって空気中に拡散するんだけど、闇属性の魔力は集まる性質があるから魔力もなかなか消えないの。傷が塞がらなければ感染症にもかかりやすくなるし」 最初に聞いたときは大したことないと思ったが、闇属性の魔力は扱いが厄介そうだ。 「あ、そうそう。闇の魔法剣のいいところ、もうひとつあったわ。魔術を破壊できるの」 「魔術を破壊?」  つくづく魔術師殺しの魔力だなとおれが言うと、だから闇って名前なんでしょと返ってくる。 「魔術を使う際は術式構文か魔法陣が一般人にも見える光として現れるんだけど、それをぶった切れば魔術の発動を止められる。でも、攻撃魔法の場合そこまで接近してたら魔術師本人を斬った方が早いわ。魔術が具現化した火球(ファイヤーボール)氷槍(アイススピア)を切っても威力が若干減るだけ。使えるのは結界ね。その魔法剣なら斬れば壊せるわ」 「服に付与した防御魔術みたいなやつは?」 「あれも結界の応用だから壊せる。間違ってリア様の服を斬ったりしないでよ」 ラナ園が見え、隣を歩いていたソニア様が「あっ」と背伸びして手を振った。 「もうドレスの試着は終わったのかしら。姉さんとリア様だわ」 向こうも気づいたらしく、テーブルに向かい合ったリアーナ様とタミア様が手を振り返している。護衛もなく屋外に連れ出したのかと心配したが、見知った男の姿が傍にあった。 「あっ、ランド!」 浮かれた声を出して駆け寄っていったのはクラリッサ。ソニア様はその後ろ姿を微笑ましげにながめている。 「クラリッサは義兄(にい)さま一筋なのよ」 「そうなのですか? ですがタミア様はリアーナ様に……」 アルヘンソ家に嫁いでもいいと言っていた。それを口にするとからかわれそうな気がしておれは口を噤んだが、ソニア様はお見通しのようだ。 「トビアスはそれでいいのかしら? ランド義兄さまとリア様が結婚したらトビアスはお払い箱になっちゃうわよ」 ソニア様の言う通りだ。リアーナ様がそこらへんの貴族と結婚してもおれの護衛兼監視の任は解かれないだろうが、事情に精通して実力も十分なランド殿ならおれは不要。魔法剣を使うところは見たことがないが、紫蘭騎士団最強の男はおれより上手く使いこなすに違いない。 「ソニア様」 「なに?」 「ソニア様かタミア様がランド殿と結婚する可能性はないのですか? 血の繋がりはないのですよね」 「あら、トビー。これ以上アルヘンソ家の秘密を知りたい?」 不敵な笑みを浮かべてソニア様はおれの顔をのぞきこんだ。距離の近さに驚いておれはパッと顔をそらす。 「ランド・アルヘンソにも色々事情があるのよ。義兄が辺境伯家を継いでもその実子には継承権がないし、わたしか姉さんの子を養子にすることになってる」 「なぜそんな面倒な」 「あなたも逆さ樹を知ったのだからいずれ分かるわ。姉さんも本気でリア様を義兄の嫁にと考えてるわけじゃない。だから、リア様と殿下との離婚が成立したら安心してプロポーズしていいのよ」 「プ、プロポッ……?」 おれはハッと口をつぐんでテーブルの方をうかがった。思いのほか大きな声だったせいで視線がおれに集まっている。隣でソニア様がアハハと愉しげに笑った。 「なあに、トビアス卿。もしかして妹にプロポーズしようとしたの?」 「まさか! 違います。アルヘンソ辺境伯家のご令嬢にプロポーズなど、微塵も考えてません」 「あら、それも失礼ね。こんなに仲良くなったのに」 ソニア様はおれの手を掴んでテーブルに駆け寄っていく。久しぶりに会ったランド殿はニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべていた。 「デ・マン卿と義兄弟になるとは想像もしていなかったな。楽しく過ごされているようで何よりだ」 「ランドが領地に顔を見せないからタミア様とソニア様はトビアスを代わりにからかって遊んでるのよ」 クラリッサの発言にランド殿は苦笑している。おれとスサンナは辺境伯家の跡継ぎを相手に堂々とタメ口をきく平民クラリッサに唖然とし、リアーナ様はかしましいやり取りに面食らっているようだ。 「クラリッサだって楽しんでるでしょう? でも、一番悪いのは殿下のお尻ばかり追いかけ回してわたしたちを放ったらかしにしているお義兄(にい)さま」 「タミアがおれが悪いと言うならそれが正しいんだろう。迷惑かけたなデ・マン卿」 「心のこもらない謝罪ね。どうせ今回もすぐ帰ってしまうくせに」 ソニア様に言われてランド殿は懐中時計を確認した。 「お忙しい魔塔主殿をお待たせするわけに行かないからな。デ・マン卿、少しだけ話せるか?」 彼はおれの返事を待たずラナ園へと足を向ける。ついて行こうとしたら、それまで黙っていたリアーナ様が「トビー」と控えめな声でおれを呼んだ。身分を偽っているから「リア様」「トビー」でとアルヘンソ姉妹に命じられたが、遊ばれているだけのような気がしてならない。 「リア様、どうかされましたか?」 「あ、いえ。汗をかいているようなので、アルヘンソ卿とお話されるならその前にお茶をと」 いつの間に用意したのか、氷入りのラナ茶をスサンナが持ってきた。 「お気遣いありがとうございます」 おれはグラスを受け取って一気飲みすると、些細なやりとりに緩みそうになる口元を隠してランド殿の後を追った。クラリッサとソニア様がいれば護衛は必要ない。 ランド殿はラナ園を奥へ奥へと進み、いつしか視界はラナの木ばかりになっていた。鈴なりの白い実を収穫しラナ酒を漬け込んでからもう二週間くらい経つだろうか。葉はあの頃よりも青々とし、冷やしたラナ茶が美味しく感じられる気候になった。 「補佐官殿、どこまで行かれるつもりですか」 おれが声をかけるとランド殿はようやく立ち止まる。 「ここまで来れば問題ないだろう。デ・マン卿にはおれの秘密を明かしておけとユーリック殿下に言われたからな」 また秘密を押し付けられるのかと警戒すると、ランド殿はそんなおれを見てクッと笑った。 「本来なら逆さ樹を隠して殿下に仕えるのはおれだと思うのだが、まさかおれが堂々と紫蘭を掲げ、デ・マン卿が逆さ樹を隠すとは、人生分からんもんだな。もったいぶっても仕方ないからさっさと教えよう。おれは獣人だ」 「えっ」 次の瞬間には目の前に狼がいた。かなり大型で灰色の毛をした狼の左目の上にはランド殿と同じ傷跡がある。彼はすぐに変身を解き、「見ての通り犬だ」と口にした。犬? 「おれの知ってる犬はもっと可愛らしい動物ですよ」 「貴族の愛玩犬と一緒にするな。おれの他に四人の獣人が騎士団にいるが、陛下はご存知ないからそのつもりで。デ・マン卿に狩られないよう予め姿を見せておくことにしたんだ」 「はぁ……」 おれの気のない返事にランド殿は呆れ顔でため息をついた。 「もう少し反応があってもいいだろう? 獣人といえば帝国どこに行っても差別の対象、生理的に受け付けないってやつもいるくらいだぞ」 「アルヘンソ邸に来てから何が常識で何が非常識なのかよく分からなくて」 分かったのは、ランド殿の実子が辺境伯家を継げない理由がおそらくこれだろうというくらい。 「デ・マン卿に獣人に対する拒絶感がないなら幸いだ。辺境伯と姉妹は知っているし、逆さの逆さ樹を知る者にも隠してはいない。それより」 彼は懐中時計に目をやり、来た道を戻りはじめた。 「リアーナ様はずいぶん回復されたようだな。皇太子妃になられてから今が一番元気そうだ」 「ここに来てから以前より食事量が増えました。顔色も良いですし、体つきもふっくらされたかと」 「それならいい。舞踏会の後も当面はアルヘンソ家に留まるようにとの殿下からの指示だ。離婚の件は陛下に書類を渡せば終わりだが、その時期は未定だ」 「それは離婚を延期するということですか?」 「ああ」 ランド殿の返事を聞いてやはりと思った。あの襲撃事件がなければとっくに離婚は成立し、円満離婚を装うためにリアーナ様はフェルディーナ公爵令嬢としてアルヘンソ邸で静養することになっていたはず。 「補佐官殿、例の反オーラ派はすでにアルヘンソ入りしてるんでしょうか?」 「人数や素性は確認できていないから何とも言えないが、舞踏会に向かう道でリアーナ様を狙う計画が進んでいるのは間違いない。アルヘンソの兵士が一人潜入することになっている。襲撃予定地が皇家直轄領ではなくアルヘンソ側というのが気になるが、直轄領への侵入がバレるのを警戒したのだろう」 「では、フェルディーナ卿がリアーナ様を殺そうとしているのは間違いないということですね」 「あとは言い逃れできないよう現場を押さえるだけだ」 襲撃の日にリアーナ様と交わした会話が頭をかすめた。兄とはずっと会っておらず顔を忘れそうだと彼女は言っていたが、兄であるオリヴァーとの仲が悪いという印象はなかった。会えなくて寂しいのだろうと思ったくらいだ。 いくら主義や派閥の違いがあるとはいえ妹を殺すなど、なぜそんなことができるのか理解に苦しむ。怒りのせいかおれは無意識にこぶしを握りしめ、「そう怒るな」とランド殿に肩を叩かれ我に返った。 「怒りは力になるが冷静さを失うな。タミアが舞踏会の開催日を皇宮の舞踏会と合わせたせいで当日はおれも殿下もこっちには来られない。計画は知らされてると思うが、現場にはアルヘンソ家の兵士が向かう。クラリッサが指揮を執るから安心していい。襲撃が確認できた時点でアルヘンソ邸に使いを送ってオリヴァーを捕まえる」 「暗殺計画が進んでいるのなら今の時点で捕まえても良いのではありませんか?」 「腐っても公爵家の息子だ。確かな証拠もない上に襲撃も行われていない状況で捕まえては貴族派の思う壺だろう。こっちの思い通りにことが進めば、殿下はフェルディーナ公爵にオリヴァーの廃嫡を迫るつもりだ。公爵家は新たな後継者が決まるまでゴタゴタするだろうから、リアーナ様と殿下の離婚はそれが落ち着いてからということになる」 「フェルディーナ卿を生かしておくのですか? またリアーナ様を狙うかもしれないのに」 「オリヴァー次第、もしくは公爵と殿下の取引次第だ。それに、オリヴァーが狙うとしたら次はリアーナ様ではなく新たな後継者候補だろう。今のところ公爵の甥夫婦が有力だが」 公爵の甥夫婦が後継?  そんなことになれば離婚したリアーナ様の戻る場所がなくなってしまう。 「その話はリアーナ様にはされたのですか? リアーナ様が離婚して公爵家に戻り、結婚しさえすれば夫が爵位を継ぐこともできるはずです」 女性の爵位継承も認められているが実例は少ない。麻薬事件で捕まったローナンド侯爵の跡を娘が継いだが、それは異例中の異例だ。 「リアーナ様には手続きの都合で離婚が先延ばしになりそうだとしか伝えていない。デ・マン卿はリアーナ様にそうして欲しいのか? 公爵の座を狙うとは思っていたより野心的だな」 「それはどういう……」 おれはランド殿の言葉の意味を理解した瞬間に羞恥で頬が熱くなった。 「補佐官殿、誤解をされているようですがわたしはそんな大それたことは考えておりません。リアーナ様にとってより良い道があればと考えているだけです。わたしは皇太子殿下に忠誠を誓った身。その妻であるリアーナ皇太子妃殿下に対してそのような不埒な」 「饒舌だな」 ランド殿の一言でおれは口を噤んだ。これ以上は墓穴を掘るだけ。いや、すでに深い墓穴を掘ってしまった。 「うちの姉妹がデ・マン卿をけしかけているだけなら聞き流せばいい。ユーリック殿下は朴念仁だから卿の気持ちなど微塵も気づいていないだろう。実力を認めているからリアーナ様の護衛を任せただけだ。だが、他の男のものになったリアーナ様の護衛を続けるというのはなかなか拷問だぞ」 「それは今も……」 おれはうっかり声に出してしまい、ランド殿は腹を抱えて笑った。ラナの木の向こうで女性たちがこっちを見ている。 「殿下に告げ口する気はないが離婚が成立するまでは手を出すなよ。皇太子妃を孕ませたとなったらさすがに洒落にならん」 「補佐官殿! 冗談にしてもそれは……」 「楽しそうね。何の話?」 ハッと気づけば目の前でクラリッサの喉元にランド殿が剣を突きつけていた。 「降参」 クラリッサは観念したように両手をあげる。 「近づくときは先に声をかけるよう言わなかったか? 余計な秘密を知ればおまえの危険も増える」 「わたしのことが心配なのは分かるけど、気遣いはもっと優しい言葉で言ってよ。リアーナ様の囮役はわたしじゃなくて人形でいいって殿下に進言したんでしょ? 認められなかったみたいだけど」 「おまえとリアーナ様では体形が違い過ぎるから人形の方がマシだと言っただけだ」 「ランドはリアーナ様とわたしの体、どっちが好み?」 「クラリッサ、皇族侮辱罪で拘束するぞ」 「喜んで」 クラリッサが両手首を差し出し、ランド殿は呆れ顔で首を振る。じゃれあう二人の後ろをついて広場の方へ向かう途中、ふとリアーナ様がおれを見ているのに気づいたが視線が合うとパッとそらされてしまった。 ――公爵の座。 ランド殿が口にした言葉が蘇り、おれはやましい気持ちでいっぱいになる。 公爵家の婿など一度も考えたことはなかったが、自分がリアーナ様の夫だったらと想像したことは何度もあった。おれが夫だったら皇太子殿下みたいに放置したりせず毎日寝所に通って泣いていたら慰め、良からぬことを考えて近づく人間はすぐに追い払ったのに、と。 ――殿下との離婚が成立したら安心してプロポーズしていいのよ。 ソニア様はそう言っていた。だが、プロポーズして断られた後も護衛を続けるのはリアーナ様を密かに思いながら護衛を続けるよりも遥かに酷い拷問ではないだろうか。 今しがたおれはリアーナ様に視線をそらされたばかり。そもそも公爵令嬢と子爵家の三男など釣り合いがとれていない上に、おれはじきに紫蘭騎士団からも除名されてしまう身。 皇太子殿下の言った通り、どうやら逆さ樹の任務は騎士団ほど甘くないようだ。
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