モコとその家族

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「うるさい、うるさい、うるさーい」  大声が部屋中に響き渡りました。仕切られていたカーテンががばっと開けられ、眉間にしわを寄せて怒りをあらわにした女の子が姿を現しました。 「勉強中なんだから、静かにして」  女の子は座席が回転する椅子に座り込んで、腕組みをしながらにらみつけました。的を射抜くような鋭い眼差しの先には、ベッドにお座りをして大きな口を開けている小犬がいました。小犬は女の子の突然の叫び声に、鳴くのを止めた状態でいたのでした。  小犬は女の子に目をやると、ベッドから立ち上がって彼女の方へといきました。ケージの柵に前足を掛けて後ろ足で立ち上がり、勢いよく尻尾を振っては女の子を見上げました。 「わんっ」  小犬は一鳴きしました。 「しー、お黙りなさい」女の子は人差し指を口元に当てました。「勉強が終わったら遊んであげるから、それまではおとなしく待っていてちょうだい」  女の子は仕切りのカーテンを引いて、小犬の視線を断ち切りました。椅子をくるっと回して勉強机に向かいました。彼女は小学校から帰ってきて、すぐに宿題をやり始めたのでした。  しばらくして、小犬の鳴き声が聞こえてきました。 「んっ、もう~」  女の子は両ひじを机につけて、うな垂れた頭を両手で抱え込みました。  六畳間の部屋をカーテンで半分ずつ区切り、壁側の三畳は女の子の部屋として、手前の三畳を小犬の部屋として使用していました。 「これじゃあ、隣の家に迷惑だわ」  女の子は開いていた教科書を裏返して、机の上に伏せました。椅子を百八十度回転させて立ち上がり、カーテンを開けました。自分の部屋を出て、ケージの前に歩み寄りました。小犬はケージの中を行ったり来たりしていました。 「ちょっとだけだからね」  女の子はそういうと、ケージのとびらを開けました。小犬はすぐさまケージから出てきて、女の子の足元でぴょんぴょんと飛び跳ねました。  女の子は小犬を従えて、六畳間の奥にあるリビングルームへと移動しました。二部屋を隔てている引き戸は開かれたままで、いつもリビングルームからケージが見えました。 「今日は何で遊ぼうか?」  女の子はリビングルームの片すみに置かれたおもちゃ箱から、小犬の遊び道具を取り出しました。片手にはボール、もう片方には結び目があるひもを持っていました。小犬は交互に見比べてから、片方へと歩み寄りました。 「そーれ」  女の子は持っていたものを放り投げました。小犬は舌を出しながら、滑り止め用のカーペットが敷かれたリビングルームを駆けていきました。  ボールは窓サッシに当たってはね返ってきました。小犬は行き過ぎては戻って、ボールを口にくわえました。尻尾を振りながら女の子の元へと戻りました。  女の子は小犬からボールを受け取りました。再びあらぬ方向へとボールを投げました。幾度か小犬とのボール遊びをしているうちに、小犬は独りでボールを追い掛け回すようになりました。前足でボールを弾いたり、くわえては放り投げたりしました。  女の子は小犬の行動を眺めていましたが、リビングルーム中央にあるソファに座りました。目前のテーブルに手を伸ばして、テレビのリモコンを取りました。 「しばし休憩」  女の子はテレビの電源を入れて、テレビを見ることにしました。独り遊びに疲れた小犬は女の子の隣、ソファの上で体を丸めて休みました。ボールはソファのそばにころがっていました。  女の子は山中友紀。小学六年生で、今年中学校を受験する予定です。前髪を垂らしたショートボブ、真ん丸な顔立ちをしていました。小犬はモコ。毛並みがふさふさしているオスのポメラニアンで、我が家に来てまだ三ケ月しか経っていませんでした。 “カチャ”  玄関のドアが開きました。靴を脱ぎ、廊下を歩く音がしました。モコの耳がせわしく動きました。友紀は慌ててテレビのリモコンを手にして、テレビの電源を切りました。  廊下の先、リビングルームへと続くドアが開きました。 「ただいま」  友紀の母親がリビングルームに入ってきました。正面には横に広いリビングルーム、右手に六畳間、左手にキッチンがありました。  ソファから飛び降りたモコが、母親に駆け寄っていました。母親はまとわりつくモコに注意しながら、持っていたカバンと買い物袋を、リビングルーム左手のキッチンの上に置きました。 「はー」  母親は溜息をつきました。友紀は姿勢を正して、真っ黒なテレビ画面を見つめていました。 「ただいま、モコちゃん。お外に出ているんだねぇ」  母親はしゃがみ込んで、モコの頭を優しくなでました。 「お母さんはこれから夕飯の支度をするからね。ご飯の時間になるまで、ケージの中に入っておとなしく待っていて」  母親はキッチン奥にある犬用のかごから、おやつを取り出しました。 「さあ、おやつですよ」  母親はそれをモコに見せて、六畳間の方に進んでいきました。モコは顔だけおやつにやりながら、母親の前を歩いていきました。ケージが置かれた場所に着きました。  母親がおやつを持った手を前へ差し出すと、モコはすぐにケージの中へと入っていきました。母親はケージのとびらを閉じて、その上からモコにおやつを与えました。 「宿題は終わったの?」  母親は視線をモコに向けたままいいました。正面を見据えていた友紀が、びくっとしてソファから飛び上がりました。 「夕飯が出来るまで、勉強しなさい」  母親はきびすを返すと、キッチンへといきました。友紀はこくりとして、体を縮こまらせながら自分の部屋に戻っていきました。  友紀の母親は愛娘とマンションに暮らす、シングルマザーでした。  そういった日が、二、三日続きました。  夕飯の支度が出来て、母親と友紀はキッチン前の食卓につきました。 「いただきます」  親子して両手を合わせていいました。モコはケージの中からお座りをして、食卓の方を見つめていました。 「お母さんは今夜、夜勤があるからね。寝るときはちゃんと戸締りをしてから寝てちょうだい」  母親は食事をしながらいいました。友紀は小さくうなずきました。  友紀の母親は、昼間会社の事務員として働き、夜はアルバイトをして生計を立てていました。 「ここ最近、私が帰ってくる時にはいつもモコちゃんを外に出しているけど、勉強はちゃんとやっているの? わからないことがあったら先生に聞いて、理解するようにね。何事も基礎基本がわかっていないと、その応用ができないから」母親は言葉を続けました。「私は高校もろくに出ていないけど、貴方にはきちんと高校まで行って、できれば大学まで進んで欲しいのよ」 「わかってる」  友紀はおかずをつまんでいた箸を止めていいました。 「貴方が独りで勉強するのが大変だからって、気分転換に犬を飼ったんだからね。犬よりも勉強が大切なんだから」 「……」 「勉強が終わってから犬と遊ぶのは構わないんだけど、犬が中心の生活じゃあ困るのよ。貴方に弟妹がいればこんな不自由はしないと思うんだけど、モコちゃんは犬だからどうしようもない」 「ごちそうさま」  友紀は箸を置きました。 「まだ全部食べてないじゃない? バランス良く食事を取って、精をつけなくては駄目よ」  母親はけげんそうに友紀のお茶碗を見ていいました。友紀は雑に椅子から立ち上がりました。 「ちょっと気分が悪いの、今は食べたくない。そのまま残しておいて、後で食べるから」  友紀は食卓から離れました。 「ゆきっ!」  友紀は母親に背中を見せたままいいました。 「モコはモコ、ただの犬ではないの。私にとって特別なペットなの」  友紀は六畳間の自分の部屋へと歩いていきました。 「わん、わんっ」  モコが近づく友紀の姿を見て、尻尾を振りながら甲高く鳴きました。 「モコ、うるさい」  友紀はかんしゃくを起こして、ケージの端を足で蹴飛ばしました。びっくりしたモコは、ケージから後ずさりして、ベッドの中で小さくなりました。 「何を怒っているの? 八つ当たりは止めなさい」  母親が思わず大声を上げました。友紀はベッドに逃げ込んだモコをにらみつけていいました。 「私が勉強をしようとすると、モコが鳴き続けるのよ。私は学校の宿題や復習を早く済ませたいのに、うるさくてうるさくて勉強どころじゃなくなるの。だから、モコを外に出して鳴くのをとめていたの。それを私が勉強をサボっているかのように、お母さんがいうから……」 「無視していれば、いつかは鳴き止むわよ」 「その前にうるさすぎて駄目なの、鳴き止むようにいっても無駄なの」友紀はうつむきながら口にしました。「だけど、マンションに住んでいる人達から苦情がくると、モコと一緒に暮らせなくなっちゃうし。私どうしたらいいのか、わからないよ」 「……」 「もう、寝る」  友紀は仕切っているカーテンを開けて、自分の部屋へと入っていきました。 「モコちゃんのご飯は? それとお散歩は?」 「私、気分が悪いから、今夜は無理」  友紀はカーテンをさっと閉めると、奥側の壁にあるベッドに倒れ込みました。腰を浮かせた母親は、深く溜息をついて椅子に座り直しました。  母親は自分の食事を済ませて、残ったおかずはラップしました。お茶碗と箸はキッチンで洗い、食器場に置きました。  食卓の上を一通り片付けると、今度はモコのご飯を作り始めました。モコ用のお皿にドライフードを入れ、その上に乾燥野菜をひとつまみ加えました。 「さあ、ご飯ですよ」  母親はお皿を持って移動し、ケージの中にお皿を入れました。モコはベッドから立ち上がって、友紀がいる方向をうかがいながらお皿まで近づいていきました。 「たんとお食べ」母親はかがみ込みました。「その後は、私とお散歩しよう」  モコは母親を見上げてから、お皿に顔を突っ込んでご飯を食べました。母親は振り返って、リビングルームの壁に掛けてある時計に目をやりました。 “少し遅れるって、後で電話しよう”と、母親は思いました。  モコは時間を掛けて夕飯を食べ終えてから、お水を飲みました。母親はずーっとケージのそばにいて、モコの様子を眺めていました。 「じゃあ、お散歩行こうか?」  母親はモコにささやいて、静かにケージのとびらを開けました。モコはケージから出て、玄関へと続くドアの前で立ち止まりました。モコの尻尾はふわふわと揺れていました。  母親はドアを開けてやり、モコと共に玄関へと歩いていきました。玄関の下駄箱の上にあるリードを手にすると、モコの首輪にリードをつなげました。 「いってきまーす」  母親はリビングルームに向かって声を掛けました。返事はありませんでした。  母親はティッシュが入ったビニール袋を持って、玄関のドアを開けました。母親の後からモコも外に出ました。玄関前の外廊下を歩いて、エレベーター脇の階段を降りました。  マンションの一階にあるエントランスを通って、いつものように裏口から路地に出ました。街灯に照らされた路地をてくてくと歩きました。 「今日のお散歩はあまり時間が取れないの。あの娘があんな調子だからごめんなさいね」  母親はモコに話し掛けました。モコは気にすることもなく、散歩道を進んでいきました。途中途中で立ち止まっては、路地に生えた草や電柱についたにおいを嗅いだりしていました。  母親はモコが夢中になって草むらに鼻を当てているのを見届けると、胸ポケットに入れておいた携帯電話を取り出しました。そして、夜勤のアルバイト先に遅れる旨の連絡をしました。  母親とモコは一軒家が立ち並ぶ住宅街の道路脇を散歩しました。 「あの娘にはいい学校に入って、いい会社に入って、いい人を見つけて、幸せな生活を送って欲しいのよ。そのために今がんばって勉強してもらっているんだけど」母親はモコにいいました。「貴方も我慢するところは我慢して、あの娘の勉強の邪魔をしては駄目よ。貴方と一緒にいる時間は少ないけど、我が家の家族の一員としてあの娘を応援してね」   母親の願いを聞きながら、モコは一段と高くなった歩道をすたすたと歩いていました。  道路の反対側から散歩中の犬に出会いました。初老の男性につれられた、小型犬のコーギーでした。モコは一瞬立ち止まって、母親を見上げました。 「こんばんは」「こんばんは」  コーギーをつれた男性が声を掛けてきました。母親もあいさつをしました。  男性はモコの散歩中にたまに見掛ける近所の人でした。  コーギーは前方に目を向けながら、ゆったりと歩いていました。これと対照的に、モコはわき目もふらずに急ぎ足で進んでいきました。  車が二台行き来できる程の道路を、両歩道側ですれ違いました。モコは大きく息を切らしながら、その場を遠ざかりました。 「大丈夫だよ」  母親が思わずモコにいいました。モコは耳を後ろにやっただけで、ただひたすら歩いていました。角を曲がって初老の男性の姿が見えなくなると、モコはいったん身震いをしました。 「怖かったの?」  母親は微笑みました。モコは何食わぬ顔で、再び路上に鼻を近づけて歩き始めました。 「そろそろ、帰ってもいいかなぁ? 今日のところは、早めにお家に帰ろう」  母親はモコに聞いてみました。モコは後ろを振り返って、母親を見ました。  母親はリードを軽く引っ張り、モコに合図を送りました。モコは遠くの方を見つめましたが、回れ右をしました。いつもの半分の道のりでしたが、それでもモコは満足した面持ちでした。 「うるさい、うるさい、うるさーい」  友紀の叫ぶ声がしました。ちょうど玄関ドアを開けた母親の耳に入ってきました。 「静かにしてっていっているのに、どうして鳴き止んでくれないの」友紀が大声を上げました。「勉強が終わってから遊んであげるっていっているのに、どうして待てないのよ。貴方なんて大嫌い、いなくなっちゃえ」 “ガチャーン”  母親は慌ててリビングルームに入っていきました。  友紀はケージの前で仁王立ちして、モコをにらみつけていました。モコはケージの中のベッドに座り込んでおびえていました。長方形に組んだケージの一部が、くの字に曲がっていました。 「どうしたの?」  母親がきつい口調でいいました。 「モコがまた鳴いていたから、勉強に集中できないでいたの。何回いっても聞いてくれないの」  友紀が涙を浮かべながら母親を見ました。握り締めた彼女の手は小刻みに震えていました。母親は持っていたカバンと買い物袋を、ひとまず六畳間の反対側のキッチンの上に置きました。 「そんなに気がたっていると、疲れちゃうわよ」母親は友紀のそばに歩み寄りました。「二人とも大喧嘩した後みたい、こんなになっちゃって」 「だって、モコが鳴いていても無視すれば鳴き止むっていうから、そのまま放ったらかしにしていたんだけど、一向に鳴き止まないし。それに近所迷惑になってしまうし……」  母親はひざをついて友紀を見つめました。 「ねえ、友紀」 「なーに」 「貴方のいうことを聞かない犬は、きらい?」 「うん」  友紀はうなずきました。 「お利口にしていられない犬は、大嫌い?」  友紀は大きくうなずきました。 「それじゃあ、しつけができなくてわがままでうるさい犬は、保健所につれて行く?」  友紀は首をかしげました。 「保健所って何? そこへ行くとどうなるの?」 「しつけができて無駄吠えとかしなくなれば、新しい飼い主さんが引き取ってくれるけど、それが駄目だったら殺処分」 「殺処分?」 「そう、この世からさよならして、天国に旅立つんだよ」母親は友紀を見つめながらいいました。「貴方は、それでも良いの?」  友紀はうつむきながら考え込んでしまいました。母親はしばらく黙っていましたが、やがて明るい口調でいいました。 「そんな暗い話は止めて、いったん仲直りをしましょう」  母親はケージのとびらを開けました。モコは困惑した仕草で親子を見つめました。 「友紀、モコちゃんのおやつを五粒くらい持ってきて」  母親は立ち上がっていいました。友紀はキッチンへと向かい、奥にあったかごからおやつを持って戻ってきました。 「貴方がモコちゃんにおやつをあげて。お回り、お座り、お手をそれぞれやってから」 「うん」友紀はおやつをモコに見せました。「モコ、ケージから出ておいで」  モコはいまだ戸惑っていました。友紀はおやつを一粒手のひらに乗せて、モコの口元に近づけました。モコは鼻先でクンクン匂いをかいでいましたが、やっと口を開けておやつを食べました。 「いい子、いい子。さあ、ケージから出ておいで」  友紀はケージから二、三歩下がって、おやつを一粒つまみました。  モコはベッドからゆっくりと立ち上がって、恐る恐る歩き始めました。ケージのとびらの前で歩みを止めましたが、友紀に促されて外へと出てきました。 「モコ」  友紀は名前を呼びました。モコのふわふわな尻尾がわずかに反応したような気がしました。 「モコ、お回り」  友紀はおやつを持っていた手を反時計回りに動かしました。モコは二回目の指示でお回りをしました。友紀はモコに一粒おやつをあげました。 「お座り」  モコは友紀の顔を見つめながら、正面でお座りしました。 「わんっ!」  友紀はいいました。モコは尻尾を左右に振りながら口を開きました。 「わっ」モコは顔を前に突き出して鳴きました。「わっ、わんっ」  友紀はモコにおやつをあげました。モコはおやつをかまずに、一口で飲み込みました。 「いい子、いい子」友紀はモコの頭をなでました。「じゃあ、仲直り」  友紀はモコの前に手のひらを差し出しました。 「お手」  モコは自分の前足を友紀の手のひらの上に置きました。友紀はそっとモコの前足を握りました。 「おかわり」  友紀は反対側の前足も同じように優しく握りました。 「よかったね」  母親がささやきました。友紀はちらっと母親を見上げましたが、言葉は出しませんでした。 「これで最後ね」友紀はいいました。「おまわり」  モコは勢いよくおまわりをして、彼女の前でお座りをして待っていました。友紀はごほうびをあげました。 「本当はいい子なんだけどねえ」母親はほほに手を当てました。「でも、いうことを聞かない、わがままな犬だったら、やっぱり保健所に出しちゃう?」  モコの頭をなでていた友紀は、黙りこくっていました。 「仲直りも済んだことだし、私はこの子を見ているから、貴方は勉強してちょうだい。夕食後はモコちゃんの世話をしてあげてね」 「わかった」  友紀は名残惜しそうにしていましたが、仕方なく自分の部屋に戻ろうとしました。 「あっ、そうだ。ちょっと待っていて」  母親が友紀を止めました。母親はキッチンの所にいって、キッチンの上に置いたカバンを開いて、がさがさ中をかき回し始めました。  友紀とモコは首をかしげながら、母親の行動を見つめていました。 「えーと、あった」母親はカバンから何やら取り出しました。「これをつけて、勉強してみて」 「何なの?」  友紀は当惑しながら、母親の元にいきました。 「このイヤホンを耳につけて音を流すと、雑音が聞こえなくなるんだって」母親はそれを友紀に手渡しました。「ちょっと試してみてよ」  友紀はイヤホンを見つめながら、奥の部屋にいきました。母親は足元にいるモコにいいました。 「貴方は何をして遊びたいの? ボールで遊ぶ、それともぬいぐるみで遊ぶ?」  母親はリビングルームの片すみに置かれたおもちゃ箱から、ボールと犬のぬいぐるみを取り出しました。ボールを持つ手をあげて、モコの顔色を見ました。次にぬいぐるみを上げてみました。 「こっちなんだ」  母親はぬいぐるみをモコの口元に持っていきました。モコは尻尾を激しく振っては、ぬいぐるみをくわえました。 「じゃあ、私は腕によりを掛けて、夕食の支度をするからね」  母親はキッチンへといきました。モコはリビングルームでぬいぐるみを大きく振り回したり、かみ始めました。  自分の部屋に戻った友紀は椅子に座ると、イヤホンを耳につけて音を流すボタンを押しました。次の瞬間今まで聞こえていた、母親が夕飯の支度をする音や、モコがぬいぐるみを放り投げていた音がしなくなりました。 「んっ?」  友紀はイヤホンを外してみました。消されていた雑音が聞こえてきました。 「すごーい」  友紀は驚きの声を上げました。これで落ち着いて勉強ができると思いました。  それから一週間がたちました。 「散歩行ってくるね」  友紀は玄関先でモコにリードをつけながらいいました。 「行ってらっしゃい」キッチンで夕飯の後片付けをしている母親がいいました。「車には気をつけてね。私もすぐに出掛けるから、戸締りをして寝てちょうだい」 「わかってるよ」友紀はお座りをして待っているモコの頭をなでました。「モコ、散歩に行こう」  友紀はティッシュが入ったビニール袋を持って、玄関のドアを開けました。モコは尻尾を振りながら、先に玄関を出ました。  マンションを出ると、モコはリードを引っ張って、先へ先へと進んでいきました。友紀は通り過ぎる人達や車に注意しながら、モコにつれられて夜道を歩いていきました。 「今日の理科のテストだけど、いい点が取れるような気がするんだ。家で勉強していた箇所がちょうど問題に出てきたから、すらすらと解答が書けたんだよ。テストでいい点が取れると、お母さんが喜んでくれるからうれしい」友紀は思い思いのことをしゃべりました。「それで、このまま中学校の受験に合格したら、もうちょっと自由な時間がとれるかなぁ? 友達とも放課後部活をしたり、モコとゆっくり散歩したり、遊ぶなりしたいのに。お母さんと一緒にいる時間がなくてさびしいけど、その分モコがいてくれるから、私がんばるよ。ねぇ、モコ聞いてる?」  肝心のモコは両耳を左右に広げたままで、彼女の前をもくもくと歩いていました。  やがて、散歩道の途中にある公園にたどり着きました。つつじの茂みで囲まれた公園は、中央に砂遊び場があり、その回りにシーソーやブランコ、鉄棒の遊具が配置されていました。  モコは公園の中に入っていき、つつじの茂みに顔を突っ込んでにおいをかぎました。それからシーソーの横で立ち止まって、くるくる回り始めました。うんちをする合図でした。  友紀は持参したビニール袋からティッシュを取り出しました。モコは前足と後ろ足を近づけさせて、おしりを後ろに突き出しました。ぶるぶると体を震わせながら用をたしました。  友紀は慣れた手つきでモコのうんちをティッシュで取り上げて、ビニール袋の中に入れました。その間、モコは遠くの方を眺めていました。 「さあて、お家に帰ろうか」  友紀はモコに話し掛けました。モコは入ってきた公園の入り口ではない方から出ました。来た道をそのまま戻るのではなくて、近所を一周するように散歩するのでした。  友紀は周囲に目をやりながら歩いていきました。反対側から散歩中の犬に出会いました。以前すれ違ったことがあるコーギーでした。  モコは立ち止まって、後ろにいた友紀を見ました。その後、闘牛が闘牛士をいかくするように、後ろ足でアスファルトをけりました。友紀は持っていたリードを強く握りしめました。  モコは牙をむき出しにして、低いうなり声を上げました。コーギーは臆することなく、反対側の歩道をゆったりと歩いていました。 「う~、わんっ」  モコはコーギーに突進していこうとしました。 「モコッ!」  友紀は思わず叫んでいました。道路を横切ろうとするモコを、踏ん張ってリードで引き止めました。モコは立ち止まっては、彼女を見上げました。 「大丈夫だよ」  友紀はモコにいいました。そして、友紀はコーギーをつれた初老の男性に軽くお辞儀をしました。モコはコーギーをにらみつけましたが、あきらめがついたのかやっと歩き出しました。  コーギーから遠ざかった友紀は、モコの背中にささやきました。 「モコは私を守ってくれるの?」  モコはすたすたと帰宅への道を歩いていました。 「もう少しだね」  友紀はうれしそうにいいました。  マンションにたどり着くと、モコは自分の部屋に駆けていき、ケージの柵に取りつけられた水飲み器でお水を飲みました。相当のどが乾いていたのか、しばらくお水を飲み続けていました。  友紀はキッチンの奥にあるかごから、おやつを取り出しました。聞き慣れた音に反応したモコが、友紀の足元にやって来ました。友紀はおやつを二粒モコにあげました。 「今日は外に出しておいてあげるから、おとなしくしているんだよ」  友紀はモコの頭をなでて、自分の部屋に入っていきました。カーテンを開けたままで勉強机に向かいました。母親からもらったイヤホンを耳につけて、周囲の音を消しました。 「さあて、勉強するぞ」  友紀は勢い込んで教科書を開きました。一通り宿題が終わったところでふと後ろに目をやると、いつの間にかモコが友紀のベッドにいました。ふとんの上で丸くなって眠っていました。  友紀は大きく伸びをして、いったん席を立ちました。キッチンの冷蔵庫を開けて、ジュースをコップに注ぎました。食器棚の引き出しを開けて、中からスナック菓子の袋を取り出しました。 「ちょっと一休み」  友紀はキッチンのふちにもたれ掛けて、お菓子を口に放り込みました。お菓子をほお張りながら、ジュースも飲みました。残っていたお菓子を全部食べ終えると、スナック菓子の袋をキッチンの片すみにあったゴミ箱に捨てました。  友紀は再び冷蔵庫を開けてはジュースをコップに注いで、一気に飲み干しました。 「ふー」  友紀は自分の部屋に戻り、ベッドに寝ているモコの姿をちらっと見てから、イヤホンを耳につけて勉強に専念しました。幾度か姿勢を正して、教科書とにらめっこしました。  不意に悪寒が友紀を襲い、ぶるっと身震いしました。何か嫌な予感が胸元にしました。  友紀はゆっくりと首をめぐらして見ました。居るはずのモコがベッドにいませんでした。友紀はつけていたイヤホンを外して、聞き耳を立ててみました。 「モコ」  友紀は名前を呼んでみました。返事はありませんでした。  友紀は椅子を回転させて、横のカーテンをがばっと開けました。立ち上がっては急ぎ足で、モコの部屋やリビングルームを見て回りました。  キッチンにいくと、キッチンの奥に置かれたゴミ箱が倒れており、中に入っていたゴミが床に散らかっていました。そのそばに、モコが横たわっていました。 「モコッ」  友紀はモコに駆け寄りました。床に座り込んで、モコのお腹に手を当てました。モコの顔をのぞき込むと、口からよだれが垂れていました。体を揺すってみますが、反応はありませんでした。  友紀の顔は真っ青になってしまいました。 「モコ」  唐突に涙があふれ出してきました。友紀の流した涙の粒が、モコの顔に落ちました。友紀の手のひらに、モコの温もりが伝わっていました。 「いなくなれって……邪険に扱って、ごめんなさい」  友紀は今の光景を見ていられずに、瞳を閉じてしまいました。すると、モコとの思い出がこみ上げてきました。 “死んでは駄目。神様お願い、モコを助けて”  友紀は瞳を大きく開いて、手の甲で涙をぬぐいました。横たわっていたモコを、おもむろに胸元に抱き上げました。  友紀は口元をきつく結んだまま玄関にいきました。部屋の明かりを消さずに、玄関を施錠しないまま外に出ました。エレベーター脇の階段を降り、エントランスに出ました。  モコが振動で動かないように、友紀はすり足ぎみにマンション前の道路を駆けていきました。二人は夜のまちへと消えていきました。  友紀の母親がアルバイト先から帰ってきました。玄関ドアの鍵を差し込んで、開錠の方へ回しました。 「あれっ?」  ドアのロックが解除される音がしませんでした。不思議に思った母親は、ノブに手を掛けて慎重にドアを引きました。玄関ドアはすんなりと開きました。 「鍵を掛け忘れたのかな」  母親はドアを閉めて施錠しました。廊下を進んでいき、リビングルームへと続くドアの小窓から、明かりがもれているのに気づきました。 「ただいま」  控えた声を出しながら、リビングルームのドアを開けました。リビングルームとその手前の六畳間に、明かりがともっていました。子供部屋に目をやると、わずかに開かれたカーテンの先に、娘のベッドが見えました。布団はきちんと敷かれており、眠った形跡はありませんでした。 「まだ、起きてるの?」母親はカーテンのそばに寄って、声を掛けてみました。「ちょっと失礼」  母親はカーテンを横にずらして、勉強机の方を見ました。蛍光灯がつけられた机と、誰も座っていない回転椅子がありました。教科書とノートが開かれたまま、机の上に置かれていました。  母親は振り返ってケージを見ました。モコの姿もありませんでした。ケージのとびらは開いた状態で、おしっこの跡が残ったトイレシートが、ケージのすみに置かれたままでした。 「友紀、モコ」  二人の名前を呼んでみましたが、返事はありませんでした。 「こんな時間に、散歩でも行ったのかなぁ?」  母親は周囲を見て回りました。六畳間の反対側にあるキッチンの奥に顔を向けました。ゴミ箱が横倒しになっており、中に入っていたゴミが床に散乱しているのを見つけました。  その瞬間、不安が横切りました。母親は両手を胸元に持っていき、はやる鼓動を落ち着かせようとしました。  母親は胸ポケットに入れておいた携帯電話を取り出しました。画面を開くと、“着信と伝言あり”の旨を通知するメッセージがありました。  母親は震える手でボタンを操作して、画面を食い入るように見つめました。着信はモコのかかりつけの動物病院からでした。急いで伝言の再生ボタンを押して、携帯電話を耳に押し当てました。電話会社が預かっている伝言が流れてきました。 “いつもお世話になっております。こちらは、××犬猫病院です。山中さんのお電話でよろしかったでしょうか? 本日、友紀ちゃんからモコちゃんの診察依頼を受けました。モコちゃんが異物を誤って飲み込んでしまい、こちらに運ばれた時には意識を失っていましたが、その異物の摘出をして、現在は回復に向かっております。そんな事情で、友紀ちゃんとモコちゃんをこちらで預かっている次第です。なお本日は、病院は開けてありますので、いつ御来院されても構いません。まずはご一報ということで、連絡させて頂きました。それでは失礼いたします”  母親は我に返ると、床に座り込んでいました。伝言を聞いている最中に、張り詰めていた気が緩んで、立っていられなくなってしまったのでした。 「ゆき」  母親はぽつりと娘の名前を口にしました。携帯電話を耳から離して時計を見ました。午前零時を回っていました。  母親はやっとのことで立ち上がると、部屋の明かりを消すのももどかしげに、玄関へといきました。そして、娘がたどった道を、母親は走っていきました。母親のポニーテイルに束ねた後ろ髪が、激しく揺れていました。 「ごめんください、夜分すみません」  母親はドアを開けて、弱々しい声でいいました。正面の受付カウンターで、パソコンを操作していた人が顔を上げました。 「こんばんは、山中さん。いらっしゃいませ」  ××犬猫病院の院長の奥さんがいいました。母親は受付カウンターへと足を運びました。 「こちらにうちの娘と犬がお世話になっているようですが……」 「はい、奥の部屋に友紀ちゃんがいます。そして、モコちゃんはケージの中で休んでもらっています」奥さんが椅子から立ち上がりました。「今、主人を呼んできますので、こちらでお待ちください」  奥さんは受付カウンターから出て、隣にある診察室へと母親を案内しました。母親は示された椅子に座って、医師が来るのを待ちました。静まり返った部屋で待っているのが、長く感じられました。 「お待たせしました」  しばらくして、医師が奥のドアから姿を現しました。母親が立ち上がろうとしましたが、医師がそれを制しました。 「どうぞ、お掛けになってください」  医師は母親とテーブルを挟んで椅子に座りました。医師は持ってきたカルテをテーブルの上に置いて、両手を組みました。母親は固唾を呑んで、医師の言葉を待ちました。 「しっかりとしたお子さんですね」医師は母親を見つめました。「友紀ちゃんがモコちゃんを抱いて、ここに駆け込んでくれたので、大事に至らずに済みました」  母親はうなずきました。 「電話で手短にお伝えしましたが、お菓子が入っていた袋を飲み込んでいました」  それから、医師はモコに施した処置について母親に説明しました。 「という訳で、今夜はモコちゃんを預かります。引き取りは、そうですねぇ」医師は言葉を切りました。「明日の夕方で構いません」 「はい、わかりました」  母親は答えました。 「それでは、友紀ちゃんが休んでいる所へ行きましょう」  医師はすくっと椅子から立ち上がりました。つられて、母親も立ち上がりました。 「住居となっている、我が家の奥の方です」  医師はカルテを持って、診察室の奥にあるドアを開けました。廊下を出てから更に奥へと歩いていきました。突き当たりのドアを開けると、そこにはリビングルームがありました。 「モコちゃんの治療が終わるのを待っていたら、そのまま眠ってしまいました」  医師はそういってソファを示しました。リビングルーム中央に三人掛けのソファが、壁掛けテレビの前に配置されており、そのソファに友紀が横になっていました。小さな身体には、毛布が掛けられていました。  母親は安堵の溜息をつき、ソファの前でひざまずきました。娘の寝顔を見つめてから、彼女の肩に手を添えました。 「友紀」  母親がささやきました。再び友紀の肩をさすったところ、夢見から戻ってきました。友紀はゆっくりと目を開けて、ぼんやりとした表情で天井を眺めました。 「友紀、起きて。お家に帰るから」  母親は優しくいいました。友紀は瞬きを数回繰り返して、突然がばっと上体を起こしました。 「モコは、モコはどうなったの?」  友紀が慌てて聞いてきました。 「大丈夫、お医者さんが治療してくれたから」  母親ははっきりとわかるように、首を大きく縦に振りました。友紀はほっとしました。  友紀は体の向きを変えて、ソファに座り直しました。母親も友紀の隣に座りました。 「モコちゃんは今夜、入院するんだって。お医者さんが見ていてくれるから問題ないよ。だから、とりあえず私達はお家に帰って、また明日の夕方モコちゃんを迎えに来ましょう」  母親は友紀の前髪を整えました。友紀はうつむいていました。 「帰る前に、モコに会える?」  友紀はそばに立っていた医師を見つめていいました。 「モコちゃんが友紀ちゃんの姿を見て、うれしがって興奮してしまうといけないから、明日までがまんして」  医師は物静かに答えました。 「そうですね……モコをよろしくお願いします」 「安心していいよ」  医師はにこりと微笑みました。 「明日も学校があるんだから、もうお家に帰ろう」  母親が友紀に声を掛けました。友紀は黙ったままソファから立ち上がりました。 「それでは、先生。よろしくお願いします」  母親は医師にいいました。  親子は動物病院をひそやかに出ていきました。道路わきの歩道を、母親が先頭にして友紀がついていきました。街灯がぽつりぽつりと点いた、薄暗い路地に入っていきました。  母親はふと立ち止まって、後ろを振り返りました。友紀もそれに合わせて足を止めました。 「ほらっ」  母親は手を差し出しました。うつむいていた友紀はその手を見つめて、自分の手を上げました。 「よく、独りでがんばったね」  母親は友紀の手を握り締めていいました。友紀はこくりとしました。 「さあ、お家に帰ろう」  母親は娘の手を握って、横に並んで歩き出しました。三日月が浮かんでいる真夜中、親子は我が家へと帰っていきました。  次の日、友紀はそわそわした様子で、椅子に座っていました。その隣で、母親も椅子に座って、医師がやって来るのを待っていました。ここは、モコが入院した××犬猫病院の診察室です。  友紀は前方にあるドアを見つめていたり、周囲の壁や天井に目をやっては、時間をつぶしていました。足音が近づいてきました。診察室の奥のドアが開いて、最初に医師が姿を現しました。 「お待たせしました」医師はドアを開けたまま横に体をずらしました。「モコちゃんですよ」  院長の奥さんが診察室に入ってきました。その腕には、モコが抱きかかえられていました。おとなしくしていたモコは友紀を見つけると、急に体をばたばたとよじらせました。 「モコッ」  友紀は椅子から立ち上がって、奥さんの前に寄りました。奥さんはしゃがみ込んで、モコを床に置きました。  モコは激しく尻尾を振りながら、友紀の足元でジャンプを繰り返しました。友紀は床にひざをついて、モコの体をなでました。モコは前足を友紀のひざの上に乗せ、彼女の顔をペロペロと舐めました。 「元気になって、よかったね」友紀がいいました。「大嫌いっていって、ごめんなさい」  母親や医師たちは、この光景をしばらくの間見守っていました。 「今朝の食事もちゃんと取れていますし、血便や血尿もありませんでした。それに、こんなに調子がよいので問題ないでしょう」  医師が母親に告げました。 「ありがとうございます」  母親がお辞儀をしました。医師は口元に手を当てて、上目使いで母親を見ました。 「友紀ちゃんから聞いたのですが、友紀ちゃんの勉強中にモコちゃんが激しく鳴くそうですね」  母親は戸惑った顔を示しましたが、すぐに答えました。 「はい、それで困っています。友紀が勉強に集中できずにいて、そして近所迷惑になっていて」 「もしよろしければ、ひとつ提案させて頂きたいのですが」医師はゆっくりと話しました。「友紀ちゃんが学校からお家に帰ってきたら、すぐに勉強を始めるのではなくて、モコちゃんと散歩に出掛けるなり遊ぶなりしてください。モコちゃんも昼間独りぼっちでお家で留守番していて、さびしい思いをしています。友紀ちゃんが帰ってくることによって、モコちゃんは大喜びで出迎えているはずですので、まずはモコちゃんと時間を共有して頂きたいのです。その後、モコちゃんが満足して落ち着いたら、友紀ちゃんが勉強に専念することができると思うのですが、いかがでしょうか?」  母親は医師の顔を見つめていましたが、友紀に目を移しました。友紀はうれし涙を流していました。モコはそんな彼女の顔を舐め続けていました。 「お子さんとモコちゃんの今を、共にいるこの時間を大切にしてください」  医師は遠慮がちにつけ加えました。 「……はい」  母親は目頭をあつくしながらつぶやきました。 「それと、ゴミ箱にはふた付きを使用してください」  医師はにこりとしながら、人差し指を立てていいました。 「ただいま」   明るい声が玄関から入ってきました。友紀は靴を脱いで、廊下を走りました。リビングルームへと続くドアを開けて、隣にある六畳間に目をやりました。 「わんっ」  モコが尻尾を振りながら、ケージの柵に前足を掛けて出迎えていました。 「モコ、ただいま」  友紀はケージのとびらを開けました。モコはいったんケージから出ると、前足を前方に伸ばし、お尻を後ろへと下げて、大きく伸びをしました。  友紀は部屋を仕切っているカーテンを開けて、背負っていたランドセルを勉強机の上に置きました。振り返った友紀の足元に、モコが歩み寄ってはジャンプをしました。 「留守番、ご苦労様」  友紀はしゃがみ込んで、モコの頭をなでました。モコは瞳を輝かせながら、友紀の顔を舐めました。友紀が嫌がって顔をそむけますが、モコはうれしさのあまり夢中になっていました。 「散歩に行く?」  友紀がささやきました。モコは一瞬聞き耳を立てながら動くのを止めました。すぐに、友紀の前でくるくると回り始めました。  友紀は笑いながら立ち上がって、玄関の方へといきました。モコも舌を出しながら、友紀の後についていきました。友紀は玄関口でモコにリードをつけて、散歩道具を手にすると、玄関のドアを開けました。 「じゃあ、行こうか」  友紀はポメラニアンのモコと一緒に、散歩へと出掛けていきました。友紀の前を楽しげに歩くモコの、ふわふわな尻尾がいつまでも揺れていました。 完
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