宿屋アガパンサスでの再会

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宿屋アガパンサスでの再会

フェルディーナ家の兄妹はよく似た顔をしていた。違うところといえば兄のフェルディーナ卿は日焼けしていて、リアーナ様は透けるような白い肌をしていること。パブで飲んで来たにしてはフェルディーナ卿の顔に赤みはなく、もう休んでいただろうに公爵令息らしいきちんとした身だしなみ。 宿の男が下がっても兄妹はしばらく無言で見つめ合っていた。先に口を開いたのはリアーナ様だ。 「お久しぶりです、お兄様」 「皇太子妃殿下とお会いするのは結婚式以来なので、二年近く会っていなかったことになります。お元気そうで安心しました」 兄妹とはいえ、相手が皇族だからか喋り方は丁寧だ。 「どうぞおかけください」 「では」 言葉遣いとは裏腹に、ソファに腰を下ろしたフェルディーナ卿はふんぞり返って見える。足を組んで両手をポケットに突っ込んでいるからだが、おそらくポケットには魔法具を忍ばせているのだろう。咎めようとしたらリアーナ様が喋りはじめ、うっかり機を逃してしまった。 「お兄様もお元気そうでなによりです。アルヘンソ領には侍従もつけずお一人でいらしているように宿屋の者からお聞きしましたが、ご不便ではありませんか?」 「騎士団では普段から身の回りのことは自分でしています。むしろ一人の方が気楽でいいくらいです。それより、殿下こそ夜着のようなしどけないドレスではありませんか。身分を隠して街をうろつき、万が一何かあったらどうされるおつもりです?」 「心配いりません。優秀な騎士がついておりますから」 フェルディーナ卿が問いかけるようにおれの顔を見た。名乗らず済むなら黙っているつもりだったが、隠しても調べればすぐ分かることだ。 「トビアス・デ・マンと申します。所属は紫蘭騎士団。皇太子殿下の命によりリアーナ皇太子妃殿下の護衛隊長を務めております」 おれの言葉に表情ひとつ変えないところを見ると最初から調査済みのようだ。子爵家の三男であることもおそらく知っているのだろう。 「護衛隊長のデ・マン卿。実は、わたしは今朝リアーナ皇太子妃殿下に会うため別荘を訪ねたのです。ですが無駄足になってしまいました。護衛隊を別荘に残してお一人で護衛しているのはどういった理由ですか?」 挑発しているのか探りを入れようとしているのか判別しがたい口調だった。会う前にフェルディーナ卿に抱いていた印象と違い、意外に慎重なようだ。 「お兄様、それについてはわたしからご説明します。先日別荘近くで襲撃にあい、一時的にアルヘンソ辺境伯邸にお世話になっているのです。護衛隊を残してきたのは暗殺者(・・・)にわたしが別荘にいるよう見せかけるためです」 「賊ではなく暗殺者ということは、皇太子妃殿下を狙ったものだったということですね?」 どの口が、とおれは心の中で胸ぐらを掴む。こちらの情報を探ろうとしているようだが、リアーナ様はどこまで話すか迷っている。 「デ・マン卿」 リアーナ様が振り向き、おれはうなずいて代わりに口を開いた。 「状況から暗殺を企図したものと判断しましたのでアルヘンソ家にご協力いただきました」 「そうですか」 フェルディーナ卿が憂うように眉間にシワを寄せた。 「デ・マン卿、わたしにはアルヘンソ家が安全とは思えません。街では皇太子妃がアルヘンソ邸にいるのではと噂する者がいましたし、さきほど知人と夕食をとった際も『皇太子妃が舞踏会に出席すると聞いたが本当か』と聞かれました。適当に濁しておきましたが、暗殺者も皇太子妃が別荘にいないことを知っているのではないでしょうか」 知ったから計画を中止したんだろ? ――とは言えない。 「別荘滞在中に何度かアルヘンソ邸を訪問したため、領民のあいだで勝手な憶測が飛び交っているようです。アルヘンソ邸の警備体制に問題はありませんし、舞踏会に出席するかどうかまだ検討中です。状況を見て判断します」 「そうですか、何も知らない領民の憶測が真実を言い当ててしまうとは皮肉なものですね」 いちおう納得したという表情だが、こういう騙し合いのやりとりに慣れている様子が気にかかる。「ですが」と彼は続けた。 「リアーナ皇太子妃は目も当てられないほど面窶れているとあちこちで耳にして心配していたのですが、舞踏会に出席できるくらいの体力はありそうで安心しました。そちらの噂は真実ではなかったようです。むしろ結婚した頃よりも元気そうに見えます」 襲撃に関する探りを終え、次はリアーナ様が麻薬を使用したかどうか確かめる気らしい。ということは、フェルディーナ卿は疑いを抱いているが確信は持っていないということだ。 「お兄様、わたしが体調を崩していたのは事実で、今こうして問題なく出歩けるのは別荘での静養のおかげです」 「そうか」 フェルディーナ卿が短く答えたのと同時にカチとかすかな音がした。リアーナ様の頭がその音に反応するようにわずかに動く。 「お兄様、魔法具を使われましたか?」 ――魔法具? 「感知できたのか? ……ああ、そういえばリアーナも治癒師レベルの魔力はあるのだったな。ただの結界だから警戒しなくていい」 防音結界だろうか。フェルディーナ卿の口調が先ほどまでと変わった。 「魔法具など使わなくても防音結界は作動中です」 リアーナ様の声にかぶさるように、扉の外から「魔法具が使われたみたいです!」とソフィアさんの声がした。どんな魔法具かまでは分からないらしく、扉を開けるか開けないかでリックと議論している。 「外の女性は魔術師ですか?」 フェルディーナ卿の口元には微笑。おれもリアーナ様も答えなかったが、彼はそれを肯定と判じたようだ。 「皇家が妹の護衛に魔術師をつけるとは想像もしませんでした。護衛隊長一人というわけではなかったのですね。大事に扱われているようで安心しましたが、少々複雑な気分です。フェルディーナ公爵家に限らず皇帝派の貴族は陛下に忖度して魔法武具の購入申請すら出さないでいるのに」 コンコンコンと激しいノックの音が彼の言葉を遮る。 「リアーナ様、申し訳ありませんが扉を開けさせていただきます」 ガチッと音がした。だが扉が開く気配はない。リックはガチガチッと力任せに開けようとしているがびくともしなかった。「リックさん」とソフィアさんの声。 「おそらく物理結界が張られています。下がってください。扉を壊します」 ソフィアさんが何かブツブツ言っているのが聞こえ、フェルディーナ卿は「やっぱり魔術師か」と苦笑している。その表情には余裕があり、バチッと何かが爆ぜた音とともに「キャッ!」とソフィアさんが声をあげた。 「魔術結界も張られているようです。これでは中に入れません。リアーナ様!」 ドンドンドンと激しく扉が叩かれる。 「ソフィアさん、監視室から異変は見られないようです。デ・マン卿からの合図もありませんし、もうしばらく様子を見ましょう」 はい、とソフィアさんの落ち込んだ声のあと外の会話は聞こえなくなった。 「静かに話そうと思って結界を張ったのですが、逆に騒がしくしてしまいました。ですが、ようやく落ち着いて話せそうです」 フェルディーナ卿はそう言うと、左袖口のカフスボタンを外してテーブルの上に置いた。それに何の意味があるのか説明もせず彼は話を続ける。 「わたしは妹が何をしたのか知りたいだけです。なぜ離婚しなければならないのか。気鬱のため社交の場に顔を出すこともままならないからだと父は言っていましたが妹は健康そのもの。それに、ご実家で三年以上静養中のモリーヌ皇妃殿下ですら一度も陛下との離婚話が持ち上がったことはありません」 「モリーヌ皇妃殿下とわたしでは立場も病状も違います。わたしの離婚が決まったときは治る見込もないほどでした」 「それを知らされなかったのは兄として寂しい気もするが、例えそうだったとしても回復したのだから離婚は撤回すべきでは? 父上もおまえも一体何を隠しているのか、フェルディーナ公爵家を継ぐわたしが事情を把握しておかないのはおかしいだろう?」 「お兄様はまだ正式な後継ではありません。それに、わたしとお父様は何も隠しておりません」 「わたしが後継でないというなら誰が公爵家を? 皇太子殿下に離婚を言い渡されながら、実家の爵位継承を望んでいるわけではないだろう?」 「そんなことは考えていません」 「まあ、そうだろうな。おまえが望むのは爵位や金ではないだろうし」 フェルディーナ卿はソファに背を預けたまま、先ほどテーブルに置いたカフスボタンを指さした。月と羽根が交差したデザインのカフスボタンは、何製なのか分からないがマナ石が使われているようには見えなかった。 「そのカフスボタンには細工が施してあります。羽根のところを回すと小さな針が露出し、そのあと羽根を下向きに押すと内部に仕込んだ薬が針を伝って染み出る」 おれが短剣に手をかけると、フェルディーナ卿は攻撃する意思がないことを示すように両手を挙げた。 「フェルディーナ卿、そのカフスには何の薬を仕込んだのですか?」 「回復薬と言ったら信じますか?」 「まさか」 「でしょうね。わたしはそのカフスで脅して護衛騎士を部屋から追い出す予定でした。中身は魔法薬です。痛みもなく楽に死ねるそうですよ」 魔法剣を抜き、フェルディーナ卿の目の前に剣先を突きつけた。青いマナ石を嵌めていたときと違い、闇属性の魔力石による刀身は漆黒。すべての光を飲み込んでしまったように禍々しく、フェルディーナ卿が初めてその顔に恐怖の色を浮かべた。だが、それはすぐ嘲笑に変わる。 「つくづくわたしは皇家を見くびっていたようです。紫蘭騎士団の、しかも皇太子妃の護衛がまさか魔法剣を使うとは。ですが落ち着いて下さい、デ・マン卿。わたしはそのカフスボタンを使う必要がなくなったからテーブルの上に置いたのです」 「どういうことでしょう」 「あなたを部屋から追い出しては真相を知ることができないと判断しました。妹よりもあなたの方が色々と知っているようなので」 たしかにおれの方が襲撃事件についても麻薬事件についてもより多くのことを把握している。むしろ、リアーナ様には最低限のことしか伝えていない。 「ローナンド」 ひと言口にしてフェルディーナ卿はじっと妹の顔を見た。その話が出ると予測していたのか、リアーナ様は意外にも落ち着いた様子だ。 「麻薬事件が何か?」 ここ一番になると肝が据わるのか、リアーナ様は平然としている。それを見たフェルディーナ卿は深く長いため息をついた。 「おまえがローナンドの事件と関わりがないようで安心した。離婚の話を聞いたとき真っ先に浮かんだのがローナンド家の麻薬の件だったんだ。おまえはローナンド家の令嬢と親しくしていたし、調べたらあの令嬢は事件当時に皇女殿下の侍女をしていたと分かった。しかも今は消息不明だ。事件に巻き込まれておまえと二人で辺境地に追いやられたのかと考えた。おまえがやせ細っているという噂もあったし」 フェルディーナ卿の予測はほぼ当たっている。だが、消息不明のローナンド侯爵令嬢がどうなったかまでは突き止められなかったようだ。 おれもリアーナ様も無言を貫くことでフェルディーナ卿が話を先に進めるのを待った。 「麻薬とは別にもうひとつ、離婚の理由として思い浮かんだのがおまえの不貞だ」 「不貞?」 リアーナ様が素っ頓狂な声を出した。その反応にフェルディーナ卿は苦笑している。 「わたしの知っているリアーナ・フェルディーナが体調を崩し痩せ細るといえば恋煩いだ。男に優しくされては恋に落ち、皇家に嫁ぐのだからと父上に妨害されては失恋で体調を崩していたではないか」 「お兄様、今ここでそんなことを……」 リアーナ様は平静を装うことを忘れ、動揺を隠せないままおれに縋るような目を向ける。その視線を追ってフェルディーナ卿がおれを見た。値踏みするような眼差しに居心地の悪さを覚える。 「デ・マン卿、皇太子殿下がすべての妃に関心を示さないという話を何度か耳にしたことがあります。娼家街の平民相手に浮名を流しているとも」 事実ですか? ――と聞かれると思ったが、フェルディーナ卿の話は思ってもみない方向へと進んでいく。 「兄としてはそんな噂を聞くたび皇家に嫁いだ妹を憐れに思っていたのです。辺境地の皇家直轄領で静養していた妹が離婚すると父上から聞いたとき、妹は寂しさに任せて殿下以外の男に身を任せ、その男の子どもを身籠ってしまったのかと考えました」 リアーナ様は唖然として言葉もでない様子。 麻薬の件の推理とは正反対に突拍子もない話だが、フェルディーナ卿はいたって真剣だった。リアーナ様の腹部に目をやったのは本人を目の前にしてまだ妊娠を疑っているからだろう。リアーナ様が身に着けているドレスは大きくなったお腹を隠すのにちょうど良さそうなデザイン。 「麻薬、不貞。わたしに離婚理由が話せないならこのふたつのどちらかだろう? 麻薬に手を出して痩せ細っていたなら高価な魔法薬を使っても数か月でこのように血色が良くなるわけがない。むしろずいぶん女らしい体つきになったようだが、お腹に子がいるなら相手は一体誰なんだ?」 「お兄様、わたしは妊娠などしておりません! そのような相手もおりません!」 「なら腹を隠すようなそのドレスは? 静養などと言って人目を避けるように辺境地に移った理由は?」 「病気の療養のためです。ドレスはまだ体調が優れないから体を締めつける服を避けているだけです」 「よくもまあペラペラと嘘が出てくるものだ。そう思いませんか、デ・マン卿? あなたからも何かあればどうぞ」 フェルディーナ卿の視線はあきらかにおれをその〝相手〟だと疑っているようだった。皇太子妃と護衛騎士の許されぬ恋など、年若い令嬢が好みそうな話だが。 「わたしからは何も。リアーナ様がおっしゃられたままです。リアーナ様が皇太子殿下以外の男性と二人きりで会うことはありませんでしたし、当然身籠ってもおられません。静養に訪れた南部の気候のおかげか期待以上に病状が回復されただけのこと」 「怪しげな剣を突きつけられていては、それを否定するのも恐ろしいですね」 「フェルディーナ卿こそ反オーラ派の会合に出入りされていると小耳に挟みましたが、皇帝派であるはずのあなたが一体どのような目的で?」 フェルディーナ卿はそれまで両手を顔の横にあげたままにしていたが、「なるほど」と苦笑を浮かべてその手を下ろした。漆黒の刃に彼の手が触れそうになり、おれは咄嗟に握りを緩めて短剣に戻す。 おれの反応にフェルディーナ卿は興味を持ったようだった。   「そんなに恐ろしい剣なのですか? たとえば触れたものが爛れてしまうような」 「質問しているのはこちらです。答えてください、フェルディーナ卿。あなたは爵位を継いだら貴族派に転向するつもりですか? 魔法具の製造販売許可を求め、貴族が自由に魔法武具を手に入れることを可能にするために」 「そんな面倒なことは考えていません。魔塔の中立性を保つため、貴族と魔術師が直接関わることは帝国法で禁じられています。魔法具製造に魔術師の関与が欠かせない以上、貴族が魔法具製造に関わることはできません」 意外な答えだった。リアーナ様の話では今フェルディーナ卿が述べたこと自体に不満を抱いていたようだったが、調べ尽くして諦めがついたということだろうか。 「リアーナ、わたしの言葉がそんなに意外か?」 「それはそうです。むかしのお兄様は」 「むかしのままではいられないだろう。わたしもおまえも」 「そうですが……」 言葉を失った妹に、兄は少々寂しげな顔をする。 「魔法具をわざわざ自分で作らなくても魔法具の所持は可能だ。デ・マン卿もこのように魔法剣を手にしている。騎士が魔法剣を握らないのは禁じられているからではなく、ただそうしないだけ。わざわざ帝国法を変える必要はない」 「デ・マン卿」とフェルディーナ卿はリアーナ様からおれに視線を移した。 「わたしは爵位を継いでフェルディーナ公爵家を貴族派にしようとしているわけではありません。皇帝派として堂々と魔法武具の購入を皇家に申請するつもりでいます」 「反オーラ派の若者は利用しただけということですか?」 「わたしは反オーラ派の会合などには出入りしていません。どこの誰がそのようなことを言ったのか」 どうやら意地でも認めないようだ。グブリア帝国の皇太子殿下が言ったと言いたいところだが、おれは別のカードを切った。 「ところでフェルディーナ卿、ローナンド侯爵令嬢に弟がいたのはご存じですか?」 パッとおれの顔を見返したフェルディーナ卿は、その手でテーブルの上のカフスを掴んでいた。しまった、と後悔したが今さらどうしようもない。おれは再び短剣をロングソードに変え、フェルディーナ卿の手の上にかざす。 「そのカフスボタンをどうするおつもりですか?」 「どうしようか考えているところです。デ・マン卿、ひとつ取引をしませんか?」 「取引?」 「わたしはこれから真実を話しますがこの場だけに留めて下さい。その代わり、あなたも本当のことを教えてください。あなたは皇太子妃リアーナ・エルフルーレ・グブリアに対して邪な感情を抱いているのではありませんか」 ドン! と扉を叩く音がした。 「フェルディーナ卿! ここは包囲されています。結界を解いてください」 クラリッサの声だ。 「外野がまたうるさくなりました。わたしが先に話しますので手短に終わらせましょう」 フェルディーナ卿はどこか諦めたような顔。 「反オーラ派はあなたが言った通り利用していただけです。アンナ・ローナンドの実弟の存在を知ったのはローナンドの麻薬事件を調べていたとき。反オーラ派の会合に来ていたのは驚きましたが、彼が襲撃に加わればリアーナの傍にアンナがいるかどうか確認できると思いました」 「暗殺を企てたことを認めるのですね」 「暗殺? あんな連中に皇太子妃が殺せるほど護衛隊は腑抜けなのですか? 最初にも言いましたが、わたしの目的は離婚理由を知ること。まずは離婚を先延ばしにする必要がありました。そのための襲撃です」 確かにあれは「暗殺ごっこ」としか言いようのない素人の集まりだった。 「明日の襲撃を中止したのは?」 「やはり把握されていましたか。計画を中止したのはリアーナがすでにアルヘンソ邸にいると確認できたからです。事件が明るみになったほうが離婚が延期される可能性は高い。直轄領内での襲撃はもみ消されたから今度はアルヘンソ領内でと考えたのですが、きっと偽物を襲わせるつもりだったのでしょう?」 ――バカ兄貴。 フェルディーナ卿をそう呼んだのは皇太子殿下だった。バカ兄貴と呼ぶには少々厄介なお方のようです、と心の中で主君に報告する。 「リアーナ様が平然と舞踏会に現れた時、あなたがどんな顔をするのか楽しみにしていたのですが」 「リアーナが現れても驚いたりしません。多少到着が遅れるだけと踏んでいました。ですが襲ったのが偽物となれば意味がありません。リアーナは時間通りに到着し、襲撃は盗賊が貴族を襲った程度のことにされるでしょう。それなら悪あがきをするより直接会って話した方が早いと思ったのです」 「要するに、フェルディーナ卿は強引な手で離婚延期に持ち込み、離婚理由を確認しようとしていただけだと?」 「そのとおりです。納得できなければ皇太子殿下に離婚撤回を求める気でいました」 どうやら麻薬や反オーラ派の会合といった情報のせいで複雑に考えすぎてしまったらしい。目の前のフェルディーナ卿からリアーナ様への殺意は感じられない。だが、彼はまだカフスボタンを握りしめている。 「次はデ・マン卿が答える番です」 「その前に」とリアーナ様がか細い声で割って入った。 「あの黒ずくめの人たちの中にアンナの弟がいたんですか? わたしはアンナだけでなく弟まで……」 リアーナ様は両手で顔を覆い、その肩が小刻みに震えている。おれは刹那迷い、剣先だけフェルディーナ卿に向けてリアーナ様のそばにしゃがみ込んだ。 「アンナの弟はまだ生きています。取り調べのため帝都に連れて行かれました」 フェルディーナ卿が渋い顔をしている。リアーナ様の様子からアンナの死を察し、彼の頭の中で離婚とローナンド家の麻薬事件が結びついたに違いない。 「フェルディーナ卿、先ほどの質問にお答えします」 フェルディーナ卿が我に返ったように顔をあげた。おれは覚悟を決めてひとつ息を吐く。 「わたしは護衛騎士の身でありながら、身分不相応な感情をリアーナ様に抱いてしまいました。それはリアーナ様にもお伝えしてあります。皇太子殿下との離婚が成立したら求婚するつもりでいることも。ですが、リアーナ様は断じて身籠ってなどおりません。彼女はまだ純潔を守っておられます」 突然の告白にフェルディーナ卿は口を半開きにし、リアーナ様は真っ赤な顔でおれを睨んだ。部屋には沈黙が流れ、外からひっきりなしに扉を叩く音が聞こえている。 恥ずかしさを堪えてじっとフェルディーナ卿の言葉を待っているとクッと笑い声がし、ようやく止まっていた時間が動き出した。 「わたしが離婚の延期を企てなければデ・マン卿はとっくに妹に求婚していたということですね。どうやら、余計なことをしてしまいました。妹の幸せな再婚のためにも、これ以上大事にならないうちにここから出て外の人たちを安心させてあげましょう。約束通り今の話はこの場だけで。お互いその方が良さそうです」 話し合いは終わりに向かっているが、フェルディーナ卿のこぶしは握られたまま、おれは切っ先を向けたままだ。 「フェルディーナ卿。カフスボタンから手を離してもらえますか?」 「これはわたしのカフスですよ?」 「皇太子妃殿下のおそばです。誰であってもそのようなものを持たせるわけにはいきません」 「わたしが妹を害するとでも?」 「……いえ、あなたにそれを持ち帰らせてはあなた自身を害するような気がするのです」 フェルディーナ卿はフッと吐息を漏らし、そのまま声をあげて笑いはじめた。 「脱出不可能な結界に閉じ込められてもまったく冷静さを失わないデ・マン卿に感心していたのですが、護衛騎士としては存外情に流されやすい方のようです。妹が惚れたわけがよく分かりました」 「ちょっと、お兄様」 リアーナ様はこぶしを振り上げて可愛らしく抵抗したが、フェルディーナ卿はひとつ勘違いしている。 「フェルディーナ卿、わたしが冷静でいたのはこの結界が脱出不可能ではないからです。情に流されやすいというのはよく言われますが」 おれは剣をヒュッと頭上に振り上げ、テーブルから離れると床をめがけて漆黒の刃を振り下ろした。バチッと音がし、部屋のそこかしこで稲妻が走る。 「あっ! 結界が消えました!」とソフィアさんの声。 「フェルディーナ卿、この剣は結界が斬れるんです。もちろん人も斬れますが」 おれは握りを緩めてロングソードを短剣に変える。反対の手をフェルディーナ卿の前で広げると、彼はその手の上にカフスボタンをコロンと乗せた。勢いよく開いたドアからは剣を構えたクラリッサが駆け込んで来る。 「デ・マン卿! リアーナ様!」 おれの魔法剣はすでに鞘におさまっている。ぞろぞろと部屋に入って来たのはリック、ソフィアさん、宿の人が何人か。おれはその人たちのために状況を説明することにした。 「フェルディーナ卿が持参した結界魔法具が壊れてしまって解除できませんでした。そのことで少々揉めましたが問題はありません。彼にリアーナ様を害する意図はなく、妹の体調と今後を心配して面会を求めたようです」 「結界はどうやって? かなり高度な結界でしたよ?」 ソフィアさんは怪訝な顔をしている。彼女も魔術で結界を解除しようとしていたのだろう。 「わたしの魔法剣で結界が斬れることを思い出したので、斬って壊しました」 「やっぱり風属性じゃなくてそっちにしたのね」 闇属性の魔法剣だと知っているクラリッサはじりじりとおれから距離を置く。そして彼女はフェルディーナ卿に標的を変更したようだ。 「わたしはあなたを信用できません。デ・マン卿のことはうまく丸め込んだようですが、まだ安心しない方がいいですよ」 フェルディーナ卿は剣を持った初対面の女性を興味深そうにながめている。 「あなたは妹の護衛ですか?」 「アルヘンソ家の治癒師です」 へえ、とフェルディーナ卿は好奇心を剥き出しにした。 「アルヘンソ家は素晴らしいですね。明日の舞踏会が楽しみになりました。リアーナは舞踏会に出席しないの?」 口調が先ほどまでと比べてずいぶん親しげだ。兄らしい演技をしているのかと思ったが、リアーナ様の顔を見るとそういうわけでもないらしい。もともとはこんなふうに喋る人だったのかもしれない。 「明日はリア・ドルチェ男爵令嬢として出席しますのでお兄様もそのつもりでいて下さい。平民騎士のトビアス卿がエスコートして下さいます」 「そうか、体力があれば兄とも一曲踊ってくれ」 おやすみ、と部屋を出て行くフェルディーナ卿を、一同は呆気にとられた顔で見送っていた。気づけばそろそろ日付も変わる。 「リアーナ様、疲れが残ると明日に響きます。遅くならないうちに帰りましょう」 おれが手を差し出すとリアーナ様は当たり前のように手を重ねたが、周囲の視線がおれたちの手に集まっていた。これは護衛騎士の任務。そう自分に言い聞かせて部屋を出る。裏口を出て馬車に乗るまでおれとリアーナ様は手を繋いでいた。 空には赤銅色の細い月。青白い月はすでに見えなくなっている。 「赤い月はいつまでたっても青い月に追いつけないの」 馬車に乗り込んだリアーナ様が小窓をのぞいてポツリとつぶやいた。ふと、兄と自分を月に重ねているのかもしれないと思った。
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