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 少女は海が嫌いだった。  とはいえ、はじめからそうだったわけではない。彼女のお兄さんが海の近くに暮らしたいと言い出したときには、彼女も大いに喜んだものだ。しかし、それはまだ、当時の彼女が海というものを真に知らなかった所為もある。靴を脱いで砂浜を踏んだとき、海はまだ美しかった。  けれども、砂と水の境界線を超えたとき。  水は思ったより冷たかった。波は遠くから見たときほど穏やかではなかった。水の力は強かった。小さな身体が攫われて、水中で一回転したとき、少女は海の水がそれほど綺麗な青色でないことを知った。塩辛い水が断りもなく口の中に流れ込む。海藻や砂の粒が体中にまとわりつく。どちらが上か下かも分からず、自分の心音だけが大きくなっていき、何か黒く巨大なものが、確実に自分の方へ向かってきているのだという恐怖――。  息苦しさを覚えて、少女は思い出したように息を吸った。  海を見ていると、いつでもあの光景が蘇ってくる。窓から見える穏やかな海は、偽りだ。近づいて、ほんの少しでも触れたが最期。海は本性を現して、闇のほかには何もない深淵に連れ去ろうとする。  少女は海が嫌いだった。  波の音も、潮の香りも、絵の具より鮮やかな青色も。  それでも彼女が毎日窓辺に椅子を寄せ、こうして何時間も海を眺めるのは、樺色の瞳に映っているのが、波でも青でもない、まったく別のものだったからだ。
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