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また、モスグリーンの制服の彼を見かけた。
香澄は動揺した。もう会いたくないと思った。
彼は人波をぬって改札を抜け、ホームめがけて歩いていく。香澄は、一本遅い電車に乗ろうと、足を止めた。
彼は足早に歩いていく。彼のカバンが、彼と同じ制服の男子の、腰のあたりにぶつかった。
「おい、待てよ。カバンぶつかったぞ」
絡まれたというのに、彼はその声を無視した。どんどん歩いて行ってしまう。
「なんだ、あいつ……。ちょっと、待てって!」
カバンをぶつけられた高校生が、彼を追いかけようとする。
「おい、やめとけよ」
友人らしい高校生が、その肩をつかんだ。
「知らないのか? あいつは、耳が聞こえないんだよ」
香澄は、アッと叫びそうになった。ずっと彼を見てきたけれど、耳が悪いなんて思ってもみなかった。あのときの告白も、ただ聞こえなかっただけなのか……。
香澄はそっと目をつぶった。耳に両手を押し当ててみた。ギュッと強く押し付けると、駅の喧騒が遠のいて、孤独な静けさに包まれた。
もう一度、話しかけよう。筆談でかまわないのだ。彼の名前が知りたい。また恥ずかしい思いをするかもしれない。だけどもう一度。もう一度だけ勇気を持とう。
香澄は顔をあげると、モスグリーンの背中を追って走りだした。
(おしまい)
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