レディーレ(二、三歩手前......)

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レディーレ(二、三歩手前......)

 お店の試作品として作らせてもらったケーキを、僕は彼女に出した。  本当ならダメなことだったけれど、それでも彼女がそのケーキを見る時と食べる時の表情を見て、なんだかそういうこと全てが、どうでも良くなってしまう気が、確かにしたのだ。  彼女の、何かを感じてくれているその表情は、彼女が語る言葉以上に、多くのことを僕に教えてくれているようだった。  そんな気が、僕にはしたのだ。  それから少し時間が経って、外の雨は何も変わらないけれど、彼女は僕を呼びつけた。    会計をするために、私は彼を呼んだ。  そうすると彼は、伝票を私の席まで持ってきてくれる。  財布からお金を出そうと少しだけ考えて、けれど記載された通りの値段を、私は財布から出して、彼に渡す。  彼はそのお金を持ってレジに行き、レシートを発行してくれる。  その間に、私は帰り支度を整えながら、あのケーキのことを考える。  サービスとして頂いたのだから、伝票を見ても、その値段が書かれていない。  だから私は、それに対して、何を払うべきなのかわからない。  そうなると、お金というモノが価値基準としてどれだけ便利なモノなのか、身に染みて理解できる。  あの紫陽花のケーキのように、本当に価値を付けたいモノに対して、そういう基準が設けられていないことが、もどかしくて仕方がない。  あぁ、ほんとうにもどかしい......  こんなことを考えている自分自身が、ほんとうに......  そんな風に思っていると、彼がレシートを持ってやって来た。  レシートを渡すと、彼女は微笑を浮かべながらそれを受け取り、自分の荷物を持って立ち上がる。  店の出入り口の扉に向かって歩きながら、少しだけ窓の外を見て、外の景色を確認する。  彼女が来た時から、雨は何も変わらない。  きっとそれ以外のことも、なにも変わらないのだろう。  それはそうだ。  こんな短い時間の間に変わることなんて、たかが知れている。  だからまた、彼女はいつものように、雨の中に戻ってしまう。  また彼女は、この扉の先の、大人達が生きている世界で、息をするのだ。  そう思うと少しだけ、なぜだか心配してしまう。  おかしな話だ。  なにもかも、名前さえも知らない彼女のことを、僕が少しでも心配してしまうなんて......  「あの......」  そう僕が言うと、扉に手をけようとした動きを止めて、彼女は僕の方に振り返る。  その一つ一つの動作が、仕草が、何故だかとても、僕には儚く映った。  あぁ、こういうとき、何を言えばいいのだろう。  何を言えば、この気持ちの一端でも、彼女に届けることができるのだろう。  そんな風に、もうわかりきっている事を考えながら、僕は言葉を口にする。  「また、来て下さい。お待ちしてます」  その言葉が、あくまで店員としての僕の本当の気持ちであることは、変わらないけれど......    呼び止められたとき、少しだけドキッとした。  この扉の先の世界は、また今日の昼間のような、あぁいう世界であるのだから、まだこの、コーヒーと甘い匂いが心を満たしてくれる場所に居てもいいのなら、そうしたいと、思ってしまったからだ。  けれど彼は、少しだけ間を置いて、私に言った。  また来てほしいと、彼は私に言ったのだ。  でもきっとその言葉は、彼の本心とは、どこか違うモノの様に思えた。  本当の彼は、一体何を言おうとしていたのだろう......  変かもしれないけれど、私はそれを、少しだけ知りたいと思ってしまった。  名前さえも知らない。  店員としての彼のことしか知らないけれど......  それでも、こういう気持ちにさせてくれる彼は、きっと私にとって......  「ケーキ、とても美味しかったです。ありがとう、また来ますね」  気が付くと、私はそう言って、店を出ていた。  店を出た彼女の姿を見届けて、少し時間が経ってから、顔が熱を帯びているのを感じた。    店を出てから少し歩いて、顔が熱を帯びているのを感じた。  それでもきっと、大人であるあの人は、そういうことに一々囚われないのだろう。  それでもきっと、大人を上手く演じれる彼は、そういうことさえも上手く、どうにかできてしまうのだろう。  はやく彼女のような大人になりたいと、僕は思った。    はやく彼のように、上手くいろいろなことを出来るようになりたいと、私は思った。    また......はやく会いたいと、そう思った。  
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