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好きって言いたいんじゃなくて
和菓子店で買った高級な練り切りが入った紙袋を、私はブラブラと軽く振りながら、広い歩道を歩いていた。
秋の夕方は少し肌寒くて、昼間は快適なのに、朝晩は冬に向かっていることを無理矢理言い聞かされているような冷たい空気に、私は妙にイライラしていた。
幼少期から寒いのがとても苦手だったからだ。
自転車に乗った女子高生が二人、楽しそうに笑いながら、私を追い抜いていった。
「肉まん買ってこー」
「ダイエットしてんじゃん?」
「一時間だけやめる~」
二人で笑いながら自転車を漕いでいく後ろ姿を眺めて、私もあんなにキラキラしていたのだろうか、と思い出してみた。
高校に入学してまもなく、私はある男子を好きになった。
こんなに深く、苦しい思いをしてまで誰かを好きだと思うことは、きっとこの先の人生で二度と経験することはないだろう。そう思った。
たった十六年しか生きていない、まだまだ子供だった私が、この先の人生で二度と、などと、よく断言したものだと思う。
しかしあれから十五年。三十一歳になった私は、相変わらず、同じ人に苦しい片想いを続けている。
高校時代、よくお世話になった自転車店の前で、私はふと足を止めた。
間口の広いその自転車店の中に、ずっと見つめ続けてきた背中を見つけたからだ。
「蒼真?」
私の声に気づいた彼は、振り返ると、お店の引き戸をカラカラと開けた。
「真美」
「なにやってんの」
店内に入ると、奥から店主のおじさんがパンフレットを手にして現れた。
「あれ、真美ちゃん。久しぶり」
「こんにちは」
「蒼真君、これが新しいモデルのパンフレット」
「ありがとうございます」
表紙を覗き込むと、子供用自転車のパンフレットだった。
「姉ちゃんの子に誕生日プレゼント。本人に選んでもらうから、パンフレットもらいに来た」
蒼真は少し照れて言った。
「じゃあおじさん、決めたら電話します」
「はいよ。お、なんだか二人並ぶと懐かしいなあ」
おじさんは私達を交互に見て、笑った。
高校生の頃の私は勉強と部活に必死だった。その力の源は蒼真だった。ただただ、蒼真に認められたい、蒼真と同じレベルでいたい。そんな気持ちだけだった。
男子バスケット部は強く、女子バスケット部は弱かった。みんなに信頼されて、人徳でキャプテンに選ばれた蒼真。じゃんけんで負けてキャプテンになった私。入学して初めての中間テストで学年一番、それから三番より下に落ちたことのない蒼真。十五番が最高の私。
蒼真とつりあう女子になりたい。
その気持ちだけで、私は自分の体力を顧みず、部活、自主練、真夜中まで勉強。疲れきって朝はなかなか起きられず、遅刻寸前、猛スピードで自転車を漕ぎ、駐輪場の近くにガチャンと放るように乗り捨てる日々。そんなだったから、何度も何度も壊れた自転車を引きずってお店を訪れた。
「よく真美ちゃんにつきあって、蒼真君も来てくれたよね」
おじさんは十五年前を懐かしんで言った。
「真美が『自転車が直るまで、後ろに乗せて送って』って言うから、仕方なく。二人乗りは違反だっていうのに」
蒼真は苦笑した。
困ったように笑いながら、いいよ、と言うときの蒼真を見ると、私はとても切なかった。
「そこのカップル、降りなさーい!」
パトカーの拡声器で二人乗りを注意され、周りの人達にクスクス笑われたことも、何度もあった。
私の一方的な片想いだった。
カップル、と警察に言われることさえ、嬉しかった。
私が蒼真を好きだというのは、態度に出やすい私の性格のせいで、みんな知っていた。部活でも、クラスや学年でも、担任や職員室の先生方、用務員さんまでが知っていた。そして、どんなに仲が良くても、蒼真と両想いではないことも、みんな知っていた。
蒼真自身も私の気持ちは知っていたが、私から直接告白しなかったので、普通に仲の良い友達として接し続けてくれた。
「真美、なんで徒歩なの。その和菓子屋、真美の家から結構距離あるよね」
蒼真は私がぶら下げている和菓子店の紙袋を見て、そう言った。
「あー、最近運動不足で。おばあちゃんに頼まれて買いに行ったんだけどさ。歩いてみたら、ホント遠くて、後悔した」
蒼真は小さく笑うと
「俺、車で来てるから、送るよ」
と言った。
自転車店の駐車場で助手席に乗せてもらい、運転席に蒼真が座ると、私の心臓はいきなりバクバクし始めた。
二人きり。距離も近い。ある意味密室。
「暖房、強めようか?」
蒼真が車を出す前に言った。
「え?」
「真美、寒いと怒るから」
蒼真は左手で車内の温度を調節した。
気づいてたんだ、そんなことまで……。
胸が痛い。
蒼真は優しい。私の気持ちもわかってる。口にはしないけど、気持ちに応えられなくてごめんね、って思ってる。だから私のわがままを受け入れたり、気遣ったりしてくれる。まるで罪滅ぼしのように。
蒼真の自転車の荷台に乗り、蒼真の制服をつかんで、広い背中を見つめていたあの頃。
「真美、重いよ」
「失礼なっ」
私は笑いながら、泣きそうだった。
蒼真の優しさにはいつだって、
『好きになってくれたのに、好きになれなくて、ごめん』
という気持ちがこめられていた。
夕方の街は車が多く、渋滞気味だった。
蒼真は私が膝に乗せている和菓子店の紙袋をチラッと見て
「真美のおばあさん、まだお茶の先生やってるんだ?」
と言った。
「うん。今年九十になるんだけどさ、背筋なんかまだピンと伸びてて、着物が似合ってて。外見は厳しそうだけど、実は穏やかな人だから、憧れる生徒さんは多いみたい。生徒さんが増えて、やめられないんだって」
蒼真は頷きながら
「かっこいいな。俺もいつかそんなふうになりたいな」
と活き活きした表情を見せた。
三十代になっても変わらない、一人でどんどん進んでいってしまうような蒼真の腕を、私は掴みたい衝動にかられた。
どうしても、私ではダメなの?
ずっと近くにいて、蒼真だけを十五年も好きで、蒼真に似合う人になるために努力してきたけど、隣にいる私は見ないの?前だけを見てるの?
何度、そう思ったことだろう。十五年は長い。
「和菓子って季節を先取りなんだろ?」
「うん、でもそんなにすごく先でもないよ。今日買ったのはね、柿ともみじ。晩秋のものだね。まだ紅葉が始まっていない今の時期しかないんだって」
「紅葉か……。高校の時さ、部活のランニングで近所のお寺まで走ったよな。あそこのもみじと銀杏、圧巻だったな」
「そうだったね。短い期間しか見られなかったね」
蒼真と思い出を共有できるたびに、私は幸せで、体が温かくなった。嬉しくて跳び跳ねそうだった。
「来月、一緒に行かない?お寺」
私が誘うと、蒼真は一瞬、困ったように眉を下げた。
え?私と二人きりはそんなに嫌?
胃の辺りがギュッと痛んだ。
私が蒼真を好きなことは、そんなに迷惑なことなのか……。優しいから言えないだけで。それとも、面と向かって告白はしないくせに、態度は好き好きアピールしまくってきたから、気持ち悪いと思われているのか。
「ごめん。来月、もう日本にいないんだ、俺」
「は?」
思い込みとはかけ離れた返事に、私はとまどった。
「来週、転勤で北米に行く」
北米……。
遠い。
「……そう、なんだ……どのくらい?」
「十年で帰ってくるかどうか。ちょっと工場とか、景気も。いろいろからんでくるから、わからないな」
私の心はすっかりフリーズしてしまい、思考はストップして、動く気配がない。
わかったことは、今までのように頻繁に会えたり、わざとらしい理由を作ってプレゼントを渡したりできないということだ。
恋人でもない私は、おはよう、おやすみ、なんて、会話のようなメッセージを毎日送り合うこともできない。
蒼真が私のそばからいなくなる。
その事実を受け入れられない。
「蒼真……私ね」
今、言わなきゃダメだ。今、告白しなきゃ。でないと私は蒼真がいない方向に、一歩踏み出せない。
自宅が近い。最後のチャンスだ。
「いいよ、言わなくても。真美の気持ち、ありがたいって思ってる。でも俺」
「違う!蒼真が好きって言いたいんじゃないの」
蒼真は私の勢いにギョッとして、近くのコンビニの駐車場に車を停めた。
「真美?」
「私が蒼真を好きなことなんて、周知の事実だもん。今更だよ。好きって言いたいんじゃなくてさ……」
私は深く息を吸った。
「蒼真に好かれたかった。十五年、ずっと……ずっと好かれたかった。好きになってもらいたかった……」
言いたかった。
好かれたかったから。
それが夢だったから。
がんばった。苦しかった。いつも痛かった。疲れていた。努力をやめたいとも思った。でもやっぱり好かれたかった。
蒼真はそっと私の右手を握った。
大きくて、ごつごつしている蒼真の手に触れられるのは、きっとこれが最後。
「今度はもっと自然体でいられる人を好きになるよ」
私の言葉に、蒼真は見たことがないほど、悲しそうな顔をした。
でも小さく頷いた。
夜、祖母が練り切りを一つ、私にくれた。
それは真っ赤なもみじの形をしていた。
高校一年の秋。
お寺の長い石段を走って上がり、荒い呼吸のまま顔を上げた私の視界に入ってきたのは、呼吸もほとんど乱れず、ひらひら舞い落ちる真っ赤なもみじを、手の平でそっと受け止めていた蒼真の横顔だった。
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