交響曲第五番

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その会場は交響曲の演奏に相応しい荘厳な造りであった。 大ホールへと続く階段は大理石で作られ、途中からはその上に赤い絨毯が敷いてある。 ドイツから来たというその交響楽団は世界的に高い評価を受けており、指揮をするのも当代随一と評判の指揮者だ。 この演奏会のS席を確保するのに十万円を要したが、クラシック好きならこの演奏会を外す事は万死に値する。 それほど価値のあるものだった。 上質の座席に腰かけプログラムを開く。 「交響曲第五番」の文字。 この日この時を待ちわびてきた。 頁をめくると、指揮者の華々しい経歴が載っている 開演まであと三分。 ステージ上には演奏者たちが座る筈の椅子とティンパニ。 この無機質な風景が数分後にはえもいわれぬ音色で私の心を揺さぶる事になる。 私は鼓動が速くなるのを感じた。 しかし、その感動に震える前に、私には乗り越えなければならない試練があった。 それを思うと、心が重くなる。 大丈夫。今回も乗り越えられる。 私は自分に言い聞かせた。 ブザーが鳴る。 演奏者たちがステージの下手から続々と入場してきた。 会場は拍手に包まれる。 彼ら全員が席に着くと、オーボエ奏者が音を出す。 それに合わせて全ての楽器が音を合わせる。 演奏者の音合わせが終わり、演奏者全員が楽器を置いた。 それを見計らって指揮者が登場した。 会場は割れんばかりの拍手に包まれた。 私は一つ深呼吸をした。 試練の時が来たのだ。 客席に向かって一礼をした指揮者が台に上がった。 会場全体が水を打ったように静まり返る。 咳払い一つも許されない静寂が訪れた。 呼吸音さえ憚られる緊張を、客席何千人とステージ上の百人余りが共有する。 私は、この緊張のしじまを破り、立ち上がって大声を出したいという抗い難い衝動と戦っていた。 心の奥底から湧き上がるこの衝動を何としても抑えるのだ。 「くっ」 不覚にも息が漏れたが、この程度なら大丈夫だ。 私の衝動は、立ち上がって振り返り、後ろの何千人に向かって「うわー」と叫べと言っている。 そんな事をしてはいけない。耐えろ。 指揮者が両手を上げた。 もう少し、もう少しだ。 息が荒くなってきた。 嫌な汗も噴き出してくる。 耐えろ。 やがて指揮者の手が振り下ろされ、オーケストラの重厚で華麗な第一音が鳴り響いた。 やった。 絶対に負けられない戦いに今回もなんとか勝利した。 私はそっと汗を拭き、何事もなかったかのように聴衆に溶け込んだ。
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