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1 胎内
その感覚を人に説明するのは難しい。水音と、誰かの鼓動が満たした世界。一番近いのは胎内だが、俺は自分が大人だと知っていて、当然ながら今も母体の中にいるわけではない。
断続的に襲ってくる強い睡魔に押し流されかけながら、胎外にあるスマートフォンに手を伸ばす。スマートフォンは俺の手から逃れようと、震えながら移動していく。
俺は幾度も寄せては返す波のように、意識が薄れてははっきりするのを繰り返しながら、少しずつスマートフォンに近づき、ようやく掴んだ。ずいぶん待たせたはずだが、電話の主は俺の状況を理解しているため、根気よく鳴らし続けてくれている。
俺は再び意識が攫われる前に、急いで応答をタップする。この相手と電話している間だけ、なぜか意識は鮮明になる。
「お目覚めはいかがですか?」
電話越しの丁寧な口調は聞き慣れているはずだが、回数を重ねる毎に違和感が強くなっていく気がする。だが、追究しても意味はないだろう。目覚める度に現実感は着実に遠ざかっているのだから。
「最悪だ」
俺の返事に、男は笑う。全く面白くもなさそうに。
「あなたの最悪は、最高と同義語に聞こえてくるんですよね」
「あんたは鬼畜っぽいからな。人が嫌がる様を見て喜んでいそうだ」
なんとなく男の軽口に乗ってみる。俺も同様に全く面白くもないのだが、唯一こちら側で繋がっている相手であり、ここから抜け出す方法を男が知っている可能性がある以上、機嫌を取っていて損はないだろう。
ところが、男の反応はいつも俺の予想外のところへ行く。
「そこから出る方法は見つかりそうですか?」
先ほどまでとは一転、嘘笑いさえ消して男が尋ねてくる。冗談が通じる時と通じない時が未だに掴めない。
「いや。俺はまだだ」
直接聞くことはせず、暗にあんたは知っているんだろうの意味を込めて俺はを強調する。単に直接聞いたところで答えてくれないだろうからというのもあるが、何よりも男の正体が分からず、得体が知れないからそうした。
聞いたら、その途端に存在を消されるのではないか。そんな、確証がないながらも鼻で笑うこともできない予感が、僅かな恐怖とともに内臓を撫で続けている。
男は俺にそう思われていると分かっている。分かっていて、弄んでいる。俺も男以外に縋るものがないからこそ、甘受する。
「そうですか。もうきっと残り時間は長くありません。あなたも分かっているのでしょう?」
男は、俺が物思いから覚めた頃合いを見計らったかのように、いつもタイミングよく会話を続ける。俺は一瞬、周囲が歪む感覚を覚えながら眉間を押さえた。
「分かっている。この胎内からは必ず出てみせる」
胎内。電話の向こうで男が繰り返す。何かを考える素振りを感じて問いかけようとしたが、男は一言残して通話を切った。
「夢は覚めないままの方が幸せかもしれませんね」
俺も男が残した台詞を繰り返し、その意味を考えようとしたのだが、洪水のように押し寄せる睡魔に抗えず、スマートフォンを取り落とした後は再び胎内に取り込まれた。
初めは、電話がかかってくる前と同じように、ただ心音と海に潜っている時の音と感覚がそこら中を満たしていた。
「………」
次第に、誰かのくぐもった声が聞こえ始める。水中から外側の音を聞いているような感じで、耳を澄ませてもなかなか聞き取れない。
目を開くと、分厚い膜のようなものが張られた向こう側に、いくつかの人影がぼんやりと見える。
「……、……」
俺は聞くのを諦め、そのまま目を閉じる。
いつからと聞かれると上手く答えられないが、俺の毎日はいつもこうして、夢なのか現実なのか分からない空間を行き来している。今のところ、現実だと思っているのはあの男と電話している時だが、はっきりと確信は持てない。緩やかに、俺は恐ろしくも美しい胎内の一部にされ、外界からは切り離されていくのを感じる。
その流れに身を任せた方が楽なのかもしれない。それでも、せめてただ一度でもいいから、当たり前の一日を。
俺が願いを思い浮かべるのさえ阻むように、意識は胎内の意思に従って途切れ、夢の中へと誘われていった。
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