1 あなたにとって大切なもの

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1 あなたにとって大切なもの

(一)私の一番大切なもの、朋子の場合    私の一番大切なもの。  何かな?  ミーコ、さっちゃん、夕焼け、お月様、草はら、大きな木、 「何しているの?」  あなたは、だーれ? 「新一だよ!」  どこから来たの? 「遠くの街だよ」  それなら、お疲れでしょう? 「少しだけ…、」  じゃーあ、ここにきて休んでいけばいいわ。 「ほんと、ありがとう。かわいい猫だね」  ミーコっていうの。子猫好き? 「もちろんだよ」  私も大好き! 「気持ちのいいところだね。緑がとても綺麗だ」  私も、ここ大好きなの 「毎日、ここにいるの?」  そうよ。毎日、毎日、お日様が上がって、お日様が沈んで、お月様が昇って、とても綺麗よ。 「わかる気がするよ。僕も一緒に見ていては、駄目かな?」  そんなことはないわ。一緒に見ましょう。 「優しいんだね」  ありがとう、お客さんが来るのは、珍しいのよ。  私も嬉しいわ。 (二)私の一番大切なもの、良一の父紘之の場合  私の一番大切なもの。  それは亜希子。お前だよ。  もちろん良一も大切な私たちの息子だ。  でも、一番と訊かれれば、私は迷わず亜希子と答えるよ。  君は、家にいることが好きで、料理をすることが好きで、「たまには外食でも行こうか」と言うと、君は 私に「何が食べたいの?」と訊く。  私は「懐石料理なんかどうだい」と答えると。それなら私が作ってあげるといって、せっせと仕度を始めてしまう。私は君に少しでも家事から離れて楽をさせてあげたいと思っていたんだよ。でも、何処で覚えたのか知らないけれど、君の作る料理は、どの店にも負けないくらい美味しかったよ。  庭じりが好きで、家の掃除が好きで、いつも綺麗に磨いていたね。  そうかと思うと、君は縁側に座って庭をぼーと眺めていたり…  あれはいつだったかな。君が庭でしゃがんでいるのを見かけて、気分でも悪いのかと心配して裸足で駆け寄ると、君は嬉しそうな顔をして「アリが虫を運んでいるのよ」と言ったね。君は幾つになるんだと口から出そうになってしまったけれど、私は君の笑顔に釣られて、そのまま君とぼーとアリの行列を見てしまっていたよ。  そんな君を私は助けられなかった。   (医学の研究者として、息子の父親として) 「江崎。本当に行くのか」  そう言って声を掛けてくれたのは、この大学病院の医局長、そして私の尊敬する大先輩の湯川だった。 「もちろんです。アメリカの最先端の技術で、あと一歩の所の遺伝子レベルの研究ができるというのですから。こんなチャンスを逃すわけにはいきません。今すぐにでも飛んで行きたいくらいですよ」  鉱之の声は喜びに興奮していた。 「お前さんはいいかもしれないが、良一君が慣れないアメリカで一人苦労をするんじゃないかと思って心配しているんだ。難しい年頃だからな。家にも良一君と同じ年の娘がいるが最近は会話らしい会話などした覚えがないよ。同じ子を持つ親として、ちょっと気にかかっているんだが…」  アメリカに送り出す張本人だからこそ、鉱之の家のこと、息子のことが気にかかっていた。 「良一は置いて行きます。多分、日本と同じで、ほとんど家には帰らないと思いますから、慣れないアメリカで一人よりも、今のまま日本で、一人で暮らす方がいいと思いまして。それに、今でも良一は一人で自活していますから、私が返って女房の代わりにして面倒を見てもらっているくらいですよ…」 (亜希子のいない家)  そうだったな。亜希子が死んで、お前は一週間も満足に食事もしないで塞込んだままだった。食事といっても出前の寿司や、コンビニの弁当くらいだったけれど…、私もとても食べる気分になれなかったよ。だから、おまえの気持ちは良くわかっていたよ。このまま何も食べずに死んでしまってもいいとすら思っていたくらいだ。でもあの時… 「お父さん、何やっているの?」 「ご飯を炊こうと思ってな…。コンビニの弁当ばかりだったから、飽いたというか、味がきついというか、何かさっぱりしたものが食べたくなった。白いご飯と味噌汁でも作ろうと思って…」 「お父さん作ったことあるの?」 「あるさ、ご飯ぐらい作れなくてどうする。一人前の男というものは衣食住なんでもできて始めて一人前だ」  とは言ったものの炊き方などすっかり忘れてしまっていた。  亜希子は電気炊飯器を使わずに、お釜とガスコンロで炊いていた。  だから、あんなに美味しいご飯が食べられていたのかと、今更ながらに感心してしまう。  でも、どうやってお釜とコンロでご飯を炊くんだ。お米と水と火にかけることくらいはわかっていたが、いざ作るとなるとお米と水の分量がわからない。確かお米の量より水の方が多いことは、なんとなく覚えていたが。 「それじゃ、水が多すぎるよ。それに水が汚いよ。お米、磨いだの?」  良一のお釜を覗き込む顔が一瞬大人に見えたよ。まだ小学校三年にしかならないおまえが… 「磨ぐってな、包丁を磨ぐんじゃないんだからな。二回三回濯げばいいんだよ」 「おいしいご飯が食べたかったら、お米のぬかは、しっかり落とさないとだめだよ。それじゃ黄色くなっちゃうよ」  お前は私からお釜を取り上げてご飯を炊いてくれたな。そして味噌汁も作ってくれた。亜希子と同じ味がしたよ。  それを切っかけにして、今に至るまでお前は亜希子が乗り移ったように毎日家事をせっせとこなして来たんだな。今でも時々亜希子がいるような錯覚に陥るよ。お前はいつも、あーちゃんを思って、あーちゃんの代わりに、この家を守ってきたんだな。 (君と同じ人と再婚…) 「誰か一緒に付いて行ってくれる人はいないのかね。この機会にどうかね。再婚は…」  再婚、医局長のこの言葉を聞くまで一度も考えたことはなかった。君以上の女性は多分見つからないだろうから。でも、本当に君そっくりの女性が現れたら、もしかすると、君と出会った、あの時と同じように一瞬で恋をしてしまうかもしれないけれど、私はまだ君と一緒に、この世界で生きているんだよ。 「再婚も考えなくはないですけど、今はそれどころではないですから。亜希子の敵をとらなければ、僕の気が治まりません!」 「それじゃ、また家で良一君を預かろうか。どうせ娘が二人いるんだ。一人増えても変わらんよ」 「本当ですか。それは本当に願ってもないことです。これで何の気兼ねなく研究に打ち込めます。必ず成果を出して帰ってきますから!」  でも、多分お前はあーちゃんとこの家からは離れられないだろうな。   (亜希子、不可解な人)  君と初めて会ったのも、この病院だったね。  僕は廊下を歩きながら書類を見ていて、君とぶつかったんだ。  まるでテレビドラマみたいな出会いだった。  君は大きく跳ね飛ばされて、しばらく立てないでいて、僕は大変なことをしてしまったと、焦ったよ。 「今、ストレッチャーを持ってきますから、そのまま、そのまま動かないでいてください」 「いえ、大丈夫ですから、転んだだけですから…」  君は、何とも言えない柔らかな微笑みを僕に向けて訴えていたね。 「あれ…、力が入らない。…、どうやって立ったらいいのか、忘れてしまいましたわ」、そう言って、君は笑っていたね。  僕はその時、君のその言葉としぐさで、恋に落ちてしまったのかもしれないよ。  でも違う、あの時かもしれない。 「ちょっと、手を貸してもらっていいですか…」、君は手を差し出したね。 「あ、すみません。気が付きませんで」  僕は慌てて駆け寄り伸ばされた君の手を取ったんだ。  まるで、小さな子供のような柔らかな手とぬくもりだったね。  こんな綺麗な人の手に触れて、僕は内心嬉しかったよ。  でも君はそれ以上のことを僕に要求したね。 「すみません、力が入らないので、抱きかかえてもらっていいですか」  僕は迷わず、君の背中に両手を回して抱き上げたんだね。  その時、君のふわふわした服の襟元から君のおっぱいが見えたんだ。  君はブラジャーを着けていなかったんだね。 「ありがとうございます。やっと立てましたわ…。私の方こそ、窓の外を見ながら歩いていたんですのよ。とても眺めがいいですから、…」  そう言って、何もなかったように、また歩いて行ったね。  やっぱり、この時だったかな…  二回目に会ったとき、この病院のロビーだったね。 「あ、よく合いますね…」  本当はあれから、また君がいないかと、病院中をぎょろぎょろ見回して歩いていたんだよ。 「先日は、すみませんでした」 「どうかされたんですか?」 「先週、この病院で、母が亡くなったんです。今日はその会計で来たんですの」  僕は言葉を失ったよ。 「…、それは残念でしたね」  やっと出た言葉だった。 「…、それ、会計伝票ですか?僕がやってきますよ」 「そんな、ご迷惑をお掛けしなくても、私、もう一日中、暇なんですのよ」  僕は君の手から伝票を受け取り事務室に走った。 「これ、先にやってくれないか?」 「先生、向井さんを知っているんですか?」 「え、君、彼女を知っているの?」 「ええ、昔、ここの看護婦だった人ですよ。ちょっと有名な美人さんでしょう。先生も目が早いですね」 「そんなつもりはないけど、幾つぐらいの人?」 「先生、それって、セクハラ…、」 「年を訊くのは悪いことかー?」 「さあ、どうだったか?でも先生より年上ですよ」 「君、僕の年、知っているのか?」 「先生、有名だから、みんな知っていますよ」 「あっそう、何でもかんでも有名だな。でもありがとう」  発展のない話のなか、伝票は出来上がった。  あまりにも透明でふわふわした感じで、お嬢様を思わせるような、変わった話し方。でもよく思い出して考えれば、落ち着いた口調と、丁寧すぎる話し方。それに母親の面倒を見るくらいだから、やっぱりかなりの年上だ。でも、こんなに胸が躍って引き付けられる。  僕は彼女に清算伝票を渡して、別れた。  決して、年上だからと言って、興味がなくなったわけでもないが、仕事が溜まっている。仕事のせいにしているのかと自問自答した。  三回目の出会いは、大学病院が運営している、歩いて五分くらいのビジネスホテルのラウンジだったね。このホテルは遠方から病院に来る人のためと、患者さんに付き添っている家族のため、そして僕のように帰りたくても帰れない職員のために建てられた。そしてここのラウンジのキッチンは高級店に劣らない美味しさだと評判だった。  僕は久しぶりに家に帰ろうと歩道を歩いていると、君がホテルのエントランスを歩いて入って行くのが見えた。まさかこんなところで、と思ったが、もしかして別人かと思い、僕は後を付けたんだ。  もう君はロビーにはいなくて、僕はあたりを見回したんだ。  やっぱり人違いかと思いつつ、入ったついでに噂のラウンジのキッチンで昼食を採ろうとして入ると、君は一人で窓際に座って、遠くを眺めていたね。着ている服は。やっぱりふわふわのワンピースだった。 「やーぁ、ご一緒してもいいですか?」  僕は話しながら、彼女の了承もなく、二人席の小さなテーブルの向かい側に座った。  彼女は、少し間をおいてから、 「…、先日は、ありがとうございました」 「前にも同じことを言ってましたね」 「そうでしたか?」  彼女は口元に手を当ててクスクスっと笑った。そして続けて、 「誰かと思いましたわ…、」 「え、僕ってそんなに印象薄いですかね?」 「いえ、そのおひげ、前はなかったじゃないですか」  そうだ、一週間ばかり研究室から出ていなかったことを思い出した。  それで不精ひげで、顔が覆われていたことを思い出した。 「すいません。忘れていました。さっき研究室から出てきたばかりなんですよ。今、細胞の培養してまして、毎日毎日観察で、目が離せなくって」 「大変ですねー」 「私、剃ってあげましょうか?私、上手に剃れるんですよ」 「ええ、知ってます。あの病院で看護婦をやられていたんですね」 「どうしてそれを、」 「この前の会計の時、事務の人が教えてくれたんです。向井さん。名前までは知りませんが…、」 「亜希子です。あなたは、?」 「江崎鉱之と言います」 「立派なお名前ですね」 「そうですか。硬そうな名前でしょう」  ちょうどその時、ランチが届いた。 「ここはナース時代から、よく利用していたんです。本当に美味しいですわね」 「僕もです。疲れたとき、ここで食事をすると元気が出てくるんです」  彼女はそう言って、一緒に注文したリンゴジュースを胸を張って飲み干した。その時、ワンピースの上から乳首が突き出ているのが見えた。  彼女、またブラジャーを着けてないんだ。乳首が気になるとその周りの乳房までも薄らと確認できてしまった。彼女は自分で透けてることを知らないのかもしれない。教えるべきか、それを言ったら、一変に嫌われるのではないかと戸惑った。でも、やっぱり、  僕は、口元に手をあてて、少し身をかがめて、少し身を乗り出して、彼女に近づいた。 「亜希子さん、乳首が透けて見えますよ」  彼女は、大きく笑って胸を押さえたものだから、ふわふわのワンピースをとおして、はっきりと乳房の形が現れた。  彼女はそのまま、笑ったまま、 「私、ブラ嫌いなんです。締め付けられるのが苦しくて、家では着けてないんですのよ。それでも改まって外に出るときは、ちゃんと着けて出るようにはしているんですけど…。今日は久しぶりのランチに気を取られてしまって、忘れてしまいましたわ…」  彼女は、そう言って、また思い出したようにくすくす笑った。  それから、さっきの僕の格好を真似するように、彼女はうつむき加減に身を乗り出し、手のひらを口元にあてた。  僕も大きく身を乗り出して、彼女のかざす手のひらの前に耳を寄せた。 「でも、パンツははいていますわよ…」  言い終わらないうちに、彼女はのけぞり口元に手をやって笑った。  僕はそれに答える言葉が見つからず、ただ一緒に笑うしかなかった。  最初に会ったときの印象は、物静かなお嬢様といった感じに見えた。  でも今は、こんなに笑う人だとは思わなかった。どこかのお嬢様学校の女子高生と話している気分だった。  僕が話に詰まっているのを察したのか、彼女は続けて話を進めた。 「さっきのおひげの話ではないですけど、私、陰毛が、ないんです」  僕は何の話なのか分からず、ただただ微笑んでいた。 「昔、剃毛の練習で、陰毛を剃ってみたの。それが気持ちよくって、気持ちよくって、それから少しでも伸びてくると、また練習と思って剃っちゃうの。そのうち癖になって、あれから今でも、つるつるになるまで剃っちゃうんですの。昨日の夜も、今日のお出かけのために、剃ってきたんですの」  彼女はまた、のけぞるように大きく笑った。  僕は、ようやく話の内容が見えてきた。彼女はパンツの話から、その中身の話までしているのだと。陰毛と具体的な名前を言ってしまうのは看護婦としての常なのか、ますます話についていけない。ただ笑うしかなかった。 「剃ってあげましょうか?そのおひげ…」 「あ、ああ、これくらいなら電気カミソリですぐだから」 「じゃー、陰毛は、電気カミソリだと剃れないでしょう」 「いいや、僕は、剃毛してもらうほど、どこも悪くないから…」 「残念…、私の腕前を見せてあげたかったのに」 「あ、ははは、じゃー今度、是非…」 「それなら、私の剃った跡見たくないですか。お腹から恥丘から股の間まで、つるつるなんですの。もともと毛が薄くて、肌が細かいでしょう。股の間なんか、こうやって、剃刀のお腹と肌をぴたりと合わせるんですのよ。決して刃を肌に当てないように、力を入れずにゆっくり剃るんですの」  と、下を向いたとき、自分が服を着てたのを思い出したように、一度動作を止めて、それからゆっくりと僕の方を見てにこりとした。 「剃刀の刃を当てなくても毛は剃れるんですか?」 「そうなの。剃刀のお腹で剃る感じで、剃るというより、剃刀のお腹で撫でる感じかしら。だから気持ちいいのね」 「それが、技なんですね」  僕は、股を広げて剃刀を持って悶えている彼女を想像してしまった。 「…、見たくありません」  彼女はもう一度言った。  おかしい、尋常ではない。普通の女子なら、会った三回目で、陰毛の話などするのだろうか、それとも僕を誘っているのか、  でも、ここで「また今度、」と言って逃げ出すのは簡単だ。  しかし幸運にも、一緒にランチが食べられるほど近づけたのに、ここで別れたら、今度いつ会えるかわからない。それに、ここで断れば、意気地のない男と思われて軽蔑されるかもしれない。そのことの方が僕にとって屈辱だ。 「勿論、見たいですよ。男なら誰でも…」 「それはよかったですわ。さあ、行きましょう」  そう言って、彼女は立ち上がった。 「今からですか?」 「見せてあげますわ…、」  予想以上の彼女の行動に、僕は中途した。 「私、三時まで、時間が空いていますの。ここで、外を眺めながら、ぼーっとしていようかと思っていたんですのよ。あなたは、これから御用事でも…、」 「いえ、ちょうど自宅に帰るところでした」 「じゃあ、一緒にいられますわね」  彼女は、座っている僕の方に来て手を差し伸べた。 「お部屋に連れて行ってくださらない」  そこまで言うのなら、僕は覚悟を決めて、立ち上がってから、彼女の差し出された手を取った。あの柔らかな手だった。  フロントまで行くと、今日は満室だと告げられた。ただ、ペントハウスだけが空いているという。このホテルの最上階、高級ホテルでいえばスイートルームということになるだろう。彼女は三時までと言っていた。他のホテルを探している暇はないだろう。 「ペントハウスでお願いします」  僕の一か月分の給料が一瞬で消えてしまう値段だ。  僕は鍵をもらって彼女とエレベーターに乗った。  最上階は、別世界だった。ガラス張りの入り口を入ると、屋上庭園が広がっていた。その中にサンルームを思わせるようなガラス張りの広いリビングがあり、まるで外にいる気分だった。そして大きなソファー、バーカウンターと備え付けられていて、その奥に四方壁で仕切られているベットルームがあった。 「まあー、きれいなお部屋…、」  彼女はそう言って、入るなり、すぐさま、体をくの字に曲げてワンピースをまくり上げて、裾の部分から頭を出して、そのまま服を床に落とした。その落とした手をパンツにかけて膝まで下ろし、またぐように、その場に脱ぎ捨てた。彼女は、たった二枚しか身に着けていなかった。 「ワンピース好きなんですね」  僕は、裸の彼女を前にして、さりげなくその話題を避けた。 「わかります。着るのも脱ぐのも簡単でいいじゃないですか、それに体を締め付けないし、夏なんか裾から風が上がってきたりすると、とても気持ちがいいんですのよ。私、パジャマもワンピースなんです。それで、寝るときはパンツもなしで寝ますの」 「そうなんですか、僕はまた何も着ないで、寝ているかと思いました」 「そんな、パジャマくらい着ますわー」  そう言って笑いながら、昨日剃った恥丘あたりを一度撫ぜて確かめると、ソファーに向かって腰を掛けた。 「こちらにいらして…、」  僕は言われるまま、彼女の前に立つと、彼女は両足を上げてソファーの上にのせて、股を広げた。 「見てみて、綺麗に剃れているでしょう 」  僕はその場にしゃがみこんで、股の間を覗いた。 「触ってみてもいいですわよ」  僕は、言われるまま、お腹あたりを撫でた。  彼女は、僕が触りにくそうにしているのをみると、ソファーの上でくるりと回って仰向けになって寝ころび、片足を床に落として股を少し広げた。  僕は膝まづいて、もい一度お腹から恥丘と撫でた。 「やっぱり、丁字型の剃刀で剃るんですか?」  僕はこみ上げてくる欲情を抑えるように、その話から離れた話題を選んだ。 「いいえ、市販で売っているような安全剃刀では切れ味が良すぎて駄目なんです。上手に刃を皮膚に当てないように剃っていても、角度によっては、どうしても皮膚まで削ってしまうんです。 だって、安全剃刀のお腹ってせまいじゃーあないですか。それにプラスチックですしね、気持ちよくないんですのよ。だから私の使うのは理容師が使うような剃刀ですの。砥石で肌を削らない、ちょうど良い角度をつけて研ぐんですのよ」  それだけ言うと、彼女は大きくあくびをした。 「それは難しそうですね」 「今、何時かしら…、」  彼女は手を口に当てて、もう一度あくびをした。 「1時半ですよ」  僕は壁掛け時計を見て言った。 「あら、もうそんな時間ですのね。どおりで眠くなってきましたわ。私、この時間、お昼寝するんです」  彼女は、僕を忘れたかのようにソファーから立ち上がり、裸のままベットルームに入って行った。  僕は急いで、クローゼットを開けて服を全部脱いでガウンをまとった。  そこでふと、クローゼットの鏡に映った自分の顔を見て驚いた。 「まるで、ひげだるま…、」  そういえば、まる五日、お風呂にも入らず、ひげすら剃っていなかった。  これでは彼女と一緒に寝るわけにはいかない。  慌てて、バスルームに入り、ひげを剃ってシャワーを浴びて、小奇麗になったところで、ベットルームに入った。  彼女は仰向けで、首まで薄い掛け布団をかけて、すやすやと寝ていた。  お昼寝の時間と言っていたのは、僕をベットに誘う言葉ではなく、本当にお昼寝だったんだね。  僕はベットルームのソファに座って、気持ちよさそうに眠っている君を眺めながら考えていたよ。  彼女は、本当に剃った後を見せたかっただけなのか、僕のことをどんなふうに思っているのか、それとも男と女を知らないのか、わからなくなってきた。  例え僕でなくても、誰でもホテルに行ってしまうような子なのか。それでいて、すぐに裸で寝てしまう子。まったくわからない。  そんなことを考えていると、疲れ切った僕の体も、いつしか眠り込んでしまっていた。 「大変、もうこんな時間!」  彼女の大きな声で、僕も目が覚めた。時計を見ると、もう三時を回っていた。 「すみません。僕も寝てしまって…、」 「いえ、とても楽しかったですわ。私、これから面接ですの。また、病院で働こうと思いまして」  彼女は、ベットから飛び起きると、慌てて服を着て、そのまま出て行ってしまった。  僕は面接が終われば、また戻ってきてくれるかと思って待っていたが、彼女は来なかった。ホテルで待っているよと、電話したくても電話番号さえ知らない。まだ出会って三回めだったからだ。  彼女にとって、僕は通りすがりのただの男だったのかもしれない。  そして、四回目の出会いは、病院で君の看護士姿を見たときだった。  僕は君を捕まえて迷わず告白したよ。それで一刻も早く結婚したかった。君を病院に置いておくには、余りにも危険すぎると思ったからだ。また知らない男とホテルで裸になっていないかと、僕は心配で心配で仕事が手につかなかったよ。 「あら、私でいいかしら…、」  君は、笑いながら言ったね。 「君のことが頭から離れなくて、仕事が手につかないんだ」  僕は悩める中学生のように、告白したんだ。 「あなた、運がいいですわ。私、ちょうど子犬でも飼おうかと思っていたんですのよ。お母さん死んじゃったし、一人の家が寂しかったから。でも昼間、お仕事でしょう。ちゃんと飼えるか心配でした」  君は、話している間も、まるで他人事のように笑いどうしだったね。僕は真面目に真剣に話していたのに。きっと僕の顔は緊張して引きつっていたと思うよ。 「そんな心配は要らないよ。君は家にいて、ずっと子犬の世話をしているといいよ。こう見えても僕の給料はそんなに安くないから」 「それなら、また病院を辞めないといけませんわね」  僕は、途中から告白してりるのか、子犬を飼う相談をしているのか、わからなくなったよ。それよりも、君は結婚という言葉を理解しているのか心配だった。  でも、それから間もなく、大安吉日。僕は子犬のように、君の家に転がり込んだ。  君は、広い庭付きの大きな家の持ち主で、そして由緒正しき向井家最後の頭首だったんだね。  それで、新婚生活も落ち着いたころ、僕は「子犬、飼おうか?」と訊くと、 「あら私、もう素敵な旦那様を飼っていますわ」  この時、僕は初めて少しは愛されていることを知ったよ。子犬の代わりに…  (三)私の一番大切なもの、良一の場合  僕の一番大切なもの。それは、あーちゃん。僕の母です。  なぜあーちゃんと呼んでいたかと言えば、もちろん、父がそう呼んでいたからで、それに母の言っていたことを付け加えれば、僕が最初に口にした言葉が、あーちゃんだったそうです。真意はわかりませんが、でも母はそう呼んでくれたことが嬉しくて、それからもあーちゃん。あーちゃんだよ。とか言って、僕に言い聞かせるように話しかけていたそうです。他人から見れば、おかしな事かも知れませんが、僕からしてみれば「お母さん」と呼ぶ方が、あーちゃんが別人になってしまうような気がして、「お母さん」の意味を理解した今でもそれを直す気にはなれなかった。  自分にとって本当に大切なものを守るためだったら命なんかいらない。でもそう言ったら、あーちゃんは怒るでしょうね。でも僕の生き甲斐はあーちゃんに喜んでもらうことだった。あーちゃんの嬉しそうな顔。笑っている顔。僕はそれを見ていると何でもできてしまう勇気が涌いてきた。あーちゃんがいなくなれば、僕は誰に喜んでもらえればいいんだ。誰に褒めてもらえればいいんだ。僕にとってそれが生き甲斐だったのに…。生き甲斐。その反対は死に甲斐。 僕はもう死んでしまっているのかも知れない。あーちゃん、僕はどうやって生きて行けばいいんだ。僕は蠍になれないよ。 (四)春の出来事  春の足音が聞こえてくるよ。  しっかり歩けと叱るように、  時には走れと追い立てるように、  春の足音がだんだん大きく響いてくるよ。  春の日差しは悪戯坊主、暖かかく心地よい日の光は、もう春だよと眠っていた草木や虫たちを起こして回り、草木や虫たちが、こっそり眠い目をこすりながら顔を出すと、いきなり冬の寒さで出迎える。  今日の夜は、まだ肌寒くコートなしではいられない。  桜のつぼみも寒そうにうな垂れている。  父と食事するのは何か月ぶりだろう。そう思いながら良一は、少し緊張気味に後ろに控えて歩いていた。 「うまいんだぞ。ここの寿司は…」  格子戸をくぐり、薄暗い石畳の小道をしばらく歩くと、格調高い和風作りの玄関にたどり着く。父親は勢いよく引き戸を引いた。そこには白木のカウンターと椅子、一息殺してしゃべるが、声の高い還暦を過ぎたような大柄の大将が、にこやかに迎えてくれた。  父親は常連なのか、他の席には目もくれず、大将がいる真ん前、カウンターの真ん中に堂々と座った。 「早くこっちに来て座れよ…」  良一はそう言われても、高級らしい寿司屋のカウンター席など座ったことなどなく、ファミリーレストランと違い近寄りがたいものがあった。それでも横に座り、手持ちぶささのように出されたおしぼりをとった。  普段の食事は良一一人、父親と一緒に食事をすることはめったになかった。  そして、珍しく早く帰って来たときには、こうして外食になる。  しかし、その外食も年に二度三度と数えられるほどしかない。 「玄さん、今日の一品は何かね?」 「牡蠣か、そうだね、ゲソなんかもいいね」 「じゃ、牡蠣とゲソもらおうかね。お前、生牡蠣食べられるか?」  注文してから、訊いたことに良一はむっときたが、生牡蠣と言う大人の食べ物に大人扱いされたような心地よい思いもあってか不機嫌に答えることはやめた。 「食べたことないよ」 「そうか。あーちゃんは好きだったぞ…」 「知らなかった」  良一は思いもかけなかったその言葉に、まだ幼いころのことを思い出した。 「あーちゃん好きだったの…?。言ってくれれば、食べさせてあげたのに…」 「おまえが食べられないと思ったんだろう」  父親は、前を向いたまま、無造作に言い放った。  母親が最初の退院から自宅療養になると、良一が食事から洗濯、掃除と母親があまり動けない代わりに良一が家事を手伝うようになっていた。  そうして手伝っているうちに、だんだんと料理も覚えて、一人でも作れるようになった。母親も具合が悪い中、良一が一人でも衣食住をまかなえる人間になるようにと根気よく、こと細かく教えていた。それが良一に与えられる最後の贈り物であり親子の絆だったのかもしれない。良一もそれに答えた。  もちろん食事においても、良一は早く元気になって欲しいという気持ちをこめて母親の好きな食べ物を選んで作るようにしていた。  しかし、その中に牡蠣は一度も出てこなかった。 「他に何が好きだった…?」 「寿司も大好きだったぞ…」 「そうだね。僕も好きだよ…」  それから胸が締め付けられて、言葉が出なくなった。  まもなく良一の世話の甲斐もなく母親は亡くなり、母親の遺産はしっかりと良一の中に刻まれ、自分ひとりの世話だけでなく、父親の面倒すら見られるほどの立派な中学三年生の主婦に成長していた。  沈黙が続き、ただひたすらに寿司を二人で食べている間に、良一は前にもこんな雰囲気の外食があったことを思い出した。  父親があえて値段の高そうな、それも高級と呼ばれる店を選ぶときは、決まって話しにくいことがあるときだった。  前回はいつだっただろう、やはり高級フランス料理の店だった。そこで聞かされた話は、母親があと半年も持たないと言うことと、温泉のある高原のホスピスに移るという話だった。  そして良一に、この街に残り学校に行くか、ホスピスに行き母親と一緒に過ごすかを選択させた。良一は迷わずホスピスに行くと言った。  父親は、無表情に首を立てに振っただけだった。  あの時に似ている。しかし、今の良一には怖いものがない。たとえ明日父親が死ぬと言われても、にこやかに、このとろけるようなトロの寿司を食べていられると良一は心の中で呟いていた。 (五)再会  春の風は悪戯坊主。  きれいに整えた髪を一吹きで蹴散らして通り過ぎていく。  時には、スカートをめくりあげて私を慌てさせる。  満開の桜の花も花吹雪となって散っていく。  花の盛りは短いと教えているように…  人の盛りもまた同じと…。  そんな春の嵐の中、良一も新学期を迎えた。  周りの生徒は、さっそく新しい仲間作りを始めているが、友達といえるほどの友達がいない良一にとって、どんなクラスの面々でも我関せずとさっそく配られた真新しい教科書に目を通していた。人と混ざることを嫌い。いつも一人孤立して遠くを眺めている。それが良一だった。 「よ!良一また同じクラスだな!」 「…、」  そう言って、良一の肩を叩いてやってきたのが、藤井達也。極めて明るくひょうきんなうえ、人当たりも良く、人の面倒見もいい。どちらかというと良一とは正反対の性格の持ち主であるが、その面倒見が良い性格からか、すぐに周囲から孤立してしまう良一をいつも気遣っていた。  友達と呼べるかどうかはわからないが、唯一良一と会話する人物だ。 「どうだい!このクラスは…?」 「べつに…」 「相変わらずだな。俺は嬉しいぜ!また幸恵ちゃんと一緒のクラスになれた」  小声で話す嬉しそうな達也をよそに、眉ひとつ動かさずにひたすら教科書を見ていたが、平静を装っている良一でも、達也と同じようにこのクラスの中に懐かしい顔を見つけたことで少し驚きと戸惑い焦り、そんな感情が沸き立ち、何くわぬ顔で意識しないようにつくろうことに懸命だった。  その時、良一の上着の袖をいきなり掴んで、 「ちょっと借りるわよ!」  慌てたのは良一だった。机に体をぶつけながら、驚きに引きつった顔を戻す暇もなく妙子に引きずられて廊下に出て行った。湯川妙子、その懐かしい顔の持ち主だ。 「江崎君ちょっと話があるんだけど、今日はこれで終わりでしょう。ホームルームが終わったら第一音楽室まで来てくれる。みんなに変に思われたくないから、私が先に教室を出るから、江崎君は10分くらい後から来るのよ。もちろん一人でね!」  そう言って良一の返事も聞かずに妙子は立ち去っていった。  実は、良一には妙子の話の内容はわかっていた。  そしてその返事も良一はすでに決めていた。しかし、なぜか声が出せなかった。それは、もう一度妙子と話をしたいという気持ちが、良一の心のどこかにあったのかも知れない。 (化石になった話…)  妙子の話というのは昨日の夜、突然父親から聞かされた 良一を下宿させると言うことだった。 「ちょっと待ってよ!そんなこと出来るわけないじゃない。こんな可愛いい年頃の娘のいる家に、赤の他人の男を一つ屋根の下に住まわせるなんて、オオカミさん食べてっていっているようなものじゃない」  妙子は、頭から猛反対で父親に喰ってかかった。 「良一君も遠慮したいと言っているそうだ」  父親は、浮かない顔で食卓の湯飲みを取った。 「それはおめでとう。良かったじゃない」  妙子も椅子に座りなおして紅茶の入ったカップを手に取った。 「しかしだな。良一君は、お父さんと二人暮らしなんだ。そのお父さんがボストンに行ってしまった今、ボストンでの仕事が一年になるか二年になるかわからないのに、このまま放って置くわけにはいかないと、お父さんは思っているんだが。紗恵子はどうだ?」  紗恵子とは、妙子の年の離れた姉であり、現在研修医として父親と同じ病院で働いていた。 「私はかまわないけど、妙子がいやなら仕方ないわね。望まれないところにいても良一君がかわいそうなだけだから…」 「そうだな。ともかく、下宿の話を含めて一緒に食事でもしたいのだが急な話で申し訳ないが、明日の晩なら私も早く帰ってこられるから、良一君に話しておいてもらえないかな?」 「下宿は絶対反対だからね。ご飯くらいなら付合ってあげてもいいわ。その代わり御寿司よ!特上寿司よ!」 「それで手を打とう。じゃあ、妙子から良一君に話しておいてくれ!」  父親は話がついたところで、湯飲みを持って立ち上がった。 「いやよ!そんなのお姉ちゃんが電話すればいいじゃない」  紗恵子は食事の後片付けをしながら、呆れ顔で、妙子の頭を小突いた。 「あなたね。同じ学校でしょう!」 「話したことないもの!」 「昔は、お嫁さんになるって言ってたのに!」 「あのね!そんな化石になったようなこと、持ち出さないでよね!」 「まあ、いいわ。とりあえず電話しておくから。でも、妙子からも気持ちよく誘ってあげるのよ。彼も遠慮して来にくいと思うから」 「考えておくわ…」  この時はまだ同じクラスになるとは夢にも思っていなかった。   (遠い昔の顔と今の顔)  良一が音楽室まで来るとピアノの響きが耳に心地よく届いてきた。  良一は、少し戸惑いながら静かに音を立てないようにドアを開け部屋に入った。  妙子は、そのままピアノを弾き続けていた。  良一は妙子の横まで近づき、演奏が終わるのを身動きせず待っていた。湯川妙子、まじかで見るのは10年ぶりのことだった。  セーラー服がとてもよく似合っていて新鮮だ。思っていたよりも大きく、胸も突き出ていた。もちろん幼児期に比べてのことだが、それにこんなに可愛かったのかと昔の記憶を思わず調べ直していた。  良一は昔のように抱きしめたらどんな感じかなと想像した。その想像した延長線上に良からぬ思いも続いてきて、よけいに興奮した。  突然、音楽がやんで、いきなり妙子が話し出した。 「お父さんから聞いたわ。家に下宿するのがいやなんだって…?」  妙子は、いかにも良一の下宿に賛成しているかのように話しかけた。 「いやというわけでもないけど…。今の生活を変えたくないんだ」 「今の生活ってなに…?」 「なにって聞かれても困るけど…。今まで、一人で気楽にやっていたから…。実は、他の人とうまく一緒に生活できないと思うんだ」 「どうして…?」 「さー、わからないけど…。今まで、経験ないから」 「うそ、小さいころ私の家にいたじゃない…」 「小さいときは良かったけど…。今は大きいし、一人が慣れちゃったから…、湯川さんは、なんとも思わないの…?」  良一は何か叱られているような気分になり、うな垂れて床を見つめながら、刑事に攻め立てられる犯罪者のように畏縮して、時より声を震わせながら、途切れ途切れに蚊の鳴くような小さい声で話した。 「そうね。少し恥ずかしい気がするわ。クラスのみんなに知れたら大変ね」  それとは正反対に妙子は活発明瞭に音楽室に響くような声だった。 「だろー、お互い変な気を使わなければならないよ。それだったら、今のままの方がいいよ」 「問題はそれだけ…?」 「それだけって…?」 「それだけなのね。もっと深刻な問題があるかと思っていたわ。例えば私のことが嫌いとか、お父さんをアメリカにやったから怒っているとか」 「そんなのぜんぜんないよ。気を使ってくれていることには感謝しています。でも、湯川さんの家には行けない」 「そう、どうするかはあなたの好きにすればいいわ。とりあえず今日、私の家で食事しながら今後のことを考えましょうって、お父さんに頼まれたの。七時ごろ私の家に来てよね。話はそれだけ…」  妙子は立ち上がり、ピアノのふたを閉めた。 「ありがとう。でもいけないよ。僕は大丈夫だから心配しないようにとお父さんにも伝えてください」  良一は、最後は改まった言い方で、声を大きく出して再び断った。 「こないつもりなの?…ちょっとまってよ!」  良一は妙子の話を振り切るように音楽室を出て行った。いつまでも妙子と話していると、あの迫力とあの話術で、いつの間にか言いくるめられそうな気がして…。   (お寿司と良一のテスト)  夕方、妙子の家では、お寿司も届き、父親と良一の来るのを待っていた。 「お姉ちゃん。良一は来られないって、言ってたよ」  妙子は、テーブルに並べられた特上寿司を眺めながら、椅子に座った。 「そうね。電話したけど、もう食事の仕度をしたからって、丁寧にキョゼツされちゃった」 「こんな美人二人のお誘いを袖に振るとは、ちょっと悔しいわね」  妙子が待ちきれない様子でお寿司の桶に入っているガリをつまんで食べた。 「そうね。思春期だから、難しいわね。もしかして、好きな女の子がいて妙子と一緒にいるところを見られて嫌われたら困るとか…」 「それはないと思うけど…。あまり好かれるタイプではないから」 「どちらにしても無理尻は禁物ね」  紗恵子は、漬物の入った小鉢を並べながら、精一杯良一の気持ちを考えていた。 「それじゃあ、このあまったお寿司、みんなで分けて食べてもいいよね」 「妙子、良一君の家まで持って行ってあげたら?そんなに遠くないんだから」 「え~~、めんどくさい!それに食事の仕度は済んでいるんでしょう。かえって迷惑よ…」 「妙子、少しは自分の事だけじゃなく、他人への思い遣りの心も持ちなさいよ。良一君がどんな気持ちで、そんなことを言ったのか、もしかしたら広いテーブルに一人ぽつんと座って、誰と話をすることもなく、俯いて箸を運んでいるのかも知れないのよ…」 「彼はそういうのが好きなんでしょう?でも、それってお節介っていうんじゃないの。特に今の子は、そういうのを一番嫌うのよ。私なんかが持って行ったら、頼みもしないのに、こんなもの喰えるか!出て行け!って怒鳴られるわよ。特に男は見栄っ張りで意地っ張りで、縦にも横にもならないんだからって、よくお姉ちゃんが言っていることじゃない」 「そうよ!そういう出来そこないの男も一杯いるけど、良一君は違うと思うわ。本当の男というものは、相手の気持ちに応えて自分を犠牲に出来る人よ。それが例えばお節介で自分の意に反していても、相手の気持ちに応えて喜んで迎えてくれる人」  妙子はのけぞって、大笑いして答えた。 「いない、いない、今どきの男は自分のことしか考えないし、目立つことしかしないわよ。そうでなければこの世の中、出世しないし、正直者が馬鹿を見る時代だから。お姉ちゃん、そんな男を待っていたら一生結婚できないから。もしいるとしたら見かけだけの詐欺師よ」  妙子は待ちきれないように、小鉢からこなすの漬物を一つ摘んで食べた。 「言ってくれるわね。わかったわ!いいわよ!じゃあこうしましょう。もし、良一君が思い遣りのもてないバカ男だったら、下宿なんてこちらからお断りよ。でも、ちゃんとこちらの気持ちに応えてくれたら、無理やりにでも下宿させましょう。そんな希少価値のある男、めったにいないから、今からしっかり首輪を付けて逃げないように確保しておかないとね」  紗恵子は食器棚の引き出しから風呂敷を取り出し桶を包みだした。 「なにそれ、でもどうやって見分けるのよ?」 「だから、妙子がこのお寿司を良一君の所に持って行って、良一君が素直に食べたら合格としましょう」 「それだけで、わかるわけないじゃない!」 「当たり前でしょう。とりあえずは合格ということで、後は下宿させながら観察するのよ。だから、お寿司もって行きなさい。これはテストなんだから…」  紗恵子は包んだ桶を妙子の前に突き出した。 「え~~、結局私が持って行くんじゃない」  妙子はもう一つ小茄子を口の中に放り込むと、その場から逃げるように居間のソファーに寝転んだ。 「なに言ってんのよ。あなたのためでしょう!」 「だから、私は関係ないって…」妙子は寝ながら叫んだ。 「そうね。妙子では役不足かもしれないけど、ひょうたんからコマということもあるから…」  紗恵子はもう一度妙子の前に桶を突き出した。 「なに考えているのよ!」  妙子はむくむくっと起き上がった。 「いいからいいから、早く行ってきなさいよ。お父さん帰ってくるわよ」  妙子は、それでもぶつぶつ言いながら、風呂敷に包まれた特上寿司の桶を一つ持って家を出た。 (良一の家)  昼間の嵐のような風は収まったが、春の夕暮れは少し肌寒く庭木の花も凍えているように見えた。  良一の家に行くのは、良一の母の葬儀以来だった。あの時の良一の泣き顔が妙子の脳裏に焼きついていた。あれから、良一は帰りの当てにならない父親を一人でずっと待っていたのかと思うと、たまらず胸の中が熱くなるのを感じていた。  しかし、それとは別に良一の家に近づくに連れて、胸が変に苦しく、ドキドキと打っているのを抑えられずにいた。 「なんか、緊張するわね」  自分で自分に話しかけても気持ちは落ち着かず、さらに胸の高鳴りは容赦なく襲ってきた。 「もう、何で私がこんな思いをしなければならないのよ。みんな良一のせいよ。始めから家に来ていればよかったのに…」  そう思うとだんだん腹が立ってくる妙子だった。  そして良一の家まで来ると胸の鼓動はぴたりと止み、妙子は玄関脇のチャイムを押した。  しばらくしてドアのガラスに人影が映り、良一は言葉なくおもむろに玄関を開けた。 「あなたが来ないから、私がわざわざあなたの分のお寿司を持って来たのよ!」  妙子は、いきなり良一を怒鳴りつけた。 「ごめん…。そんなつもりはなかったけど。ごめん…」  良一は妙子の勢いに、俯きかげんで答えた。 「もう、いいわよ。それより、これお寿司…」  差し出したお寿司を見て良一は再び戸惑っていた。 「これどうするのよ。いるの、いらないの…?」 「あ、うん…」  それでも、良一はただ立ち尽くして煮え切らない様子だった。  しかし、妙子がずっと桶を差し出しているのを見て、良一は慌てて桶を掴んだ。 「ありがとう…!」  そして、また良一は受け取ったまま妙子をじっと見つめて立ち尽くすだけだった。 「…、ご飯食べたの?」  間延びした沈黙に耐え切れずに妙子が儀礼的に話を始めた。」 「…、いやまだだけど」 「それなら良かったじゃない。お寿司、間に合って」 「…、うん。だから、どうしようかと思って…」 「なにを…?」 「湯川さんの家に行かなければいけないかなと思って…。迎えに来たのかと思った…」 「いいわよ。来たくなかったら無理しなくて…」 「いや、そういうことじゃないけど…」 「はっきりしないのね。それよりあたし、いつまでこうしているの?」 「え、…。あ、ごめん。上がっていく…?」 「いいわよ。あなたの彼女に見られるとまずいでしょう!」 「彼女なんていないよ。何もないけど上がって待っててよ。今、桶あけるから…」 「それなら、ちょっとお邪魔しようかな…」  妙子は、さっきの胸の高鳴りは何だったのだろうと思わせるほど不思議と良一の前だと心が落ち着いて、まるで家族と向かい合っているように話せた。そのせいか、きつい言葉や偉そうな言い方が次々に出てくるのを止めようとしても止まらず、反抗期なのか習慣の恐ろしさなのか、我が身を恨んだ。 「これは凄いね。こんなに綺麗に片付いているとは思わなかったわ」 「あなた一人なんでしょう…?」 「そうだけど、一人だからいいんじゃないかな。汚す人がいないから…、」 「それだけじゃあこんなに綺麗に磨き上げられないわよ。よくやるわね」 「そんな、普通だよ」 「悪かったわね。私はやらないわよ」 「いや、そう言った意味じゃなくて、本当は掃除するのが好きなんだ」 「うそ、変わっているわね。なんで…綺麗好き?」 「そう言うわけでもないけど、暇つぶしになるし、それで家が綺麗になれば一石二鳥だし、嬉しいじゃない。むしゃくしゃしていても、家を掃除していると忘れられるんだ」 「やっぱり変わっているわね」  妙子は、良一の後について台所に上がった。そこには紗恵子が言っていたように大きな食卓が真ん中に据えられていて、一人暮らしの良一にとっては寂しすぎる光景だと思った。  良一は桶をテーブルにおいて、風呂敷の結び目を解いて驚きの声を上げた。 「これは凄いお寿司だね。そうだ、湯川さんも一緒に食べていくかい?」  そう言うと良一は、キッチンの中に入りお茶を用意した。 「私はいいわよ。家に帰ればあるから…」  妙子はひとまず遠慮しながら椅子に腰掛けた。  家にいた時から、お腹が空いていて、早くお寿司を食べたいと思っていたのは事実だった。  良一は、妙子の前にお茶と割り箸を置くと、またキチンの中に入っていった。しばらくすると、お味噌汁も出てきた。 「たまごとアナゴとえび食べていいから」 「まだ、覚えていたのね。私の好きなもの…」 「…、うん。…、食べてよ」 「あなたから食べてよ」 「じゃあ、遠慮なく…」  良一は鉄火巻きを一つ取った。妙子もたまごを取った。  いつもは静かで、寂しい食卓が女の子一人いるおかげで、花が咲いたような明るさと、街中の雑踏のような賑わいが現れたような気がした。 「いつもは一人なんでしょう。寂しくない?」 「…。仕方ないし、慣れたよ。かえってお父さんがいるときの方が、仕事が増えるから、いない方がいいと思っていたよ…。いなくなってちょうどいい」  妙子は自分自身につまらない質問をしてしまったと後悔しながら、この場の雰囲気を変える言葉を捜していた。 「…なんか、私たち新婚さんみたいね」  よりにもよて、なんて話をしてしまったのかと再び後悔。 「…そうだね。昔、おままごとでやったね」 「もう、昔の話はやめましょう。早くお寿司食べましょう…」  妙子は慌てて話を変えようとした。このまま話が進めば、一緒にお風呂に入っていた話も出てくるし、一緒の部屋で布団を並べて寝ていたことも出てきそうだし、キスしたことも出てきたら本人を目の前にして、顔から火が出そうなくらい恥ずかしくて、ここには入られないと思っていた。 「このお味噌汁美味しいね。インスタント?」 「いや、僕が作ったけど…」 「へーえ、凄い!お料理も上手なのね。他になにが作れるの?」 「…、何でも出来るよ。普通のものはね」 「じゃあ、お嫁さんなんかいらないわね」 「…、そうだね」  その話で、また沈黙が続いてしまった。 「なにやってたの?」 「…受験の問題集」 「偉いわね。…本当はスケベゲームかなんかやってたんじゃないの?」  にぎやかしにからかうつもりが、また詰らない話になって妙子は後悔と共に顔を赤らめて俯いた。 「湯川さんは、ゲームやるの?」 「友達のところで少しやったことあるけど、家にゲーム機ないのよ。私はゲームより、ピアノだから…」 「僕の家にもないんだ…」 「うそ、どうして…?」 「他にやることがあるから、問題集の問題を解いている方が楽しいし…」 「お掃除もしなければならないしね」 「そうだね」  また、話が途切れてしまった。 「テレビ付けてないのね」 「テレビ見る?」 「いえ、そうじゃないけど、静かだから…」 「いつもは付けているけどね。今日はたまたま付けてないだけ。でも、どちらかというと静かなほうが好きだから。でも、湯川さんがうるさいということじゃないよ」  また怒鳴られると思い、すばやく付け加えた。 「私は静かなのはいやだな。特に学校から帰ったときとか、家に誰もいなくてシーンとしているでしょう。もしかして誰かいるかと思って声をかけるじゃない。でも、返事がないの。私一人。この寂しさは我慢できないわ。多分、どんなにいい男に振られても、しょせん他人だから最初からいなかったと思えば我慢できる。でも、一人の家はいや。江崎君はいつもそんな思いをしているのね」  妙子は、いつもと違う自分に気づいた。普段は決して口にしない自分の内面のことだった。 「そうだね。その気持ちわかるよ…。昔、学校から帰るとき、暗くて誰もいない家の中を想像したら、怖いのと寂しいのとで、帰りたくなくなっちゃって、街の知らない道を探検して、ぐるぐるぐるぐる歩き回ったことがあったよ。それで知らない公園なんかに出くわして、ブランコに乗ったりして、小さい子供が遊んでいたりして、お母さんが遠くから見ていて、それを見ているだけでもなんか寂しさはまぎれたよ…」  良一も不思議と妙子の前だと、心の奥にしまい込んだ誰にも話したことのない辛い思い出を話している自分に驚いていた。 「なんか変ね。今まで江崎君の事なんか気にも止めなかったのに、嫌いってことじゃないわよ。私も小さかったし、あれからほとんど君も家に来なかったし、そういうものかなって感じていたけど、今こうして話していると全然かわってないのね」  妙子も、なぜ良一にはこんなに自然に話せるのか、その理由に気が付いた。その理由が妙子のもっとも思い出したくない出来事であり、そう思えば思うほど、思い出して懐かしんでいた、もう一人の自分がいたことを…。 「…そんなことないよ。ずいぶん変わったよ。早く大人になりたかったから…」  良一は、少し投げやりな口調で恥ずかしさを隠すように言いながら、遠くを見るようにお寿司を口に運んだ。  妙子には、それが亡くなった母のことだと、すぐにわかった。そして良一の寂しさも…。  「…私の家に来なさいよ」  またしても、意に反したことを口走ってしまった。  妙子の心のどこかで、小さい時の妙子が、またあの時の楽しい日々に帰りたいとせがんでいるように思えた。もう、子供ではないから一緒にお風呂に入ることも、一緒の布団で寝ることもできないのに…。 「でも、僕は大丈夫。今まで一人でやってきたから」  良一はにこやかに答えた。でも、そのにこやかさが妙子には、よけいに寂しいと言っているように見えた。 「意地になっているんでしょう。どうして僕だけこんな苦労をしなければならないのかとか、世間のみんなは面白おかしく、据え膳上げ膳で暮らしているのにって。それなら僕は、うんと不幸になって寂しい人間になってやるって…」 「そんなんじゃないよ!」  図星だった。どうして僕だけが…。僕は幸せにはならない。人を頼りにしない。一生日陰の中で一人寂しく暮らしていくんだ。  良一のいつも思っていることだった。また、そう心に硬く誓わなければ、耐え切れないほど、本当は寂しかったことは言うまでもない。 「私は思っているの…。どうして、私だけこんな辛い目に合うんだろうって。みんなと同じように何の苦労もなく平穏に暮らしたいって。昔みたいに幸せに暮らせたら、後は何にもいらない。普通の幸せでいいからお母さんがよくなってくれないかなって…」  見つめるその目は、良一をじっと睨んでいた。しかし、涙は出ていなかった。 「お母さん、退院したって聞いていたけど、まだ悪いの?」 「私の家に来ればわかるわ。お母さん、悪魔に魔法をかけられてしまって、眠れる森の美女になったの。王子様が熱いキスをしないと目を覚まさない…」  良一は返す言葉もなく、また沈黙が続いた 「でも、私はあなたよりも幸せだけどね。お父さんも、時々は帰ってこない日もあるけど、とりあえずは家にいるし、お姉ちゃんもいるから、私は寂しくなかった…。あなたが世の中をやっかんで、すねても不思議ではないと思うわ…」 「そんなこと思ってないよ…」  良一は妙子に心の中を見透かされているようで、ただただ、たじろぐだけだった。 「じゃあ、楽しいことしなさいよ。幸せな顔しなさいよ。何か知らないけど意地張っているみたいで、一人で暮らしているよりも、私の家に来た方が楽しいに決まっているじゃない!」 「そんなんじゃないよ。ただ迷惑をかけたくなかっただけだよ。他人の僕が、幸せな家族の中に入れば壊れるに決まっているし、辛い思いをするのは僕だけでいいから」 「私の家は大丈夫。幸せな家ではないから。迷惑かけてよ。私たちまだ子供なんだからいいじゃない…」  良一は返す言葉がなかった。  妙子も、何で自分の意に反したことを真剣に語らなければならないのかと、成り行きの怖さを思い知らされていた。それともやはり妙子の心の奥の声がそうさせているのではないかと思っていた。 「変わらないね…」今度は良一がぽつりと言った。 「何が?」妙子は怪訝な顔で良一を覗き込んだ。 「言いたいことはわかっているわよ。よくしゃべるやつだと思っているんでしょう!」  そのお喋りを止めようと甘えびのお寿司を口に入れた。 「違うよ。そうじゃないよ。昔と変わらないなっと思って」  そうだね。昔と変わらない。  僕は君の背中ばかりを追っかけていたよ。  鬼ごっこの鬼は、僕なのかな。君なのかな。  捕まえたら勝ちなのかな。  そんなに早く行かないでよ。  僕はそんなに早く走れないから…。  幸せの足音が聴こえてくる。  昨日まいた種が、今日は春の日差しを受けて芽吹くように、  君はお日様のように眩しいよ…。 (六)思い出したくないもの  妙子は家に帰ると桶を紗恵子に渡した。 「どうやら合格のようね。ちゃんと桶まで洗ってあるわ」  紗恵子は得意そうに妙子に言った。 「でも、自己犠牲というよりも優柔不断と言った方がいいかもよ」 「それも十分考えられるけど。後は観察しだいね」 「ご苦労さん。良一君は元気でやっていたかい?」  もうすでに帰ってきていた父親が待ちくたびれたようにテーブルについて新聞を広げていた。 「元気だったわよ。心配は要らないって…」  妙子は椅子に腰掛けるなり、たまごのお寿司を口にほうばった。 「下宿はしないにしろ、たまには様子を見に行ってやってくれ」 「大丈夫よ。彼とは同じクラスになったから、生きているか死んでいるかは毎日わかるわ」 「それじゃ、良一君もますます下宿できないわね」  紗恵子が、妙子の分のお茶とお吸い物を持って席に着いた。  妙子は思い出したように… 「そういえば、小さい時にも良一君とこの家で生活していたわよね。あれってやっぱり、お母さんが入院していたから?」  その質問には父親が答えた。 「そうだよ。良一君を預かるのはこれが初めてではないから、簡単に引き受けてしまったけど…。あのころは一番おまえが喜んでいたのだがね。やはり昔と同じようにはいかないな…」 「当たり前でしょう!」妙子はきっぱりと言い放った。  それを見て紗恵子は、あの頃とはあまりにも違う妙子の言動に成長していく妹の変化に寂しさを感じていた。あの頃は紗恵子でさえ、嫉妬したくなるくらいの仲の良い二人だったのに…。 「でも私、初めて良一君が来た日のことをなんとなく覚えているけど、多分お母さんのことが気になっていたんでしょうね。家に来ても一言も喋らずに、俯いていて悲しそうな目をしていた。私なんかかわいそうで声も掛けられなかったけど、妙子は元気におチンチン見せてってせがんで家中を走り回って彼を追いかけていたわね」 「ちょっと、私そんなこと言わないわよ!」  でも、妙子はそのことをしっかりと覚えていた。 「良一君が下宿したくない理由は、もしかしたら妙子にまたおチンチン見せてって言われるのが怖いからかもしれないわね」 「そんなバカなことあるわけないでしょ!」  妙子は向きになって言い返した。 「でも、あれでよかったのよね。まるで、お姫様と下僕の関係だったけど、彼も寂しがる暇がなかったと思うわ。妙子のお相手で…」  紗恵子の話に釣られながら、少し妙子をかばうように父親も口を開いた。 「でも、妙子は良一君のお嫁さんになるって言ってたぞ。キスまでしていたのだから本気だったんじゃないのかな?」 「そんな小さい頃の罪のない話は、やめましょう」  妙子にもしっかりとした自覚があったから、尚のこと顔を赤らめて話題を変えようと懸命になった。  しかし、紗恵子は留めに…。 「お嫁さんになるって言っても、何でも言うことを聞いてくれる妙子の大きなお人形さんのようなものなんだから、私だって欲しいわよ。そんな彼がいたら…」 「もーお、私、そんなにひどくないわよ!」 「でも私、二人があまりにも仲が良かったから、うらやましかったわ。私も良一君を独り占めしたかったな」 「今度来たら、一番にお姉ちゃんにあげるわよ!」  妙子は、腹いせにやけ食いとばかりに次々とお寿司を口に運んだ。 「でもいいじゃないか。良一君も楽しそうだったから」  父親がすかさずホローした。 「そうよね。それからというもの、ずいぶん明るくなったから…。妙子のおかげね」 「じゃ、私が一番偉いじゃないの」 「そうよ。だから、今回も少しは良一君の気持ちを考えたら…?」 「だから、それは絶対に出来ないって。出来るわけないよ。子供じゃないんだから…」  妙子の中でも揺れていた。最初に男を下宿させる話を聞いたときには、ただただとんでもないことのように思えていたことが、今は良一と会い、良一と話し、昔と変わらない良一がいて、妙子の中の小さい妙子がまた良一と一緒に遊びたいといっている。十年の時間を越えて無邪気に呼び合う良一と妙子の声が家のあちらこちらから聞こえてくるようだった。  その夜遅く、まだ紗恵子の部屋に明かりがあるのを見て妙子がドアをノックした。 「もしもよ。もし良一を下宿させるとしたら、どの部屋で寝起きさせるのよ?」  パジャマ姿でパソコンの前にいた紗恵子が、振り向かずそのままの姿勢で話しに応えた。 「そうね。いくらなんでも小さい時のように妙子の部屋ではまずいでしょうね…」 「あ、当たり前でしょう」 「それなら、私がもらおうかしら…?」 「なに考えているのよ!」 「夜、寂しすぎて…、良一君のような男の子が側にいて欲しいわ…」 「もしもし、まじめに訊いているんですけど…」 「…。あと空いている部屋といえば、お父さんの書斎か納戸ね。多分書斎がいいわね。椅子と机はあるから、あとはお父さんの本を片付ければ済むからね。それとも、お父さんと一緒に下の和室で寝てもらおうか。どうせ家にいないときの方が多いから。でもお父さんと一緒だったら、良一君が落ち着かないかもね。彼もやりたいことはあるだろうし…」 「何をやるのよ…」 「その気になったの…?」 「なんの気よ!」  妙子は、ドアをバタンと閉めて自分の部屋に戻っていった。 (七)謎の少年良一  校庭の桜の花も散って、葉だけが目立つようになったころ、良一の様子は相変わらず机から離れず、友達と話す姿を目にすることはなかった。  それでも、達也だけが時々良一の席までやってきて一人で騒いで帰っていった。  妙子は、わざと無視しながらも、他の生徒とは違う人間離れした存在の良一に歯がゆさと、口惜しさがむらむらと沸いてきて、要らぬお節介で口出ししてしまう悪い虫が妙子の胸の中を生えずり回っていた。  そんな妙子にも新しい仲間が出来て、夜ごと日ごと集まってきていた。  そこで妙子は両隣にいた幸恵と聡子の肩を抱いて小さく身をかがめて小声で話し出した。 「ねえ、ちょっと聞きたいんだけど、江崎君ってどんな子なの?誰か一緒のクラスになった人いない?」 「えーえ。妙子…。あんなタイプの子が好みなの?」  妙子の正面にいた理恵子が同じように小声で身をかがめながら迫ってきた。その光景はスポーツでいう円陣だ。 「ま、まっさか?でも、何か変じゃない!机から離れないし、話もしないから…」  妙子はわざと興味本位、推理探偵になったように、みんなの話題に乗せた。 「私、小3の時同じクラスだったわよ。不登校で二学期ごろから教室に出てくるようになったけど、今と変わらないわよ。みんなにいじめられていたんじゃないかしら?」そう言ったのは理恵子だった。 「はっきりいって、いじめられるタイプだし、いてもいなくてもいいって感じ」聡子が小さい声をさらに小さくして言った。 「そんなに変な子じゃないわよ。私、去年まで一緒のクラスだったし一緒の班でやっていたから、本当は凄くやさしい子で、よく気がつくし、頭もいいよ」  学級委員で、良一と同じ班で席も隣の幸恵が言った。 「あれ、幸恵も隠れファンって感じ?」 「そうじゃないけど、見た目ほど変な人ではないってこと。妙子の知り合いじゃないの?」 「ち、違うわよ。全然知らない人!だから訊いているんじゃない!」 「でも始業式の後、廊下で話していたから…」 「え!本当!」  円陣を組んでいた女子は、思わず大きな声を上げてのけぞった。 「あ、あは、幸恵ちゃん目ざとい…。そんなとこまで見てたの。もしかして本当に江崎君が好きだとか?」  妙子は慌てて話を幸恵の恋愛に摩り替えようとした。 「そうじゃないけど、江崎君に話しかける人なんて珍しいもの…」 「でも、幸恵ちゃんは達也君よね?」小夜子が冷やかした。 「あ、ごめん。私、お笑い系はだめなのよ。何かバカにされてるようで、全然笑えないの」 「厳しい…。じゃやっぱり江崎君かな?」  聡子の冷やかしには否定の言葉が出てこなかったが、それより先に幸恵の質問が飛んだ。 「妙子はどうなのよ…?」  再び妙子に振られた。 「いえ、違うのよ秀才だと聞いたから、どこの塾に行っているのかなーと思って…」 「私も聞いたわよ。どこにも行ってないんですって…。家で予習復習と問題集だけであの成績よ。凄いでしょう!」 「あ、ははは、幸恵ちゃんよく知っているわね」 「去年も同じ班だったから。何でも頼んだことは、いやとは言わずにやってくれるの。他の男子なんかみんな逃げてしまうことでも…頼りになるわ」 「幸恵ちゃん、それで三年になっても江崎君と達也を班に入れたのね」 「達也君は余分だけどね。うるさく言うから仕方なく」 「幸恵ちゃんって、おとなしそうな顔して、凄い計算高いのね」 「それ、褒めているの…?」 「それより、妙子はどんなタイプが好きなのよ?」 「…、妙子はやっぱりスポーツタイプの男よね」 「ちょっと、それは私がおてんばだからとでも言いたいわけ!」 「じゃ、やっぱり江崎君が好きなんだ?」 「だから、違うって!もう、いいわ!」  妙子が進展しない会話に苛立ちを見せたとき始業のチャイムがなった。円陣の仲間がそれぞれ席に戻り始めた時、幸恵だけが妙子に寄り添い耳打ちした。 「妙ちゃん、江崎君って、本当、全然変な人ではないわよ」  幸恵が妙子に進めるように言った。 「幸恵ちゃんが言うなら間違いないわね。だけど、もう少し何とかならないかしら…」 「妙ちゃんには合わないわよ!」 「幸恵ちゃん、そういう意味でいったんじゃないけど、でもそれ意味深な言い方…」 「違うわよ…」  幸恵は、恥ずかしそうに嬉しそうに笑って席に戻っていった。   (暗号…)  それから、三日たった金曜日。  良一に何か一言いってやろうと思っても、幸恵の目があるし簡単には近づけなかった。待ち伏せという手もあったが何処で誰が見ているかわからない。  しかし、それでは妙子の気が落ち着かず、いらいらしていた。  良一の席は一番前、妙子は一番後ろ。みんながよくやる手で、ここから消しゴムに手紙を包んで背中にぶつけてやろうかと思ったくらいだった。それでも、やはり回りから注目を浴びることは間違い。 「手紙、そうだ、暗号…」  妙子は、思いついたように英語の教科書をだして、適当な練習問題を探した。そして、その練習問題の上の余白に逆さまに数字を並べた。 「幸恵ちゃん、ちょっと来て…!」  幸恵は何事かと思って妙子の席まで来た。その声でいつもの連中も集まってきた。 「なになに、面白いこと?」  一番近くにいた聡子が幸恵よりも先に着いた。 「何でもないわよ。お勉強なんだから…」 「珍しいわね…」  他の仲間が寄ってきてしまったことで、一番前の席から、ようやくたどり着いた幸恵に言い難くなってしまった。 「あのね。…」 「なに、解らないこと?」  幸恵は優しく尋ねてくれた。集まってきた仲間の手前、何か言わないと格好が付かなくなった。 「あのさー、英語のこの練習問題なんだけど…。江崎君に聞いてみてくれないかな?」 「そんなの妙子が自分で聴けばいいのに…ね!」  聡子が冷やかすように言った。 「いや、私が聴いてもいいんだけど、またみんなに誤解されると困るから…」 「それなら、私がわかるかもよ?」  幸恵が妙子の教科書を取って眺めた。 「あ、あーあ、でも幸恵ちゃんじゃ…?」  妙子が意外な展開に戸惑った。 「あ、わかった!幸恵ちゃんじゃ駄目よ!」  理恵子が教科書を奪って言い放った。  妙子がわけもわからず同調した。 「この問題は江崎君が解かないと意味がないのよ!」 「どういうこと?」  言葉の先が見えない幸恵に、聡子も気が付いたらしく理恵子から教科書を奪い取ると幸恵に渡した。 「いいから、早く聴いてきなさい!」  妙子は、笑って幸恵を見送った。  幸恵は罠の匂いがぷんぷんしたが、こんなことでみんなが喜んでくれればいいと思い。良一の席に向かった。 「ちょっと教えてくれる?」 「いいよ!」  良一はなんの抵抗もなく教科書を受け取った。  そして、余白に書かれた逆さまの数字と最後の「”」が目に入った。 「11335511311223952332”」  数字の下には丁寧に波線で強調されていた。 「何、この数字…?」 「さあー、この教科書妙子のものだから、本当いうと妙子に頼まれての!自分で聴きに来るのが恥ずかしいんだって…」  良一はそれには応えず難しい顔で問題と取り組んでいるようすだった。  幸恵が良一の席に来たことで、達也が飛んできた。 「どうしたの幸恵ちゃん?」 「うん、なんでもない。ちょっと問題を教えてもらおうと思って…」 「どれどれ…。うそ、現在完了形なんてまだ習ってないよ。幸恵ちゃん、凄いね…。これは、俺の出番ではないね。でも、良一でもわからないだろう?」 「そんなことないわよ。もう、塾では終わっているわ」 「へーえ、幸恵ちゃんのところレベル高いね…」 「出来たよ。これでいいと思うけど…」 「…、ありがとう!」 「あ、幸恵ちゃん…。湯川さんに、いいよって言ってくれない」 「そうね、今度は自分で聞きに来るように言っておくわ」  幸恵が戻ると、仲間の女子は遠慮がちな拍手で迎えた。 「はい、行って来たわよ!」 「あ、ありがとう!」妙子は深々と頭を下げた。 「今度は自分で聞きに来なさいって…」 「うん、聞こえた…」  妙子たちは、二人の関係をじっと息を済ませて聞いていたのだから内容はすべてわかっていた。 「それで、どうだったの。二人の距離は縮まったのかな。それとも告白したとか…?」  理恵子が、幸恵をからかうように冷やかした。 「そんなわけないでしょう。あなたたちも暇ね」  幸恵は、大きくため息をついて妙子の前の席に座った。 「幸恵ちゃん、ごめん。本当は、そんなつもりではなかったけど…」  妙子は、いまさらながらに弁解がましく、もう一度頭を下げた。 「わかっているわよ。妙ちゃんの考えは…」 「なになに、もっと重大な作戦が秘められていたのかな?」  聡子が顔を近づけてきた。 「違うわよ。妙ちゃんは江崎君も、もっとクラスのみんなと仲良くなればいいと思っているのよ」 「それは、ちょっとね…。性格というものだから…」  理恵子が小声で言った。妙子の回りはいつの間にか、例の円陣ができていた。  しかし、聡子が言ったように、この作戦にはもっと重大な秘密が隠されていた。  これは妙子と良一が小さいころ、姉の紗恵子にもわからない暗号で伝聞を交わして楽しんでいたものだった。仕組みは教科書の余白に書かれてあった数字が伝聞で、これは二桁の組み数字になっていて、五〇音表の縦と横の数字で文字を当てはめ、濁音発音はそのまま数字に添える約束にしていた。したがって「11」は「ア」。「33」は「ス」それによると「アスノアサイクロクジ」とかかれていた。多分言いたかったことは「明日の朝行く。時間は6時」と推測された。  (八)扉  翌日土曜日。妙子は朝早く良一の家に向った。  朝早い時間にしたのは、少しでも誰かに出会う機会を少なくしたかったからだ。  妙子が良一の家まで来ると、良一が庭に出ているのが見えた。 「綺麗に作ってあるのね…。ガーデニングも得意なの?」  庭には、パンジー、デイジー、ペチュニア、アイリス、チューリップ、マーガレットなど春の花が白や黄色や青、赤と色とりどりに咲きほこっていた。 「そうでもないけどね。母が好きだったから。手入れしないわけにもいかないから。もうじきバラや藤が咲くよ…」  妙子が玄関脇から庭に入って行くと、良一はチューリップの花を摘んでいるところだった。 「それ、切っちゃうの?」 「湯川さんが来るから部屋にでも飾ろうと思って、何もないから殺風景だろ…」 「いいわよ。そんなに大きな花もったいないよ」 「もう、この花は咲ききっちゃっているから、これからは花びらが散っちゃうだけなんだ。それに、切ってやると球根が大きくなるんだ」 「そう言えばお姉ちゃんもよく切っていたわね」 「そうだね。湯川さんの家の庭も綺麗だったね。それより何か話があるって?家の中に入る?」 「うん。でも、いい天気だから、ここでいいわ…」 妙子は、縁側に座りながら綺麗に整えられた花壇や庭木を眺めていた。 「お母さんの形見ね…」 「そうだね…」  妙子は良一の顔を見るまでは、あれもこれも言ってやろうと思っていた。もう少し自分から友達を作るように話しなさいよ。とか、良一が話さないから、回りから秀才だからお高くとまっていると言われる。とか、だいたい机から離れないのがおかしい。笑わないのも変よ。とか、でもそれはただの表面的な良一に過ぎなかった。本当は幸恵の言うように、やさしくて、人のことばかり気にしていて、紗恵子に言わせれば自己犠牲が出来る人、それがわかっているのなら、これ以上良一に何を求めようというのか。妙子は思いをめぐらしているうちに何もいえなくなってしまった。 「それで、話ってなに…?」 「…、話?話は、決まっているでしょう。下宿の話よ。いつまで一人でいるつもりなの?」 「だから湯川さんの家には行けないって返事はしたよ」 「でも、下宿できない障害はないんでしょう?」 「…、そうだけど」 「じゃ、ただ意地張っているだけじゃない。それとも、私に言えないこと?」 「そんなことないよ…」  妙子は話そうと思っていたことが、突然なくなったことで、心の奥の奥にしまっていた懸案事項がその反動か突然出てきてしまった。それもまた歓迎しているように言っている自分は偽善者だと思った。 「私、小さい頃のこと、あまり覚えていないんだけど、お姉ちゃんがね。小さい頃、良一君を家来みたいにして私がえばっていて、また下宿なんかしたらこき使われて大変だと思って、こられないんだって言うのよ」 「そんなことないよ。あのころが一番楽しかった…」 「そうよね、私も楽しかったから…。よくあの暗号覚えていたわね」 「…、うん。でも、暗号でなくても電話してくれれば良かったのに…」 「そう言えば、そうね…、気が付かなかった。でも男子なんかに電話したことないから…。それより、小さい時みたいに、また来ればいいじゃない。下宿なんて言うから気が重たくなるのよ。私の家に遊びに来るつもりで、お泊まりで来たら?一日二日でいいから…。そうすれば、私のお父さんの顔も立つもの。大人の世界は結構めんどくさいのよ。このまま、あなたが下宿に来なければ、あなたのお父さんに頼まれた義務が果たせないから、信用が失墜しちゃうのよ。お父さんの顔丸つぶれ…。でも、良一君が下宿と言わず、たまに泊まりに来てくれれば、少しは面倒を見ている格好が付くじゃない。そうすれば、あなたのお父さんが帰って来たときでも頼りになるだろうと、えばって言えるのよ。そういうことわからない?」  妙子は、我ながらよくも出会い頭に思ってもいない言葉が次から次へと出てくると感心していた。口から生まれたのは嘘ではないかも知れないと思った。 「そんなの大人の勝手だよ。僕はお父さんにはっきりと断ったから。お父さんも好きにしなさいって言っていたし…。それでいいと思っていたから…」 「バカね。子供に発言権なんてないのよ。あなたに責任が取れるの?もし、あなたがここで死んだら、責任を取るのは私のお父さんだから…」  良一は何もいえなくなった。  妙子も少し言い過ぎたかと思った。これはまるで脅迫だ。 「お父さん思いだね…」 「…、でもないけどね。世間体というものよ」 「でも、それなら…。僕が湯川さんの家に住んでいることの方が大きな問題じゃないの?」 「そ、そういう見方もあるけど、子供だからいいのよ」  妙子にとっても、それが一番の問題だった。  でもこの時、良一の本心が見えたような気がした。やはり、良一は先回りして妙子のことを気遣って下宿できないと言っているのではないかと思った。街の中でも学校でも無責任な噂が立てば、傷つくのは妙子であると。そう考えたとき、妙子がいくら説得しても良一は来たくても絶対に来られない。自分のためではなく、妙子のためだからだ。  沈黙が続いてから良一が話し出した。 「朝ごはん食べたの?」 「まだよ…。良一君は?」 「まだだよ。何か食べる?」 「いつも、なに食べているの?」 「お休みは、パンとコーヒーかな。あとはいろいろ…」 「ホットドックでも食べる?」 「なにそれ!作れるの?」 「ちょっと待っていてね」  良一が家の中から、折りたたみ式のバーベキューコンロを持ってきて妙子の前で開いた。 「え、えー、バーベキューやるの?」 「そこまではいかないけど、フランクフルトソーセージを焼くんだ。小さいとき湯川さんの家でよくやったね」 「そうね。でも、今は全然やらないわよ。そんな雰囲気でもないから…」  少したって、良一は火の起きている炭を持ってやってきた。 「団扇で扇いでくれる…」 「良一君って、アウトドアーが好きなのね」  妙子は団扇をとると手馴れた様子で扇ぎだした。 「…、でもバーベキューを覚えたのは湯川さんの家にいたときだよ。あれから、自分の家でもやるようになったんだ。でも、母が亡くなってからはやらなくなった」 「…そう、でもよく炭があったわね?」 「七輪で、焼肉やうなぎを焼くのさ」 「う、うそ。凄い本格的なのね。美味しいの?」 「…、どうかな。気分だけは美味しいよ」  そんなことを話しながら、二人は昔に帰った気分で、自家製の良一が焼いた長いパンに、レタスやキュウリ、トマトをはさんでホットドックをいくつも作って食べた。  コンロの上ではパーコレーターがコーヒーを温めている。 「なんか、昔に帰ったみたいで楽しいわね。無理にとは言わないけど、たまには遊びに来なさいよ。私の家でもバーべキューやりましょう!」  妙子にとっても久しぶりの野外での食事だった。そのためか気分も高鳴っていて少し興奮気味だった。今は良識ある中学生よりも、小さい頃の空想と現実の見さかえのない、おてんばお喋り妙子に戻っていた。 「これだけは言いたくなかったんだけど、お姉ちゃん。女子大生よりは少し歳がいってるけど、凄い美人でスタイルもグラビアモデル並みよ。でも性格がおっとりしているのか、どこか抜けているのか知らないけど、お風呂上りにそのままで出てきちゃうのよ。何も着ないでよ。それで、冷蔵庫からビールやお酒なんか出して、テーブルに座ったりしてテレビ見ながら一杯やっているの。覚えている?私のお姉ちゃん…?」 「うん、知っているよ。」 「でも、大人になったお姉ちゃんは見たことないでしょう?」 「そうだね。多分、今あってもわからないと思うよ」 「そうでしょう。それで、私が何か着なさいよって言うと、これが好きなのよって言うのよ。お父さんが目のやり場に困るでしょうって言ったら、成長した娘の姿を見せているのよって。あれは、完全な露出趣味ね。自分でもスタイルがいいとわかっているから裸になって、私に見せ付けているのよ。それで自個満足しているのね。私の家に来れば毎日、生で見られるわよ、生よ。凄いでしょう」 「う、うん、凄い。でも僕がいたらそんなことやらないよ」 「やるわよ。お父さんがいても平気だもの。ギャラリーが多いほど本人は嬉しいのよ。外では裸になって世間の人々に見せられないから、せめて家の中でそのストレスを発散しているのね。良一君なんか、まだ子供としか思ってないから、全然平気で出てくるわよ」 「…でも、それはないと思うよ」 「それに今度、良一君が家に来たら一緒のお布団で一緒に寝たいって言ってたわよ。お姉ちゃんは本気よ」 「はあ…」 「少しは来たくなったでしょう。だいたい超美人と超美少女のいる家よ。男子なんかに言ったら、みんな1億円お金もって泊まりに来るわ。だから、これは絶対にないしょだからね」 「誰にも言わないけど…。超美少女って誰…」 「…、あなたね。それだけ冗談が言えるんだったら、もっとクラスのみんなと喋りなさいよ!」 「冗談じゃないけど…」 「じゃいいわ、これだけは言いたくなかったけどね。私の入浴シーンなんか見たくない?」 「え、見せてくれるの?」 「バ、バカね。見せるわけないじゃない。なに考えているのよ。でも、想像するのは自由よ…」 「…、想像ね」 「エッチ、スケベ。変なこと想像していたでしょう!」 「してないよ…」 「うそ、私の胸を見ていた」 「見てないよ…!」 「隠さなくてもいいのよ。想像だけなら罪にはならないから。でも、それだけじゃないかもしれないわよ。運がよければ、見られちゃうこともあるかも知れないわよね。見られちゃったら仕方ないわね。事故だもの。来たくなったでしょう…」 「でも、事故が起きたら困るし…」 「うそ、信じられない。こんな凄い話を聴いても来たくないの?もしかして男じゃないんじゃない?」 「男だよ。湯川さんが一番よく知っているじゃん!」 「あ、あーあ、やっぱり、まだあんなこと根に持っているんだ!お姉ちゃんが言ってた。またおチンチン見せてって言われるのが怖いから下宿できないんだって!でもね、あれはお相子だからね。私のだって見たでしょう…」 「でも、ひっぱたりしなかったよ…」 「ひっぱたけど、あなただって、あそこ触ったわよ!」 「触ったかもしれないけど、」 「あ~、わかった。私の家に来るとエッチビデオが見れないから寂しいんでしょう?それで、こられないんだ!」 「ちがうって!そんなもの見てないよ!」 「ちがわないわよ。そうに決まっているわよ」  まるで幼児期に戻ったような会話だった。  妙子は一番思い出したくなかったことをどさくさに紛れて全部言ってしまった。小さいときの出来事とはいえ思い出すたびに顔から火が出るほど恥ずかしい思いをしていた。それも原因の一つとして、大きく成長してからも、学校や道で良一とすれ違っても避けるようになってしまっていた。  しかし今、面と向かって本人におチンチンだの引っ張ったことなど言ってしまったことで、心の扉に封印していた鍵が解けた。  解けた瞬間、全身に震えが走った。そして熱いものがこみ上げてきた。 「あれ、涙…」  妙子の目から涙がこぼれた。一滴の涙がこぼれ落ちると、関を切ったように次から次えと流れ出した。両手で涙をぬぐいながら、なぜ涙が出るのかわからなかった。  良一はしまったと思った。小さい頃も仲がよかったが同時に喧嘩もよくした。  そして妙子が泣き出し、その機嫌を治すのにどれだけ苦労をしなければならないか。今になっても全身から血の気が引く思いがした。 「…いいわよ。…いいわよ。良一なんか、来なくても…。来なくてもいいわよ。良一なんか一人で、ねずみに引かれて食べられればいいんだ!」  妙子は、涙をぬぐいながら良一の家を走って出て行った。  涙は女の武器、涙は心の友達、涙を流すのはなぜ。悲しいから、嬉しいから…。
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