6 私の一番大切なもの

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6 私の一番大切なもの

(三十三)アルプスのホテル  修学旅行の日程は、初日に限って高原の豪華リゾートホテルに宿泊できるが、翌日は朝五時に起こされ、登山口までバスで運ばれる。そこからは、延々と続く登山道を五時間あまりかけて山頂を目指す。そして山頂の山小屋で二泊目となる。三日目はやはり朝五時起きで下山、そしてバスに押し込められ、学校に着く。例年だと帰路にいたっては疲労困憊のため、みな暴睡状態で、気が付くと学校の前だったというのも珍しくなかった。  妙子たちは、その豪華リゾートホテルに来ていた。緑の高原の広々としたなかに赤い屋根と木の梁を模った北欧のチロリアンロッジ風の建物があった。  その背景の緑と赤い屋根、幾何学模様の黒い梁と色彩豊かなパッチワークのような景色が生徒たちをつかの間のおとぎ話の世界へと招いているようだった。 「アルプスの少女ハイジが出てくるみたい」と言ったのは妙子だった。 「ハイジはこんな豪華なホテルには出てこないわよ」と言ったのは幸恵だった。 「じゃあ、クララだ」 「クララはフランクフルトでしょう」  まだハイジの話から抜け出せない二人だった。付け加えていえば、 「わたしのおじいちゃんの牧場よりは広いわね」と言ったのは朋子だった。  夕食までの間は自由時間となっていて、グループごとに行動し、夕食までにお風呂と着替えを済ませれば、後は自由に過ごせた。  高原は今、新緑の季節を迎えていた。  薄み緑色の草原の中、所々に黄色や白のユリ科の高山植物の花が咲き乱れ、遠くにはとがった山々が、まだ残雪を残してそびえ立っていた。  妙子たちは部屋に荷物を置くと早速、高原の散歩道に出てきたが、まだ空気が冷たく、せっかくの恋人たちの小道も身を寄せ合って温め合う相手がいないためか、しばらくして身を震わせながら帰ってきた。ロビーを突き抜けた反対側のテラスに、良一が一人草原を眺めて座っていた。 「何にボーっとしてるのよ」  妙子たちもやってきて良一と同じテーブルの椅子に座った。  良一とクラスの関係は相変わらず冷めたものだったが、幸恵を含めた妙子たち仲良しグループだけは、あの集中二十時間テスト勉強以来、親しく話すようになった。 「妙ちゃんとのラブシーンを思い出して…」  何気なく飛び出した朋子の言葉に、妙子は慌てて口を押さえて朋子を抱え込んだ。 「そんなこと言っちゃ駄目でしょう」  耳元で声を殺して言い聞かせる妙子だった。 「一人なの?達也君は…」  妙子はすかさずこの状態をごまかそうと、良一に話しかけた。 「何か、バスに酔ったのか。風邪なのかわからないけど気持ち悪いとかで、寝ているよ」 「珍しいわね。あのお調子者が」小夜子が言った。 「でも、具合が悪かったら、登山なしで、ここに残れるんでしょう」幸恵の思いやりの言葉。 「それは無いな。死んでも行くんじゃないの。幸恵ちゃんとの修学旅行だから」理恵子が冷やかした。 「わたしも山登りよりもホテルのほうがいいな。だいたい男子はともかく、こんなかよわい乙女に山登りだなんて、何考えているのかうちの校長は…」聡子が言った。 「あたしは、行きたいな。山の頂上。夜に満天の星空が見えるって言うから」妙子が言った。  妙子の夢見がちの顔をよそに、聡子が続けた。 「妙子はいいわよ。図太いから…」 「何よ。図太いって…」と、妙子の怒り。 「もう、二人とも…」いつものように幸恵が止めに入った。 「でも、明日は雨かもしれないよ」良一の天気予報が始まった。 「何で?」妙子が顔色を変えて語気強く迫った。  しかし、理恵子も聡子も一瞬笑顔になった。 「台風が進路を変えそうだから」 「うそ…」 「本当、じゃあ、台風のため登山中止ってこともあるわよね」  聡子の弾むような声。 「さあ、どうかな。来たとしても明後日の夜か、その明け方だよ。それに弱い台風だから山頂には影響ないかもしれないし、でも星は無理じゃないかな。雨さえ降らなければ登るに楽なんだけど…」 「濃霧になっても辛いわね」  幸恵の落ち着いた様子は良一に似ている。 「きっと雲海が綺麗だよ」  良一の楽しみは雲海だった。満天の星は高原のホスピスにいた時、数え切れないほど母と見ていた。しかし、母が良くなったら一緒に見に行こう、と言っていた雲海は、母の死と共に消えてしまった。  良一は母の話しを思い出していた。 「山の周りが雲の海で囲まれるの。ずうっと遠く水平線まで雲の海なのよ。それでね、近くの山の峰々なんかがね、島のように見えるんだって、山の上にいることを忘れてしまい。海岸にいるような気持ちになるってコーちゃんが行っていたの。私が良くなって、ここを退院するとき、コーちゃんが帰りに雲海見に連れて行ってくれるって約束してくれたのよ。私、ボーっと雲海を一日中眺めていたいな。お気に入りのカップを一つだけ持って行ってね、紅茶とチーズケーキを食べるの…」  雲海を見せてあげたかった。良一も母も実物の雲海を見たことがなかった。  幸か不幸か、この登山で連れて行ってくれるのなら、母の分まで是非見たいと良一は思っていた。 (三十四)天上へ  翌日は、快晴になった。朝5時、予定通り、バスで登山口まで行き、後は置き去りにされた。 「こんなに日差しが強いと、日焼けするわね。シミが増えたらどうしてくれるのかしら」  聡子が昨日のごとく、ぶつぶつ文句が絶えない。  しかし、登り始めて一時間も経つと、それぞれに会話が無くなった。  ただ上を見上げては、先行きの長さにため息が漏れ聞こえるだけだった。  登り始めて二時間、所々にまだ残雪が残り黒と白のコントラストが美しい。周りの山々も抜けるような青空の中に頂に雪を残しながら神々しく立っていた。  休憩を交えながら三時間、終点の頂は見えるものの、歩いても歩いても届かない頂に苛立ちと諦めの声が上がるようになった。 「もう歩けない」  聡子が幸恵を捕まえて言った。 「人生は、山登りよ。諦めて負け組みになるか、登り切って勝ち組の栄誉栄華の幸せを掴むか自分しだいよ」  幸恵が自分に言い聞かせながら呟いた。 「この山を登れば幸せになれるのね?」  聡子より先に小夜子が息を切らせながら言った。 「そうよ。あの頂に着けば幸せよ」  幸恵も息を切らせながら言った。 「バカね。山に登って幸せになれれば、みんな登山家よ」  理恵子が、苦しさのなか現実に引き戻した。 「幸恵、あんなこと言ってるよ」 「えーえ、じゃあ理恵子に人生の歩き方を教えてもらいなさい」  幸恵は、どうでも言いように突き放した。そこで理恵子が自論をぶちまけた。 「人生はお金よ。お金があれば何でも出来る。お金があれば、こんな歩いて山を登らなくても、ヘリコプターでひとっ飛びよ」 「そうよね。お金よね」  理恵子の理屈に小夜子がうなずいた。 「じゃあ、そのお金はどうするのよ」幸恵が突っ込んだ。 「男からだまして取るのよ。でも、貧乏人は駄目よ。お金持ちのおじ様を狙うのよ」 「それって、援交って言うんじゃないの」幸恵のすばやい洞察。 「いいのよ。小夜子にはあっているわよ。まずは、そこにたくましいおじ様がいるから捕まえてらしゃい」  理恵子は、前を歩いていた元ラガーマンの保健体育の先生を指差した。 「あ、ほんとだ…獲物だ」  小夜子は、その気になって近づいていき体育教師の前でうずくまり、できるだけの色っぽい声で哀れに呟いた。 「はああ、…先生。苦しいの…」 「どうした?」ラガーマンは、心配そうに覗いた。 「先生の背中を見ていたら苦しくて…」 「何だそれは…」 「先生の背中が私を呼んでいるのよ」 「どういうことだ…」 「だから、おんぶして」 「何を言っているんだ。自分の足で歩け」 「せめて、荷物もって」 「ばか者」 「先生、あたしも」  近くにいた数人の女子生徒が体育教師の周りに集まった。 「何を考えているんだ。しっかり歩かんと遭難するぞ」  体育教師の一括で生徒は散った。 「ちょっと色気が足りなかったみたいね」  理恵子が慰めた。  四時間五時間経っても、まだ頂には着かない。最初は一列に並んでいた集団も、今は、ちりじりばらばらになり、個々の小休止の回数も増した。  達也は、やはり調子が悪いのか良一と無口に懸命に登っていた。  六時間、先頭を歩いていた健脚たちは、一番乗りを果たして歓声をあげた。  どんな坂道も、一歩一歩足を運べば必ず頂には着けると校長は教えたかったのかも知れない。  妙子たちも、息絶え絶えに山頂に到着した。  頂に上がれば稜線が一望できた。その雄大さに生徒たちはみな感動し、よく言われる山を征服した気分に慕っていた。 「山の上には、別の世界があるのね」幸恵が呟いた。 「天上人の清浄な世界かな」良一の言葉。 「それよりも、お腹がすいたよね」  小夜子が早速食い気に変わった。  昼食後、山荘に案内されたが、昨日とは打って変わったみすぼらしさに落胆の声が上がった。  しかし、窓から見える天井の世界は、下界では味わえない六時間ひたすら登ったものだけが得られる壮大なロマンを秘めた神々が住む風景だった。 「こんな景色一日眺めながら暮らせたら素敵ね」  朋子が呟いた。 「ただスーパーとコンビニが無いのは辛いわね」  妙子が朋子の横に座って言った。 「でも、いい景色」  しかし、午後四時を過ぎると、遠くの山々の裾野を覆うように黒々とした雲が広がってきた。  そして、稲光が放射状に下界に向って放たれた。 「綺麗、花火みたい」  まだまだ、遠いせいか恐怖よりも感激の方が先に出た。 「山の上では、雷は真横に見えるのね」  幸恵が大発見をしたように呟いた。 「この分だと、妙子の満天の星は見れそうも無いわね」  聡子が残念そうに妙子に告げた。 「でも、夕立みたいなもんじゃないの。夜までには晴れるわよ」  妙子の希望的観測だった。  しかし、夜になると雷は妙子たちの真上で鳴り響き、横殴りの雨が吹きつけていた。 「ちょっと、何なのこの雨は、昼間あんなにいい天気だったのに」  妙子の怒り声。 「山の天気は変わりやすいのよ」  幸恵の心配は今の天気よりも明日の天気だった。  食堂のテレビは台風の接近を告げていたが、まだまだ遠かった。しかし、その影響で大気は大きく乱れ太平洋沿岸の梅雨前線を刺激し北上してくると告げた。 「明日、晴れるといいけど…」 (三十五)よく泣く子  夜、夕食を済ませると、良一が真っ青な顔色と引き攣った顔面の達也を連れて医務室にきていた。 「お腹と足の付け根が刺すように痛くて我慢できないそうです。それに熱もあるみたいです」  苦しい顔を見せている達也に代わって良一が説明した。  その説明と達也の様子を見て校医の先生の顔色が変わった。  達也は何とかここまで自力で歩いてきたが、その痛さで倒れるようにベッドの前でうずくまった。 「大丈夫…」  荒い息の中で言葉は出てこなかった。校医の先生と良一は達也の肩と足を持ってベッドに上げた。そして、すばやく触診をすると、すぐに点滴を始めてから電話を取った。  電話をしながら、良一に訊いた。 「いつから痛み出したか何か言っていた?」 「よく知らないけど、昨日から調子が悪かったようです」 「担任の先生を呼んできてくれる」  その言葉で良一は駆け出した。 「え、何処にいるんだろう」  夕食の時、隅で先生方が集まってビールを飲んでいたことを思い出した。 「まだいるかもしれない」  食堂は、山荘の棟続きに新しく建てられた大食堂で、昼間はレストランとしても営業していた。 「いた…」  そこには、担任だけではなく、校長始め多くの教師と一際目立つ体育のラガーマンもいた。そして山荘のオーナらしき人と地元の山岳ガイドのサポーターたちも、まだビールを飲みながら談話していた。  良一は、今までのいきさつを話すと、そこに集っていた人たちはすばやく立ち上がり全員医務室に向った。  医務室では、校医の先生が浮かない顔で達也を見ていた。 「多分虫垂炎だと思いますが、かなり悪化しているようです。すぐ手術が必要ですが、今救急でヘリを要請したのですが、夜ですし、天候が悪くてこられないそうです。それで今自衛隊のヘリをお願いしているところです。まもなく連絡が来ると思います」 「どうもすみません。お騒がせしまして…。よろしくお願いします」  担任が頭を何回も下げてお願いをしていた。 「じゃあ、わしらは早速ヘリポートの仕度をするよ」  オーナーらしき人が言った。 「江崎はもう帰っていいぞ。後は先生たちに任せろ」  良一は、薬で落ち着いたのか、今は寝ている達也をみて少し安心した。  部屋に帰ろうとした良一は、ロビーの窓を恨めしそうに見ている朋子と妙子に気付いた。 「雨が止むのを待っているの」  良一も、窓際まで来て、妙子たちと並んで外を見た。 「少し小ぶりになったから、もう晴れるんじゃないかな」  妙子はじれったそうに渋い顔を見せた。 「晴れないと困るよ。ヘリがこられないから…」  良一は空を恨めしそうに見ながら呟いた。 「ヘリが来るの?」 「達也が、虫垂炎、盲腸だって」  良一は振り向くことなく呟いた。 「バカね。こんなところまで来て…」 「みんなと一緒に居たかったんだよ。一生に一度の修学旅行だから…」  良一は窓から離れて、近くのソファーに座った。 「まあね。その気持ちわからないでもないけど…。でも、昨日から悪かったんじゃないの」 「うん、何か悪化しているって。それで、ヘリコプターを呼んだみたいだよ」 「こんな天気にこられるの?」  妙子も窓から離れて良一の隣に座った。 「普通のヘリは駄目だけど、自衛隊を頼んだみたいだよ」 「何か凄いわね。よっぽど悪いんじゃないの?」 「よくわからないけど…」  良一はもう一度窓の外を見た。 「でも、この天気じゃあ、自衛隊でも無理じゃないの…。完全に雲の中って感じだよ」  妙子の言うように、窓の明かりが、白く重々しい霧の中に写し出されていた。 「もうじき消灯だぞ。早く部屋に帰れ…」  先生たちもぞろぞろと帰ってきた。 「達也君はどうですか?」  妙子がいち早く訊いた。 「心配は要らん。もうじきヘリが来る」  歩きながらの会話だった。 「先生、ちょっと見舞いに行ってもいいですか?」  尚も妙子が訊いた。 「達也なら、薬で寝ているみたいだったぞ」 「でも、ちょっと…」 「じゃあ、校医の先生に訊いてから五分だけな。後は早く帰れよ」  先生の話が終わらないうちに、三人は駆け出していた。  医務室に着くと、ベッドに横になっている達也が見えた。 「先生、達也君大丈夫ですか」 「天候しだいといった感じだけど…。ヘリが来てくれればいいけど」 「こられなかったらどうなるんですか」 「大丈夫よ。心配しないで…」  校医の先生はあえて核心部分は言わなかった。  朋子はそれを訊くと、一人達也のベッドに行き、達也の布団に手を入れてお腹を触っているようだった。 「駄目よ。大丈夫だから、今は安静にしておいて」  しかし、朋子は校医の先生を睨みつけて、 「先生、これ酷い、今に手遅れになるよ」 「だから、今ヘリを待っているのよ。いいから、もう部屋にお帰りなさい」  その言葉で朋子は医務室を出て妙子たちと部屋に戻ろうとしたとき、医務室の無線電話が鳴った。 「やはり、駄目ですか…。はい、わかりました。お願いします」 「先生、駄目って、どういうことですか」  今度は朋子が刺すような眼差しを校医の先生に向けた。 「やはり雲が厚くて着陸地点を見つけられないそうよ。近くの病院で天候が回復するのを待っていてくれるそうよ。雲が切れればすぐに飛んでこられるから」 「そんな、酷い…」  しかし、校医の先生を責めても仕方なく、三人は息が詰まるような不安の中、ロビーの長椅子に腰掛け、白くもんもんとした窓の外を恨めしそうに見た。 「これじゃー、仕方ないね…」  良一は、それだけ言うと、一人自分の部屋へと重い足どりで戻って行った。  妙子は、暗い廊下に消えていく良一を見ながら、悶々とした言いようのない悲しみがこみあげてくるのを必死でこらえていた。 「朋子ちゃん、さっき達也君を診たでしょう。どうだったの」  その思いのはけ口を見つけたように妙子が訊いた。 「すごい熱で、お腹全体が腫れているような、今にも破裂しそうな感じ…。手遅れで、毒が回って敗血漿を起こしたら命が危ない」  朋子は俯きながら呟いた。 「どうして、どうして朋ちゃんがわかるの。朋ちゃん。わたしと同じ中学生だよ。わかるわけないよ」  妙子は朋子の座っている前でひざまずいた。 「そうだね。でも、わかるの」 「じゃあ、朋ちゃん中学生じゃないよ。わたしのお母さんだよ。お母さん。お母さん…」  妙子は、朋子の太股を掴んだ。 「妙ちゃん…」朋子は見詰める妙子から目をそらした。 「お母さん…。お母さんなら、達也君を助けて、助けて、有名な外科医なんでしょう」  妙子は目をそらす朋子の肩を両手で掴み、目を覚まさせようと大きく揺さぶった。 「え、でも出来ない。わたしまだ中学生だから…」  朋子は妙子の腕を振り切るように、もう一つの窓の側においてあったベンチに座りなおした。  でも、妙子はそれを追いかけた。 「そんなことない。さっきちゃんと診察できたじゃない」  妙子は苛立ち、もう一度、朋子の前にひざまずき肩を掴んで言い聞かせるように揺さぶった。 「あれは、ただなんとなく、そう思っただけだから」  朋子自身、良くわからなかった。何故そう思ったのか、私は誰なのか…。  しかし、達也に触れたとき一瞬にして、手術の段取りが頭に浮かんだのは確かだった。  しかし、それが本当に正しい段取りなのか、それとも空想なのか。実証した記憶がなかった。 「違う、そうじゃない。お母さん、時々中学生じゃなくお母さんになっている。お母さん、お母さんならきっとできる。達也を助けてあげて、手術して、お願い…。手遅れになっちゃう。ミーコみたいに死んじゃってもいいの!」  妙子はいつしか大粒の涙をこぼしながら泣いていた。その涙をぬぐうように、肩を掴んでいた手を滑らしながら朋子の股を抱きかかえ顔を股の間に埋めて、今度は大きな声を出して泣いた。  その泣き声は、静かなロビーに広がった。 「ミーコ…」  ミーコは、幸せだったのかな?あのまま牧場に置いてあげた方が良かったのかな。  朋子はいつもの問いかけを繰り返していた。 「ミーコは私の手の中で死んだの。だんだん心臓の動きが小さくなって…。私何にもできなかった。だから、医者になったの…。私は医者…」  「…、」 「お母さん、ミーコになっちゃうよ」  妙子は、泣きながら叫んだ。   「妙子は、よく泣くわね。紗恵子は全然泣かない子だったのに…。もう、わかったから、泣かないでよ。妙子にはかなわないわ。何をして欲しいのよ」 「え、妙子は泣きながら頭を上げた。そこには体操服の朋子ではなく、白衣を着た三十路を過ぎたころの母がいつの間にか座っていた。 「お母さん、おかあさん…」  妙子は、もう一度母親に抱きつき、さっき以上の声を出して泣いた。  その大きな泣き声を不審に思ったのか、幾人かの教師が出てきてその光景を見守っていた。 「妙子、恥ずかしいわよ。みんな見てるから…」  妙子は、泣きながら顔を横に向けた。 「お母さん、達也を助けて…」 「わかったから、何処にいるの…」  妙子は涙を拭くこともなく母親の手を引っ張って医務室へと駆け出していた。 「わたしは、医師の湯川朋子よ。患者を見せなさい」  母親朋子は、しばらく達也を見ると、 「ここで手術は出来るの」 「簡単な手術なら出来ますが」 「道具はあるのね。すぐ準備よ。あなたには、手伝ってもらうわ。大至急」  妙子も他の先生方も即座に外に出された。居場所がなくなった妙子と先生たちは仕方なく ロビーまで戻った。  そこには、良一、幸恵と小夜子、聡子が待っていた。 「何かあったの?なかなか戻ってこないから」 「達也が盲腸で今手術している」 「朋子ちゃんは、…?」 「え、朋子ちゃん…。今手術している」 「朋子ちゃんだよ!」 「そう、手術している…」 「妙子、しっかりしなさいよ」  そこに担任の先生が間を割って声をかけた。 「もう、お前ら消灯はとっくに過ぎているぞ」 「先生、達也君大丈夫なんですか?」幸恵が不毛な答えの妙子に代わって核心部分を聞いた。 「ああ、大丈夫だ。明日、また早いぞ。戻った戻った」  担任は幸恵たちを部屋に追い返した。 「先生、あのお医者さん、わたしの知り合いなんです。ここにいてもいいですか?」 「そうか、妙子の知り合いだったのか。助かったよ。本当に助かった。じゃあ、ここで静かに待っているんだぞ」 「良一も…」  担任は、うなずいて返事を返した。  それから三十分もしないうちに母親朋子は出てきた。 「終わったわよ。そんなに酷くならないうちに手術できたわ。もう大丈夫…」 「もう、終わったの?」 「心臓を手術するわけじゃあないんだから、すぐに終わるわよ」 「お母さん、ありがとう!」 「妙子が、お礼を言わなくてもいいわよ」 「あ、うん…」 「でも、確か修学旅行に付いて来たと思ったんだけど…?」 「…そうよ。わたしと一緒に来たのよ」 「何で、校医でもないのに…?」 「ほら、山だから、登山なんだから、石が落ちてきたり骨折ったりするでしょう。達也みたいな人もいるし外科医として同行しているじゃないの」 「そうだったかしら…」 「わたし、お母さんと修学旅行できて嬉しかった」 「そうね…」  その時、医務室の方から校医の先生が声を掛けてきた。 「今、自衛隊のヘリがこちらに向ったそうです」 「じゃあ、ストレッチャーで運んで準備しましょう」  妙子と良一は、思わず外を見た。そこには、さっきまでの厚い雲が嘘みたいに消えていて、空には満天の星が輝いていた。 「本当に山の天気って変わりやすいのね。でも、綺麗。毎日プラネタリウムが見られるのね」そう言ったのは、もちろん妙子だった。  しばらくして、投光機が照らされた。  爆音の中、自衛隊のヘリが到着した。  多くの生徒が窓から顔を出して外の騒ぎを見ていた。  母親朋子は、そのまま達也とヘリに吊り上げられて行ってしまった。 (三十六)目覚める人  昨夜の騒ぎのすぐ後というのに、予定通りに朝五時に起床になった。妙子はまだ熟睡していた。 「大変よ。朋子ちゃんがいないわよ!」幸恵が、妙子を揺すり起こした。 「えー、朋子ちゃん…」  妙子は、昨日の夜のことが頭に蘇った。  朋子は妙子の母親に代わって、ヘリに乗って付き添って行ってしまったのだ。 「大変だ!」  一難去ってまた一難、妙子は幸恵を跳ね除けて、えらい事になったと思った。山で人が一人いなくなれば遭難だ。捜索隊が出て大騒ぎになると直感した。 「先手を打たなければ…」  妙子は、幸恵の手を取って、 「一緒に来て…」  二人が向った先は担任の部屋だった。 「先生、朋子ちゃんがいないんです。自衛隊のヘリで達也君について行ったかもしれないので、病院に確かめてください!」 「…そうか。ヘリに乗った様子はなかったと思ったけどな。達也の様態も含めて、電話しておく。お前たちは、荷物をまとめて出立の準備だ!」 「あ、それと朋子ちゃんは、本名だとまずいので、普通はわたしの家の者として、湯川で名乗るようにしてますから、湯川で訊いてみてください」  妙子の策略は、母親が多分湯川と名乗ることを想像して、今は医師の湯川朋子と山では中学生だった小柴朋子の名字を変えることによって、同一人物にしようと思った。電話では年齢差は見えない。そして昨日の夜の混乱状態では突如現われた女医師が湯川朋子だと確認したものはいないと考えた。  妙子たちが朝食を採っていると担任が昨日の達也のことと、朋子が付き添って病院に行ったことを話した。 「達也は大丈夫…」  クラスの中から喜びの歓声が上がった。 「今朝、電話したところ。意識もしっかりしていて、順調に快復に向っているそうだ」  妙子の考えは見事に的中した。 「朋子ちゃんって偉いわね。あんな状況の中で達也君に付き添っていくなんて…。達也君のこと好きなのかしら」  幸恵が感心するように言った。 「そういえば、朋子ちゃんって普通とちがってたわよね」  理恵子も感心した。 「それだけ修羅場をくぐってきたのよ」  小夜子もそのあとに続いた。 「そうかな。ただ歩くのがいやなだけじゃないの」  妙子が笑った。 「そうよね。ヘリで降りたのよね」  理恵子が言った。 「わたしもついていけば良かった」  小夜子は悔しがった。それぞれ大事がないことに、ひとまず安堵した様子だった。  下山は、登りよりもはるかに楽だった。  登りの時は恨めしく見えた遠くのきりっ立った山々が、今は名残惜しく見えた。  帰りは、登山を頑張った生徒を慰労するためか。ドライブインを兼ねた、豪華レストランで地元産の牛肉を使ったステーキ弁当が出された。  その肉のとろけるような美味しさに、山の疲れが吹き飛ぶ思いがした。  妙子たちが肉の美味しさに舌鼓を打っているころ、妙子は担任に呼ばれ、レストランの隅に招かれた。 「朋子君が今朝から見当たらないそうだ。深夜二時ごろまでは、病室で達也を見ていたと看護士の人が見ているんだが、それから見当たらなくなった。もしかしたら、妙子のところに連絡があるかも知れんが…」 「いなくなちゃったんですか」 「まだ、そうとは決まったわけじゃないが…。でも、この辺で朋子君の知り合いかなにかいるのか?」 「そこまでは、訊いていませんが…。いなくなったときの連絡先は聞いています。電話してみてもいいですか」 「あ、あーあ、頼む」  妙子は、前に祖父に言われたことを実行した。 「おじいちゃん。朋子ちゃんが修学旅行の途中でいなくなっちゃった…」 「うん、わかっている…」 「知ってるの…」 「先生、いるか」 「ちょっとまって」  妙子は、担任のところに走った。 「担任ですが」 「先生、申し訳ない。ご迷惑を掛けています。私が朋子の父親です。事情は話せませんが、朋子は大丈夫です。私の元に帰るはずですから、探さないでください」 「事情は訊いています。それを訊けばこちらも安心しました。またいつでも学校に来るようにお伝えください。クラスの子供たちも待っていますから…」  担任は携帯電話を妙子に返した。 「おじいちゃん…」  妙子は、今にも泣き出しそうな自分を抑えて、喉の奥から声を搾り出した。 「妙子、ありがとうよ。お前もよく知っていると思うが朋子はこの時代の者じゃない。朋子は元の世界に帰ったんじゃよ」 「うん…」妙子は小さく頷いた。 「妙子には寂しい思いをさせてしまうが、嬉しいこともあるぞ。朋子が帰ったせいかどうかはわからないが、こっちの朋子が目を覚ましたそうだ。朝方、紗恵子から電話があった。わしらも仕事が終りしだいそっちに行くつもりだ…」 「ほんと…。よかった…」  妙子は、母親が目覚めたと聞いても驚かなかった。多分、そうなることは昨日、山小屋で母朋子と再会したときから、なんとなく感じていたことだった。  妙子が電話を切ると、また涙がこぼれ落ちた。  妙子は、涙をぬぐうと心配そうにこちらを見ている良一に気がついた。  しかし、良一は何も言わなかったが、妙子の思っていることは、良一にもわかっていた。     夕方になってようやく修学旅行のバスも無事学校に着いた。  妙子が疲れた体を引きずりながら帰ると、祖父祖母、父親と母朋子のベッドの周りを囲んでいた。 「遅かったのね…」  母朋子は寝たままの状態で顔だけ傾け妙子を見た。 「お母さん、もういいの?」  妙子はいつものように母親の前に立って顔を覗き込んだ。 「朝、起きた時は、変な気持ちだったけど、今はもう慣れたよ」  弱弱しい声だった。でも、肌の色が薄っすらといつもよりかピンク色に染まっているように見えた。 「お母さんなんか、朝目を覚ますと、起き上がろうとするのよ。一年以上寝たっきりだったのに…」  そこに紗恵子が出てきて今朝の出来事を嬉しそうに話した。 「紗恵子の看護がよかったんだよ」  父親が、紗恵子の苦労を労った。 「でも、本当に目を覚ますとは思わなかったわ。正直言って。でも、お父さんが、必ず目を覚ますっていって…」  紗恵子の目から薄っすらと涙が光ったように見えた。 「いや、確信があったわけではないが、世界の例からすると、一年二年寝ていた患者が急に起き出したということはあるんだよ。まさか自分のところでそうなるとは思わなかったがね」  父親もさすがに喜びを隠せない様子だった。 「妙子、おいで…」  妙子は顔を近づけ耳を傾けた。 「え、何お母さん…」 「達也君はもう大丈夫よ…」 「え、え、えーえ…。お母さん、みんな、みんな覚えているの?」 「最初は、夢かと思っていたけど、妙子が修学旅行と訊いて思い出したよ」 「お、お母さん、内緒だからね。言っちゃあだめよ」 「わかったわ。秘密ね…」  まだまだ母親は体力が無い様子で、それだけ言うと、また目を閉じた。少し微笑んでいるように見えた。 「え、何が秘密なの」  紗恵子が妙子に訊いた。 「そういえば、小さい朋子ちゃん、帰ったんだって。おじいちゃんから聞いたわ」 「うん…」妙子は元気なく答えた。 「よかったじゃない」  紗恵子は妙子の寂しい気持ちが伝わってくるようだった。 「ちゃんとお別れ出来なかったから、ちょっと心残り…」  妙子の沈んだ顔を見たのか、 「わたしじゃ不満なの…」   母朋子が小さな声で言った。 「えー、仕方ないから、お母さんで我慢しておくわ」  妙子が気を取り直したように笑って母朋子を見た。 「それより、ピアノ練習しているでしょうね」  止めとばかりにいつもの母親の言葉。 「また始まった。いつも聴かしてあげていたでしょう」  母朋子はただ微笑んでいるだけだった。 「それより、良一君は?」  紗恵子が心配して訊いた。 「もう、帰ってくるんじゃないかな。自分の家に荷物置いてから来るって言っていたから…」  妙子が答える間もなく良一の声がした。 「ただいまあ…」  妙子は、嬉しそうに良一を迎えに出た。 「お母さん目を覚ましたわよ」  そして、良一だけに聞こえるように、小さな声で呟いた。 「お母さん、私たちといたこと、みんな覚えているみたいよ」 「え、ほんと…」  良一は改めて挨拶をしようと、妙子と一緒にベッドに向った。 「良一…」  母朋子は、薄っすらと目を開けて小さな声で呼びかけた。 「…」  良一は、母朋子と顔を合わすや否や、紐の切れた操り人形のように、その場にくたっと倒れてしまった。 「良一、よっぽど疲れているのね」  妙子が良一に手を貸そうと腕を持つと、その反応のなさに血の気が引いた。 「良一、変よ…」  妙子は父親の顔を見た。  父親は、良一をそっと仰向けにすると、脈と目の瞳孔を見た。 「救急車!」  紗恵子はその声で、すばやく電話を取った。 「お父さん、良一どうしちゃったの」  妙子は父親にすがった。 「詳しくはわからないけど、危ない状態だ」  すぐに救急車が来て、良一は運ばれていった。妙子と父親も付き添いで救急車に乗り込んだ。  病院では、すぐさま採血と心電図、MRIが撮られたが、何の異常もなく、ただ深い眠りに付いているようだった。 「朋子のときと同じ状態だな」父親は呟いた。 「お母さんのときと同じだなんて、良一はさっきまで修学旅行に行っていたのよ。すぐに目を覚ますわよ。ただ少し疲れているだけよ」  妙子は、こぶしを握って父親を見つめた。  その日の深夜、妙子は眠らずに良一をずうっと見詰めていた。 (三十七)一番大切なもの、妙子の場合  良一、目を覚ましてよ。このまま死んじゃうなんてことないよね。  良一のおかげでお母さん、やっと目を覚ましたのに。あんたが病気になってどうするのよ。  あたし、良一のこと好きよ。大好きよ。いつもわがまま言ってごめんね。  もう良一を困らせたりしないから。お料理も後片付けもお掃除もするから、だから目を覚ましてよ。  あたし、これからどうすればいいのかわからないよ。もう良一なしでは生きていけないから…。  小さいとき、あなたが始めて、あたしの家に来たとき、弟ができたみたいで嬉しかった。本当いうと、弟っていう意識はなかったけど、大きなお人形か、子猫か子犬を飼うみたいで大喜びしたのよ。  でも、すぐにわかったの。お人形よりも、子猫よりも、良一が最高にいいって。私のもの、私の全てって思ったのよ。それに何でも言うことを利いてくれて、何でも一緒にやってくれて、良一がいつもあたしを見ていてくれたから、安心して何でもできたのよ。  良一が後ろで支えていてくれたから大きな勇気がもてたのよ。本当にあたしの分身のように思っていた。  あのお風呂、気持ちよかったね。体中石鹸だらけにして、体を擦り合わせて、ぬるぬるぬるぬる、とっても気持ちよかった。私またあれやりたい。良一と一緒にお風呂入りたい。良一もお風呂一緒に入りたいでしょう。洗いっこしたいでしょう。今度はわたしが良一を支えてあげるから。良一のためなら何でもするから。だから目を覚まして。お願い…。 (三十八)霊感  しかし、朝になっても良一は目を覚まさなかった。  妙子はいつしか、良一のベッドの下でうずくまるように眠っていた。  朝早くに紗恵子が見舞いに来て、床に眠っている妙子を起こした。 「妙子、風邪ひくわよ…」  妙子はまだ半分寝たままで、 「お母さん大丈夫なの…」  眠そうな目を擦りながら訊いた。 「おじいちゃんとおばあちゃんが、昨日は泊まっていってくれて、看てくれているの。良一君は…?」 「目を覚まさないの…。何処も悪いところがないのに。お父さんはお母さんと同じだって言ってたけど、担当の先生は疲労じゃないかって言ってくれた…」  妙子は床に座ったまま力なく呟いた。 「妙子、昨日はあまり寝てないでしょう。私が代わるから、一度家に帰りなさい。お父さんも連れて…」  父親は、病室にあるソファーで寝ていた。 「うん、…」  妙子は小さく力なくゆっくりと小首を傾げた。  紗恵子は妙子と父親が帰ると、ベッドの前の椅子に座り寝ている良一の手をとった。 「新一、あなたでしょう。わかっているのよ。私にはあなたがわかるの。もちろん姿は見えないけど。姿が見えればどんなにかいいのにね。でも、見えないけど感じるの。あなたはここにいるって。最初は、私の思い込みで、寂しさからの空想かなって思っていたのよ。でも、空想でもよかった。新一が側にいてくれていると思うと寂しくなかったから。でも、あなたが良一君に乗り移って私の部屋に来たとき、これは空想ではない。新一は私の側にいるんだって思ったわ。私の感じていたことに間違いはなかった。それで、もし新一がいるのなら、あの朋子ちゃんは、本当のお母さんじゃあなかったのかって。中学生だったころのお母さん。そのことをおじいちゃんもおばあちゃんも知っていた。どうして中学生のお母さんがいたのかはわからないけど、新一ならできるのね。なぜって、朋子ちゃんがいた間、新一を感じなくなったから。あなた絶対に私が着替えているときとか、裸になっているとき、じっと見ているでしょう。朋子ちゃんがいた間それがなかったの。もう何処かに行っちゃったのかなて、本当に思ったのよ。でも、お母さんが目を覚ましたとき、新一は側にいた。だから今度は、同じことを良一君でやろうとしてるんじゃないの。昨日一晩、新一は私の家に居なかった。良一君の中にいるのね。あなたは良一君と入れ替わろうとしているんじゃないの。でも、良一君は駄目よ。良一君は妙子のものだから、妙子のものなんていうと良一君怒るかもしれないわね。でも、妙子の一番大事なものだから、妙子に返してあげて、妙子に私と同じ悲しみを味合わせたくないの。あんな悲しいこと私だけで十分だから。それに、いいじゃない。私と新一はいつも一緒じゃない。姿形はなくても、私はあなたを感じられる。新一はいつも私が見えるんでしょう。え、なに。見るだけではつまらない。良一君に乗り移って夜這いに来るくらいだから、よっぽど触りたかったのね。でも新一、相変わらず頭が足りないようね。どうせ乗り移るんだったら、周りに迷惑を掛けない猫か犬にしなさいよ。でも犬や猫にしても迷惑な話だけど、少しは許してもらいましょう。そしたら裸になって一緒に抱いて寝てあげるから。だから、良一君は妙子に返してあげて…。お願いだから」  紗恵子は、良一に懸命に話しかけた。しかし、良一の反応はやはり何もなかった。 (三十九)暗示 「良一、良一、おい、起きろ…」  新一が、寝ている良一を蹴飛ばした。 「あれ、ここは何処…」  良一が目を覚ますと、そこは何もない世界だった。しかし、その何もない空間に新一は後ろ向きに立っていた。 「良一の無意識の世界だよ」 「あ、そうか。僕は妙ちゃんのお母さんの代わりに、無意識の世界で寝ていなければいけないんだ」  良一は、目が覚めてゆくなか、思い出すように言った。 「…失敗したな」  新一はポツリと呟いた。 「え、何を…。でも、うまくいったじゃない。本当にありがとう。君の言ったとおり妙ちゃんのお母さん。目を覚ましたよ」  良一は起きる気力もなく、体を丸めて、後ろ向きに立っている新一の背中に話しかけた。 「…失敗したな」 「何を失敗したの」 「もういいよ。良一の役目は終わったよ」 「え、それは困るよ。妙ちゃんのお母さんには、これからもずうと起きていて欲しいから」 「もう、いいんだよ。彼女はずうと、これからも起きているよ」 「じゃあ、僕はここにいないと…」  新一は振り向いて言った。 「良一は本当に暗示にかかりやすい奴だな。よく考えてみろよ。人の命は別々なもの、良一が代わって、他の人間がどうにかなるわけないだろう」 「え、じゃあ、妙ちゃんのお母さんは…」 「彼女は、無意識のなかで迷子になっていただけだよ。彼女は子供のころの時間から抜け出せないでいた。それを君たちが元の時間に連れ戻してくれた。もしかすると、放っておいてもいずれ目を覚ましたかもしれない。でも、彼女は大人になりたくないという、とらうまがどこかにあって、それが時間を止めていたんじゃあないかな。だから、僕は、過去の時間の中から無意識の朋子の心の成長に合わせて、眠っている幼児の朋子、小学生の朋子、中学生の朋子を連れてきて結び付けた。そして現実の世界で君たちと生活する中で本当の自分を見つければきっと目を覚ますと思っただけだ。」 「そんなことできるの…」 「幽霊には、と言うより、魂に時間的制約がないから、もう一つ言えば空間的制約もない。僕の体を使えば簡単なことだよ。つまり僕が君たちの体の中に入れば憑依だけれど、君たちが僕の体の中に入れば、そこは無限の世界だ。君だって、僕の体を使って母親の無意識の世界に行っただろう。人の心の中だけではない。時間的制約が無いのだから、過去へでも未来へでも行けるよ。でも、未来は無理かな。まだ時間も空間も存在しないから。これから君たちが切り開いていく世界だ」 「そうだけど…」 「本当は、そんなことどうでもよかった。ついでのことだった。君に暗示がかかればよかったんだ」 「暗示…」 「そうだ。催眠術と一緒だよ。紗恵子のところに夜這いに行ったとき、君は抵抗しただろう。まあ、他人に体を乗っ取られれば普通は抵抗するけど。だから暗示を掛けて、君の心を無意識の世界に押し込めておく必要があったんだ。それも絶対目が覚めないような強力なやつを…。でも失敗だった。紗恵子に感づかれてしまったんだよ。まさか、霊感の持ち主とは思わなかった」 「紗恵子さんが…」 「そうだ。よく考えれば、僕の存在に気付いているんじゃないかと思うようなこともあった。紗恵子の裸をじっと見ていると、急に振り向いてこっちを見るんだ。それから、そそくさと服を着たりするときがあったから、もしかすると見えているのかと思ったけど、姿がないのだから見られようがないと思って息だけは潜めてじっとしているんだ。幽霊が遠慮するのも変だけど…。それに、時々僕に話しかけたりするんだ。僕が見えるように…。でも、見えてはいない。きっと寂しいんだと思ったよ。だから何とかしなくっちゃって思ったんだ」 「ほんと凄いじゃない」 「凄くもなんともないよ。紗恵子が霊感で僕を見つけても、しょうがないじゃないか。姿があるわけじゃなし、話が出来るわけでもなし…。触れるわけでもなし…。そんなの気味が悪いだけだよ」 「そうかもしれないけど…」 「それで、君の体をもらって紗恵子と結婚しようと思った。君は紗恵子に気に入られていたからね。僕と君は似ているらしい」 「じゃあ、僕も霊感があるのかな」 「それは違うと思うよ。僕が君の心に働きかけているから僕が見えているだけだから」 「じゃあ、紗恵子さんにも働きかけてわかってもらえればいいじゃないか。新一の気持ちを」 「だから言ったろう。幽霊が側にいても気持ちが悪いだけだって。それに、いつまでたっても紗恵子の周りで僕がうろうろしているとわかれば、紗恵子は僕を気にして、いつまでたっても結婚できない。僕がいることで紗恵子が不幸になる」 「それなら、僕の体を使えばいいよ。約束は約束だから。僕はここで静かに寝ているから」 「本当に、君はどうしようもないおしとよしだな。君には命を掛けて守りたいものはないのか。宮沢賢治の蠍になるんじゃないのか」 「僕の体を使って紗恵子さんが幸せになれれば、僕は満足だよ」 「妙子はどうするんだ」 「ターちゃん…」 「君の心の中は妙子のことで一杯じゃないか。もう一つ言えば、妙子もまた君を必要としているみたいだ」 「でも、僕はいいんだ…」 「まあ、いい。それは君の問題だ。ゆっくり考えろ」 「じゃあ、僕の体を使って…」 「もう、言うな!自分の一番大切なものすら、わからない君が生を受けて、こんなにいとしい紗恵子を前にして何も出来ない死んでしまった僕がいる。悔しいよ。お前なんか宇宙の塵にして消してしまいたいよ」 「ごめん…」 「簡単に謝るな。自分に自信がないから謝るんだ」 「何をさっきから怒っているの?」 「君にはあの声が聞こえないか」  良一が耳をすますと紗恵子の声が聞えた。 「新一、出てきなさい。良一を元に戻して…。新一、そこにいるのはわかっているのよ」 「紗恵子さんにはわかるんだ」 「ふん、紗恵子でも目に見えないものを確信的に信じることはできないさ」 「僕があんなことしなければね」 「あんなことって…」 「君に乗り移って夜這いに行った事だよ。あれが切っ掛けになってすべてが、ばれてしまったんだよ」 「じゃあ、この際、正直に出て行ったら」 「そんなことできるわけないだろう…。できるわけないさ…」 「じゃあ、このまま…」 「そう、このまま…。このままが一番いい。そのうち時間がたてば、やっぱり気のせいかもしれない、と思うようになる。そうすれば、僕のことも忘れていくよ」 「…そんなの、悲しいね」 「そうさ、悲しいよ。辛いよ。これが死ぬってことだ。夢も希望も、…無だ。」 「僕に出来ることはない」 「君は生きろ。蠍になれ。生きて自分の身を焼きながら人の幸せのために生きろ。自分のために死ぬな。人のために死ね」 「わかったよ」 「じゃあ、行け…」 「うん、…」 「最後に一つ…。君が目を覚ましたとき、どれだけ覚えているかは知らないが、このことは紗恵子には絶対に言うな。頼む…」 「新一のことは忘れないよ…」 「バカ、死んだやつのことなど忘れろ」 (四十)子猫  しばらくして良一は目を覚ました。 「…紗恵子さん」 「良一君ね。本当に良一君ね!」 「もちろんですよ…」  良一は、まだ半分夢の中のようなうつろな目で呟いた。 「じゃ証拠見せて…。私の胸、触って…」  紗恵子は姿勢を低くして胸を突き出した。 「また、胸ですか…?」  良一はこの前の日曜日に妙子に胸を触って証拠を見せて、と迫られたことを思い出した。 「あら、触りたくないの?」  紗恵子はなおも迫った。 「触りたいですよ…」  「じゃあ、誰も見ていないから…」   良一は右手を出して紗恵子の膨らんだ胸を触ろうと腕を伸ばした。 「…駄目ですよ。また家事労働の刑が延びちゃうから…」  良一は、伸ばした腕を慌てて引っ込めた。 「…残念。少しは学習しているのね。じゃ今度はもっと凄いので誘うことにするわ。でも、元に戻って、本当に良かった」 「…僕どうしたんですか?」 「修学旅行から帰ってきたら、急に倒れたのよ」 「…そうなんですか。よっぽど疲れていたんですね」  良一は苦笑いして見せた。  まもなく良一も退院して、湯川家にはいつもと変わらない日々が訪れていた。  妙子は相変わらず寝起きが悪く、良一は相変わらず家事に追われていた。  やっと家事労働の刑が終わると思ったが、抜け目の無い妙子は、あの日抱きついたことも数に入れられて、いまだに帰るに帰れない。  新しいことと言えば、母朋子が、にぎやかな食卓に着くようになり、良一の仕事も少し増えたけれど、しかしそれは良一にとっても嬉しい仕事だった。  母朋子は早く仕事に復帰したいとリハビリを始めた。  そんなある日、一匹の子猫が迷い込んできたのは、夏休みに入ってしばらくたった時のことだった。  おわり
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