静けさの中で

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 拍手はまばらになり、次第に収まる。それを待って、指揮者が話し出した。自分たちのオーケストラの紹介と、日々どのような活動をしているのか、そして、現在楽団員を募集している、そんな内容だったが、女の耳にはほとんど入ってこなかった。    女は気が気ではなかった。またいつ、男が騒音を発し出すか分かったものではない。今回はたまたま運が良かった。早く、早く次の曲に。早く演奏を、音を奏でて――。  幸いにも、この間に男はウンともスンとも言わなかった。  指揮者はあらかた喋り終えると、再びオーケストラの方に向き直った。 気付くと壇上には合唱隊の姿もあった。指揮棒が振り上げられる。  女が胸をなで下ろしたその刹那、――ッッッグガーーーーッ‼  男の咆哮が響き渡る。ヴェルディのレクイエム『怒りの日』に合わせて。  映画『バトル・ロワイアル』でも使われた、モーツァルト、フォーレの作品と共に「三大レクイエム」の一つに数えられる、あの印象的な楽曲。  男は、堰を切ったように再び唸りを上げる。まさに息を吹き返したかのようで、それを目の当たりにした女の脳裏には、ある言葉が浮かんでいた。  ――無呼吸症候群。  先程の指揮者のトークの最中、男は息をしていなかったのではないか。怒り、不快感、侮蔑、後悔……といった感情の中に、今度は心配や不安といった感情の色が混ざって、女は居ても立っても居られなくなった。  なぜ自分がこんな目に合わなければならないのか。自分はただ、次の打ち合わせまでの時間を有意義に過ごしたかっただけなのに。  ジェットコースターのように展開した『怒りの日』も、そろそろ終わりを迎えようとしていた。いっその事、静寂の中でイビキを響き渡らせてしまった方が楽なのかもしれない。一瞬の気まずささえ乗り越えれば――。  半ば覚悟をしていた女の横で、男は再び指揮棒が下ろされるのと同時に静かになった。  拍手ののち、次の曲が始まる。こんな偶然があるだろうか。エルガーの『威風堂々』に合わせて、男は三度、躍動した。  心なしか、そのイビキは堂々としている。普段、会社にも家庭にも居場所が無い男だが、今この場所では、誰に遠慮する事もなく、自らの存在を、思う存分アピールしているのだ。迷惑だ。大迷惑だ。  演奏がオッフェンバックの『天国と地獄』に差し掛かった頃には、女にも何となく解って来た。  男のイビキは、オーケストラが激しく演奏した時には大きくなり、静かに演奏した時には、一転そのボリュームを下げていた。  そして休符では静かになる。つまり無呼吸。息をしていない。  男は指揮者、そしてオーケストラと連動、シンクロしているのだ。にわかには信じがたいこの現象だが、有名なカステラのCMソングでもお馴染みの曲に「 グゥ グゥ」と裏拍で合わせる男を見ると、滑稽ながらも信じざるを得ない。
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