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教室を覗く。帰り支度をする姿が見えた。お疲れ、と周囲のクラスメイトと挨拶を交わしながら橋本の元へ歩み寄る。おう田中、と親友は顔を上げた。
「橋本、今日は彼女と帰るの?」
「向こうが部活だからバラバラだよ」
「じゃあ一緒に帰ろうぜ」
一日一度、このやり取りをする度に胸の奥が痒くなる。別に嫉妬なんてしていない。十七歳で一度も彼女ができたことの無い俺みたいな男なんて珍しくないはずだ。少なくとももう一人の親友には女っ気など一つもない。
「綿貫はもう帰ったのか? 最近一緒にならないけど」
俺の問いに、橋本はそうかなぁ、と肩を竦めた。
「今日は図書室へすっ飛んで行ったよ。あいつが要望していた本が納品されるんだって」
「何の本?」
「漫画でわかる日本の歴史」
「よく通ったな、その要望」
確かに俺も読んだ覚えがある。意外と身にもなった。しかし小学生の時の話だ。高校の図書室に置かれるのは如何なものか。悪いとは言わないけど気が抜ける。
「鞄を抱えて走って行ったよ。どんだけ楽しみにしていたんだろうね」
「買えよ、自分で」
溜息をつく。まあいい。行き先がわかっているなら追うだけだ。廊下を橋本と並んで歩く。最近買ったゲームの話をした。同じ日に買ったのに橋本の方が遥かに先へ進んでいた。彼女もいるのにどうやってそこまでゲームをやり込めるのか。一緒に帰ったりデートしたりしたら時間を取られるはず。俺はとっとと帰って、あるいは休日に丸一日かけて遊んでいるのに何故置いていかれる。つつがなく会話を続けながらそんな疑問を抱いた。でもどうやっているのか訊くのはどこか悔しくて口にしなかった。我ながら珍しい感情だ。
そうして図書室が見えた時、扉が開いた。見知った顔が飛び出す。よう、と声をかけると綿貫は全力でこちらへ駆け寄って来た。勢いそのままに俺の肩を抱く。あれ、少し顔色が悪いな。しかし、おい、と叫ぶその声は至近距離には有り余るほどデカい。うん、心配する必要は無いな。
「おい。おい、おい。おい」
「鼻息が当たって気持ち悪い」
顔を背ける。こいつが奇妙奇天烈な行動を取るのは日常茶飯事だ。しかし今の俺はあまり気が乗らない。対応が冷たくても許して欲しい。それにしたって何故俺の肩を掴んで揺する。どうして離さない。
「おい。田中。おい」
「何だよ。用があるならとっとと言えよ」
親友はぴたりと動きを止めた。肩が痛い。相変わらずの馬鹿力だ。
「俺、彼女、できた」
唐突な言葉に、はぁ、としか返事が出来ない。
「俺、彼女ができた。たった今、告白されたんだよ。俺にもついに彼女ができた。彼女ができたんだぁぁぁぁぁ」
叫びながら再び俺を揺さぶる。普段なら、離せバカ、とツッコむところだが俺はされるがままだった。橋本に続き、とうとう綿貫にも彼女ができてしまったか。何のかんの言いながら、こいつも独りだったのが心の支えになっていた。そんなことに今、気付いたよ。寂しいなあ。置いてきぼりかあ。俺だけ独りかよお。
「マジかよ綿貫。おめでとう」
揺れる世界の中で橋本が綿貫の肩を抱くのが見えた。ありがとう、と綿貫が俺を放り出し橋本と強く抱き合う。急に村八分か。残された者の身にもなれよ。
「彼女、図書室にいるんだ。二人に紹介するよ」
別にいい、と言いかけ逡巡する。目の前の綿貫は満面の笑みを浮かべていた。その顔に、喜びで満たされた気持ちに、水を差すべきではない。内心はどうあれ親友ならばまず祝わなければ。大きな溜息をつく。幸せがどんどん逃げていくな。
「わかったよ。でも彼女さんに悪いから、顔合わせをしたら俺らは帰る」
そうだね、と橋本も賛同する。
「成立した直後のカップルへ友人が早速挨拶に訪れるって、よくよく考えたら邪魔者以外の何者でもないもんね。え、じゃあ俺達はもう帰った方が良くない?」
しかし綿貫は俺達の腕を掴んだ。
「ごちゃごちゃうるせぇな。彼女にはまず親友のお前らを紹介したいんだよ」
非常に嬉しいことを言ってくれる。だが彼女は恐らくそれを望んでいない。でも落ち着けと諭したところで綿貫は聞く耳を持たないだろう。自己紹介が済んだらとっとと退散しなきゃ。
図書室の中を見回す。そこには誰もいなかった。貸し出しカウンターにも人がいない。図書委員は何処へ行った。これでは本が借りられない。そう。誰もいない。綿貫の彼女とやらも見当たらない。本棚の影にでも隠れているのか。手を引く親友は図書室の隅へ向かった。図書準備室、と札のかかった扉の前で立ち止まる。
「この中にいます」
その言葉に首を傾げる。何故なら。
「いや、思いっ切り立ち入り禁止って書いてあるけど」
「ドアノブにチェーンが巻き付いているんですけど。チェーンの端は本棚に固定されていて絶対開かないようになっているんですけど」
橋本と二人、疑問を投げつける。お互い、声が震えていた。この部屋にはどう考えても入ってはいけない。むしろ何ものかが出てこないようにしているようにも見える。しかし愛すべきアホは大丈夫だよ、と親指を立てた。
「彼女が開けてくれるから」
その言葉に、チェーンが物凄い勢いで解け始めた。咄嗟に振り返る。やはり誰もいない。触れているものは存在しない。じゃあ、何故このチェーンは引っ張られている。どうして本棚に縛り付けられている端が捻じ切れている。つい今しがたまで確かに切れていなかった。
「綿貫、駄目だ。お前、一体」
切れ切れに叫び問いかける。だが親友は親指を立てるばかりだった。お前、呪われちゃったのか。サムズアップは今、取るべきリアクションの中で最も不適切だと思うぞ。隣では、橋本がチェーンを指差しすげぇなと自分の太ももを何度も叩いていた。こいつの心は壊れるのが早過ぎる。非現実的な現象のおかげで親友二人の知らない一面を垣間見た。嬉しくも何ともない。
ほどなくしてチェーンは全て解けた。ドアノブから外れたそれはしばし空中に滞留していたが、音も無く床へ落ちた。ひとりでに扉が開く。冷気が滲み出てきた。無言で入室しようとする綿貫の肩に手をかける。
「何」
「何、じゃねぇよ。こんなどう考えてもヤバイところにお前を行かせられない」
「そうだよ綿貫。これ、お化けの仕業でしょ。お前、取り憑かれちゃったの」
「取り憑かれたんじゃない。告白された」
「お化けに告白されるなんて、もう取り憑かれたも同然だろ」
「違う。いいからお前らも来い」
「嫌だ。行かないし行かせない」
押し問答を繰り広げていると不意に胸ぐらを掴まれた。だが掴んでいる奴の姿は見えない。これがお化けの仕業か。恐怖より怒りを覚える。俺の、俺達の親友に何をしやがった。そのまま準備室へ引き込まれる。
「上等だコラ。かかってこいやボケ」
少しも抗えない中で啖呵を切る。お化けと喧嘩をする日が来ようとは、やれやれ。
三人揃って空中を走る。そのまま部屋の奥へと引き込まれた。裸電球が一つ点いている、手前でふわりと床へ下ろされる。綿貫が咳払いをした。
「紹介するよ。俺の彼女で、結城怜奈さんだ」
指し示す先には一人の女子生徒が立っていた。肩口で切り揃えられた髪。丸い眼鏡。見慣れた制服を着ている。胸の前で手を擦り合わせていた。そして足元は。
「ほら、お化けじゃん。足無いじゃん」
指差す俺を綿貫が引っ叩いた。痛ぇな、と抗議する。
「失礼だぞ田中。足が無くて何が悪い」
「足が無いのをどうこう言ってんじゃないの。お前がお化けに懸想しているのをどうこう言いたいの」
俺の言葉に橋本が激しく頷く。いつものやり取り。いつもと違うのはお化けが一人混じっていること。ごめんなさい、とお化けさんが消え入りそうな声で呟いた。
「やっぱり駄目ですよね、お化けが生きている人に恋をしたら」
そうして上目遣いでこちらを見上げる。咄嗟に目を逸らした。罪悪感を覚えるわけにはいかない。しかし綿貫は俺の頬を両手で挟んだ。
「謝りなさい、田中。今のは失礼過ぎる。俺の彼女だぞ。生きてようが死んでようが関係あるか」
お前の物言いも如何なものか。いい男なのか無神経なのか判断の分かれるところだ。渋々怜奈さんとやらに視線を戻す。お化けなのに赤くなっていた。血は無いはずなのに赤くなるんだ。あと、綿貫の発言はいい男判定なんかい。案外お似合いの二人かも。わかったよ、と手を振り払う。
「怜奈さんだっけ。ごめん、急に失礼なことを言って。まず君の話を聞くべきだった。本当にごめん」
頭を下げる。細い声が、いいんです、と答えた。
「私がお化けなのに違いはありませんから」
「怜奈さんは優しいなぁ。そういうところ、好きですよ」
「綿貫、鼻の下が伸びているよ」
わかりやすくデレデレしやがって。それはさておき改めて怜奈さんに目を向ける。足が無い以外は普通の女子生徒と変わらない。体は多少色味が薄いが、完全に透けているわけではない。割としっかりと存在しているのだな。
「それで、綿貫。どういう経緯で怜奈さんとお付き合いをすることになったの」
珍しく橋本が切り出した。俺はどうにも気後れして訊けなかった。彼女がいる者といない者の差か。綿貫が胸を張る。俺もそっち側に行ける日が来るのかな。
「一か月前にここで出会ったんだ。本を探していたら、準備室の入口がいかにも怪しげで笑っちゃってさ。そうしたら急にドアが開いた。心霊現象だ。調査しなきゃ。そう思って中へ入ったのよ。そうしたら今にも消えそうな女の子が、部屋に一人で座っているわけ。話してみたら普通の女の子だった。ずっと一人だったって言うから、そんなの寂しいじゃんって思ってそれから毎日通った」
心霊現象を一人で調査するな。お前の身に何かあったら俺達は悲しむ。そしてお化けを見付けて普通に話し込むお前のメンタルが心配だ。優しいを通り越して病んでいないか。
「だから最近、俺らと一緒に帰らなかったのか」
橋本が想定外の感想を口にした。え、そこが腑に落ちたの。お前もお前で順応するのが早いな。さっきは太ももをバンバン叩いていたくせに。
「ああ。悪かったな、寂しい思いをさせて」
「やかましい」
「怜奈さんと話す時間はとても楽しかった。俺達、気が合うんだ。そして出会って丁度一か月が経った今日、彼女に告白された。俺達はカップルになったんだ」
「あまり洗いざらい話さないで下さい。恥ずかしいです」
怜奈さんがまだ顔を赤らめている。すみません、と綿貫が流し目を送った。見つめ合う二人。その様を見せられて、一体どんな言葉をかければいい。
「おめでとう」
橋本が拍手を送った。成程、満点の返しだ。真似して俺も手を叩く。橋本の対応には余裕がある。交際経験の有無が俺との明暗を分けたのか。別にいいし。気にしないし。
「しかし怜奈さん、綿貫のどこが良かったの? いい奴なのは認めるけど、うるさいしアホだしモテないしアホだよ」
橋本の問いに怜奈さんは制服の裾を握った。綿貫は頬を掻く。何この青春ドラマみたいなリアクション。手垢に塗れてベッタベタだぞこん畜生。
「あの、その、お話が面白いのと、あと、生命力に満ち溢れているところです。凄いんですよ、綿貫さんの生命力は」
あぁ、と深く頷く。綿貫のいいところはたくさんあるが、一番の取り柄は元気なところだ。なるほどね、と橋本も納得する。
「生命力の強い人間に惹かれるって、お化けとしては満点の理由じゃないの。逆に綿貫は怜奈さんのどこが好き?」
質問を振られた途端、髪をかきむしったりズボンで手汗を拭いたり急に忙しなくなった。ウブか。照れ屋さんか。あの、だのその、だのやかましい。あと、お化けとして満点の理由って評価はどうなの、橋本。ちょっと切ないと感じるのは俺だけか。
やがて綿貫は、優しいところ、と囁いた。新米カップルが二人揃って手で顔を覆う。帰っていいかな。
「そっか。ともかく二人ともおめでとう」
また拍手をする。俺も付き従う。まあ当人同士が幸せならそれでいい。ひとしきり手を叩いたところで橋本の背をつついた。
「そろそろ俺らはお暇しよう。邪魔しちゃ悪い」
「そうだな。じゃあ綿貫、先に帰るよ。ごゆっくり」
おう、と手を上げた。怜奈さんは深々と頭を下げる。お化けと二人きりで置き去りにするのは多少心配だが、一ヶ月も一緒にいて無事なら今日も大丈夫だろう。手を振り準備室を後にする。相変わらず図書室には誰もいない。玲奈さんが人払いでもしているのか。後ろから、漫画でわかる日本の歴史、ゲットしましたよ、と聞こえた。カップルで一緒に読むような物だろうか。
無言で廊下を進む。橋本は俺の少し後ろを歩いた。喋る気になれない。昇降口を出る時、どんまい、と肩を叩かれた。
「うるせぇ」
それからまた変わりない日常を過ごした。綿貫はたまに一緒に帰るけど、大抵図書準備室へ向かった。橋本も彼女がいるから一緒に帰ったり帰らなかったりだ。俺の放課後だけは長いままだった。それでもゲームの進行は橋本に追いつかなかった。一体あいつはどうプレイしているのやら。
異変が起きたのは綿貫と怜奈さんが付き合い始めてから三週間後のことだった。
綿貫が、倒れた。
体育の授業中、引っ繰り返ったらしい。俺はクラスが違うので、現場は見ていない。橋本が付き添って保健室へ連れて行ったらしい。昼休みに顔を見に行くと、ベッドに横たわり弱々しく笑った。
「ちょっと腹が減りすぎて」
言い訳に、そうか、とだけ答える。橋本は腕組みをして唇を噛んでいた。
その日の放課後。橋本と二人で図書室を訪れた。相も変わらず厳重に施錠された準備室の扉を叩く。チェーンが千切れ、解ける。毎日溶接したり引きちぎったりしているのか。ご丁寧なこって。
部屋の奥にいた怜奈さんは、俺達の姿を認めると目を伏せた。先日より更に姿がはっきりしている。
「倒れちゃいました。綿貫」
前置きもなくそう告げる。目の前の幽霊は静かに涙を流した。
「怜奈さん。貴女が原因なのですか」
俺の問いに何度も頷く。そして、ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返した。橋本が前に進もうとする。それを俺は手で制した。部屋の中には怜奈さんのすすり泣く声だけが響いた。俺は何も言わない。俺に止められた橋本も黙っている。やがて、ごめんなさい、ともう一度彼女は繰り返した。
「綿貫さんには初めて会った時、伝えたんです。私と一緒にいると、貴方の生命力が減ってしまう。私達幽霊は、存在を濃くしようと勝手に生命力を奪ってしまう。だから私はこの部屋に一人でいる。貴方が今、ここにいる理由も原因は同じ。あまりに生命力が強いので私が無意識に呼び寄せてしまった。それでも、私と一緒にいたら二ヶ月と保たず衰弱死してしまう。今日のことは貴方だけの胸に留めて下さい。私は一人で静かに暮らしますから。そう、言ったのです」
「でも綿貫は貴女を見ないふりなんてしなかった」
「そりゃそうだよ。あいつ、優しいもん」
俺達の言葉にまた涙を零す。一人でひっそり過ごしている子を見捨てるような綿貫じゃない。俺達が一番よく知っている。
「むしろ安心しました。あいつがお化けだからって人を見捨てるような奴じゃなくて」
怜奈さんが目元を拭う。浮かべた笑顔に涙の跡が光っていた。
「そんな綿貫さんの優しいところが、本当に好きなのです」
「ありがとう怜奈さん」
突如後ろから声が響いた。荒い息の綿貫が拳を突き上げていた。
「俺も貴女が大好きです」
そして床に倒れた。咄嗟に受け止め激突を避ける。
「カッコつけんなバカ」
「元気が取り柄で惚れられたのに、立っていられないほど吸い取られちゃうとはねぇ。毎日どんだけ長時間一緒にいたの」
俺達の罵倒に、やかましい、と必死に声を絞り出した。
「触れられなくても、生命力を取られても、俺は平気だ。怜奈さんが大好きだから」
平気じゃないし、その純愛ぶりには感心を通り越して呆れを覚える。そうか、幽霊だから触れることも出来ないのか。なんて切ない恋。それでもいいと言い切れるお前はさ。
「格好いいよ、綿貫」
俺の言葉に怜奈さんが頷く。良かったですね、こんな奴とカップルになれて。そう言おうとしたのだが、彼女の言葉の方が早かった。
「私、成仏します」
唐突な成仏宣言に、三人揃って目を丸くする。
「もう綿貫さんがいない、静かな日々には戻れない。でも一緒にいて憑り殺してしまうのは絶対に嫌。だから、成仏します」
言葉と共に怜奈さんの体が光り始める。
「そんな、待って。嫌だ。俺の生命力なんていくらでもあげるから、逝かないで」
すがりつこうと綿貫がもがく。両脇から抱え上げ、肩を貸す。しかし怜奈さんは首を振った。
「所詮私は幽霊、一時の夢幻だったのです」
「そんなことはない。俺は本当に貴女のことが好きだった」
「ありがとう。その言葉を胸に浄土へ参りましょう」
「逝かないでよ。俺、嫌だよ」
「そんな顔をせずとも、綿貫さんには大切な友人が二人もおられるではないですか」
とても哀しい場面だし、俺も胸が痛い。でも怜奈さんの口調が時代劇みたいなのがどうしても気になる。流石に口にはしないけど、人間案外冷静なものだ。
「綿貫さん。貴方は貴方の人生を歩んでください。きっとたくさんの出会いと、素晴らしい恋が待ち受けているでしょう。私のことはお気になさらず、どうかお幸せに」
ちょっと棘を感じる。いや、そんなことはない。きっと心の底から綿貫の幸せを願っている。しれっと綿貫の傷になろうとしているなんてことはない。俺の性格が捩じ曲がりすぎているだけだ。
「ちなみにもし、この後すぐに転生したとして、貴方の十七歳下の若妻になりますね。合法的に付き合えるようになるのは二十年くらい先の話ですが」
「いやもうちょっと待って。流石にあからさまだから。重いよ発言が。生まれ変わって妻になる気満々じゃん。絶対、自分以外とは素晴らしい恋なんてして欲しくない人の物言いじゃん。それに二十年後は俺ら、三十七歳だから。それまで待てって微妙に酷だから」
「いいですよ、どなたともお付き合いして。私のことは絶対に忘れて下さい」
「わざとやってんだろ。綿貫も何か言え。怜奈さん、宙に浮き始めちゃってる。最後に言葉を交わしたのが俺になったら気まずい」
親友の肩を叩く。震えながら顔を上げた綿貫が口を開く。
「気をつけて、いってらっしゃい」
その言葉に、幽霊はようやく心の底から微笑んだ。
「いってきます」
「そんなこと、あったねぇ」
綿貫がコーヒーを啜った。橋本もゆっくりと頷く。
「あんな珍しい体験をしたのにすっかり忘れていたよ」
俺はカップを置いた。身を乗り出す。
「だからずっと綿貫の女性運は悪いんじゃないかな。今回の子とも上手くいかなかったんだろ。どう思う」
「俺は田中に賛同する」
「そうだろ。でもさ、気が付けば三十七歳まであと三年だし、そろそろ何かあってもおかしくないかもな」
盛り上がる俺達をよそに当の本人は、いやまあねえ、と曖昧に応じた。まあ答え合わせのしようもない、ただの与太話だ。その時、綿貫がコーヒーを零した。動揺しているんかい。
三人分のおしぼりを置く。それでも足りなくて、すみません、と綿貫は店員さんを呼んだ。女性が駆け寄ってくる。その顔を見て、俺達は息を飲んだ。まさか。そんなこと、本当に起こるのか。ただ一人、綿貫だけはすぐに相好を崩した。店員さんも、確かに見覚えのある笑みを浮かべた。
今度は、涙の跡は無かった。
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