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その後も、男はオーケストラが奏でる曲に合わせてイビキを響かせた。
元気な曲では高らかに、悲しげな曲では、まるですすり泣くような、鼻水混じりのそれで。
時には、オーケストラとコールアンドレスポンスをするような瞬間さえあった。
男は魂でオーケストラと共鳴している。意識はなくとも、しっかりと演奏される音を聴き、指揮者の息遣いを感じ、それに呼応しているのだ。
ここまでの間に、とうとう女は男のイビキをオーケストラの演奏の一環として聴き入れる度量を得ていた。
この男はオーケストラの一員なのだ。その音色こそ酷いものだが、志はひとつ。最低限のマナーを持って、このコンサートに参加している。
最早、男やこの状況に対するドス黒い感情は完全に消え失せていた。女は、この男にコンサートを全うさせてやりたかった。最後までやり切り、全てを吐き出して、そしてまた、元の生活に戻って行って欲しい。同じ社会の荒波に揉まれる者としての、仲間意識さえ芽生え始めていた。
観客の拍手を浴びて、再び指揮者がこちらに向き直った。
「続いての楽曲は、アメリカの音楽家ジョン・ケージが1952年に作曲したものです。この曲は3楽章構成なのですが……全ての楽章に休符のみが書いてあります」
女は耳を疑った。
「演奏時間がタイトルになっている、大変ユニークな曲です。休憩時間だと思っていただいて構いませんよ。お手洗いは出口を出て右手です」
指揮者は笑いながら言った。
「それでは、お楽しみください……『4分33秒』――」
男はオーケストラに呼応する。それを邪魔する事はできない。
ホールはかつてない程の静けさに包まれた。
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