0人が本棚に入れています
本棚に追加
静けさの中で
コンサート会場に入ると、高い天井の広々とした空間に軽く立ち眩みがした。ホテルや美術館など、急に広大な空間に身を置くと、度々こうなる。
女は最後列中央の座席に腰を下ろすと、改めて客席を見渡した。収容人数は800人弱。平日の昼間という事もあり、座席は三分の一も埋まっていない。
熱心なクラシックファンというよりは、自分と同じ暇潰しの客や、オーケストラメンバーの身内といった客層だ。
スマホで時刻を確認する。開演の一時まで、あと三分。女はスマホの電源をOFFにして、深く座りなおした。
外回りの途中だった。先方の都合で、次の打ち合わせまで二時間ほど間が空いてしまい、どうしたものかと慣れない土地でトボトボ歩いていると、横手に市の文化ホールが現れた。
ガラス張りの掲示板に、いくつか催し物のポスターが貼られていて、その中のひとつに、ちょうどすぐこの後に開催される物があった。
アマチュアオーケストラによるクラシックコンサート。
打ち合わせの前にリラックスするのもいいかもしれない。ポスターにデカデカと書かれた「入場無料」という文字も決め手のひとつになったのは間違いがなかった。
少し、会場の照明が暗くなったと思ったら、オーケストラのメンバーが舞台の下手と上手から現れた。
弦楽器、木管楽器、金管楽器、打楽器の、いわゆる一般的なオーケストラ編成だ。
遅れて、下手から指揮者が登場すると拍手が起こった。女が追従するように手を叩いていると、視界の右端に人影を捉えた。
そちらに顔を向けると、禿げた頭の五十代くらいの男性サラリーマンが、通路で辺りをキョロキョロと見回している。
頼むからこっちに来るなよ。女は手を叩きながら、そう念じた。しかし、その願いは届く事なく、男はドシドシと女の二つ離れた席まで来ると、ドカッと腰を下ろした。
拍手の音に忍ばせて、大きくため息をついた。苛立ちを表すかのように、女の拍手は誰よりも速く大きくなっていた。
女は、こういう客が嫌いだった。映画館で予告編や本編が始まってから入場してくるような客。そういった輩に限って、両手にポップコーンやら飲み物を持ち、あまつさえ、自分の前を横切って行くのだ。
そんな物を買っている暇があったら時間前に着席しろ。私の集中力を乱すな。一体どういう神経をしているのか。
きっとこの男もその類だ。今もスーツの上を脱ぎ、忙しなくタオルで顔の汗を拭っている。すこぶる気が散る。
女は、早く演奏が始まらないかと、正面に向き直った。このささくれ立った気持ちを音楽で沈めたい。
女の気持ちを汲んだかのように、指揮者が指揮棒を振り上げた。
最初のコメントを投稿しよう!