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2 ある男の後悔
耳の奥に水が溜まっている感覚がして、首を傾けるとごぽごぽと音がした。指を突っ込んで掻き出そうとしたが、いつものことなので無視することにした。
「……、さん」
薄い膜が張られた向こう側から、誰かが俺を呼ぶ。振り向けば、頭部が寂しくなった五十絡みの男が紙の束を手に、俺に必死な様子で話しかけてきている。
その男の声と、今いる場所に意識を集中していけば、胎内の感覚は遠ざかっていき、少しずつ周囲の音が流れ込んできた。
「勝間さん、話聞いてる?」
ようやく自分がデスクにいて、そこら中から聞こえる電話の音とコピー機の音から会社にいるのだと理解し出した時には、男は怒り心頭といった様子だった。
「あ、すみません。もう一度、たの、お願いしま……す」
慣れない敬語を使うのに苦戦し、微妙に片言になる。男は顔を赤くしながら深い溜息をつき、再度説明してくれた。
「だからね、この資料は作り直して。こことここと、あとここ!全然指示通りにできてないから。今から三十分……いや、十五分で頼むよ」
「……は……」
そんな簡単な説明だけではどう作り直せばいいか分からない。重ねて質問しようとしたが、男は足早に立ち去ってしまった。
資料を改めて目にする。どうやら県の重要文化財に関する資料のようで、小難しい歴史の説明などが書き連ねてある。指摘された箇所を見てみるが、知識がないと修正のしようもない。
どうしたものかと悩みながらもじっと眺めていると、俺の中にもう一つ別の人間が存在しているように、手が勝手に動いてパソコンを打ち始める。こういうことは夢の中にいる時はいつもあるのだが、今回に限ってはそのもう一人の意思が動き始めるまでに時間がかかった。
俺は夢の中だけ生じるこのもう一つの意識が、この体の本当の主ではないかと思っている。この夢自体、俺のものではなく、誰かが見ている夢を覗き見ているようなそんな感覚がある。そう思うのも、俺はそもそも会社で働いたことがないからだ。いや、正確なことは分からないが、恐らくない。
夢に現実が蝕まれ始めたのはいつだったか。また、答えの出ない問いを自分の中で始めようとして。我に返ると、資料は完成していた。
「課長、資料が完成しました」
俺の口から、俺ではない誰かの情報を基にした言葉が出る。
「おお、そうかそうか。勝間さんは午後から半休を取ると言っていたな」
「はい」
できるだけ自分の意識を消すように努めると、もう一つの意識がくっきりと出始めて、勝手に動き出す。
「噂に聞いたところによると、婚活の最中なんだって?」
「ええ、そうです。では、時間がありますので失礼します」
頭の中に、午後二時という数字が浮かび上がる。それが婚活の時間とすればまだ余裕はあるのだが、上司の話に付き合うと面倒なことになるという気持ちが生まれ、話もそこそこに荷物をまとめて歩いて行く。
勝間茂平。それがこの男の名前のようだ。それ以外の情報はまだ頭に霞がかかっていて、覗き見ることはできない。
勝間の意思に従って会社から出た途端、騒々しい蝉の鳴き声が鼓膜をつんざく勢いで聞こえ始めた。
季節は夏だと分かったが、夢の中では温度など感じたことがないため、情報として得ただけのようなものだ。だが、勝間はそうではないらしく、すぐにスーツの上着を脱いで腕にかけた。
時刻を確かめると、午後一時を少し過ぎている。頭の中に広がった映像は、婚活の会場のようだ。続いて食べ物も浮かんだため、勝間は会場に行く前に腹ごしらえでもするつもりらしい。俺の方はここでは空腹も感じたことがないが、勝間のしたいようにさせることにした。
歩道をしばらく歩いて行くと、前方に喫茶店が見えてきた。勝間はそこを通り過ぎようとしたのだが、喫茶店の隣のラーメン店が休業日なのを見て、喫茶店の方へ足を運んだ。
店内はちょうど昼時ということもあって混んでいて、あいにく見渡す限り席が埋まっている。
「お客様、申し訳ありませんが、もう少しお待ち……」
店員が勝間に頭を下げ、待つように伝えようとしてきた時だった。
「あ、待ってましたよ。こっちです」
店の入り口に近い窓際の席に座っていた女性が、勝間を見て片手を上げる。勝間と知り合いなのかと思ったが、疑問に思う意識が二人分生まれた。
勝間も知らないようだ。
「お知合いですか?」
「ええ、まあ……」
勝間は適当に相槌を打ち、女性の方へ歩いて行く。
俺は今一つ状況が掴めなかったが、勝間が女性の向かい側に座った後、女性の言葉を聞いてようやく合点がいった。
「知らない女から声をかけられてびっくりされたでしょう?空いている席がなくて困っているみたいだったので、相席でもよければと思ったんです」
「そうじゃないか、と思いました。ありがとうございます」
礼を言う勝間の口ぶりが柔らかく響く。目線が改めて女性の姿へ向かった瞬間、張り付いたように動かなくなってしまう。
俺は女性を見てとても綺麗な人だとは思ったが、それ以上は特に思わなかった。いや、強いて言うならば、女性の顔立ちにほんの一瞬だけ何らかの感情が生まれたのだが、それが何かを理解する前に勝間の情動に押し流された。
燃え盛る炎のように熱く、体がふわふわと浮かび上がるような奇妙な感覚。俺はあちらでもそんな感覚を抱いたことがないため、勝間がどんな感情を持ったのかまるで分からない。
「俺は勝間茂平と言います。あなたは?」
やけに固く緊張した素振りで自己紹介する勝間。対する女性は、初めと変わらず人懐っこい笑顔で答える。
「私は源涼香です。この後、実は近くの婚活イベントに参加する予定なので、楽しみにしています」
「え、実は俺もなんです。会場はどこなんですか?」
源が答えると、勝間は驚きと嬉しさを混ぜ合わせたような声で、俺もですと答える。
「こんなことあるんですね」
「はい、俺も驚いています」
勝間は緊張しすぎているのか、後に続く台詞をなかなか言えない。二人の間に沈黙が流れた時、源の方から話を振ってきた。
「よければ一緒に会場に向かいませんか?私、今日は一人で参加したので誰かが一緒だったらなとか思っていたんです」
「はい、ぜひ。あ、いや」
勢いよく頷いた後、勝間は誤魔化すように話題を変える。
「源さんは、これまでもこういうイベントに参加されたことがあるんですか?」
「はい。私はこれで5回目です。勝間さんは?」
「俺は3回目です。なかなか上手くいかないですよね」
「そうですね」
和やかに会話が続く中、勝間がスマートフォンに手を伸ばし、何かをしようとする。それを見た源が、あ、と声を上げた。
「そろそろ時間ですね。行きましょう」
「あ、ですね」
頷き返しながら、勝間の中に悲しみに似た感情が浮かぶのを感じた。俺はそれがなぜか分からなかった。
その後、二人は親し気に話しながら会場に向かったが、イベントが始まってからはなかなか話す機会がないままだった。勝間は何度も源の方へ行こうとしたようだが、源は男性に常に囲まれていて、勝間は勝間で絶えず女性に話しかけられた。
そのまま婚活イベントは終わりを迎え、源の姿も見失い、勝間は肩を落としながら帰ろうとする。
「勝間さん!」
背後から響いた声に振り返った勝間の中で、喜びが弾けた途端、周囲の景色が歪み始めた。立っていられないほど地面が歪み、目の前が見えなくなりつつあったが、勝間が倒れる素振りはなく、源と楽し気に話している空気が感じられる。その時にはもう俺は勝間から切り離されていたらしく、俺だけが別の空間に飛ばされた。
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