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 Aさんはスキューバダイビングが趣味だった。  ある日、Aさんはダイビング仲間数名に誘われて、某所の海に潜った。Aさん自身はそこに潜るのは初めてだったが、彼以外の人間はみんなそこの常連だった。    ーーーあそこはいいところだよ。  みんな、口を揃えてそう言ったという。Aさんは大層期待してその海に潜ったのだそうだ。  ところが、いざ潜って見ると、その海は聞いていたものとはまるで別物だった。  暗い。  とにかく、暗い。  海の色に覇気がなく、病んでいるという印象を受けた。辺りには魚1匹いない。海底にゴミは沈んでおらず、汚染されている風には見えなかったのに、何だかひどく不潔な感じがした。何の音も聞こえない。海中なのだから当然なのに、それがひどく不自然な気がした。海の静寂は何も聞こえなくとも生の鼓動を感じることが出来る。けれども、ここには何も無い。  ここにあるのは、死の静寂だった。  ーーーここは、だめだ。  Aさんは、本能でそう感じたという。  もう上がろう。そう決心して身体を動かそうとした時だ。  Aさんの目の前に、何かがゆっくりと沈んで来た。  最初、それは棺桶に見えた。人の輪郭をした暗い何か。Aさんのシュノーケルから、悲鳴の代わりに大量の空気が漏れた。海中でのパニックは死に直結する。Aさんは全精神力を振り絞って正気を保ち、改めてそれを見やった。  棺桶かと思ったモノ。それは、Aさんと一緒に海に潜った仲間たちだった。  だが、明らかに様子がおかしい。  仲間は5人いた。その全員が、きおつけの姿勢でピンっと身体を張っている。手は胸の真ん中で交差させており、微動だにしない。彼らはまるでモノのように、ゆっくりと海底に沈んで行く。  ーーーシュー、シュー、シュー  寒くて堪らないのに、汗が止まらない。暗い海の静寂の中で、Aさんの呼吸音が警報のように鳴り響いた。  そこで、気付いてしまった。  ーーーシュー、シュー、シュー  音に合わせて気泡がシュノーケルから漏れていく。その泡が、呼吸をしているという証が、仲間たちのシュノーケルからは一切出ていなかった。  ーーーシュー、シュー、シュー!  Aさんは、今度こそ正気を失いかけた。  逃げよう。  そう思い、無我夢中で身体を動かそうとした時だ。  ーーーゴボッ、ゴボッ  詰まった排水管のような音がした。  暗い海の奥、白い『何か』が複数Aさんの方へ向かって来ている。  ひいっ、と悲鳴を上げる間も無かった。  それらは一瞬でAさんのすぐ側ーー仲間たちのところまでやってくると、そのうちの一人に纏わり付いた。  一応、人間の形をしていた。  ただ、それらの全身はホルマリン漬けのように漂白されおり、下半身が無かった。手は成人男性ほどの長さがあり、それに負けないくらい長く白い髪が海中でゆらゆらと揺れていた。その隙間から目が覗いている。人の目ではなかった。真っ黒で、白目がない。魚の目だった。  それらは集団でAさんの仲間の一人を囲い込むと、来た時と同じ物凄いスピードで海の奥へと彼を引き摺り込んで行った。  Aさんの意識は、そこで限界を迎えた。           ※  次に気付いた時、Aさんは病院のベッドの上にいた。海中で気絶していたところを、仲間たちに助けられたらしい。  「良かったなぁ、助かって」  自分を囲む仲間たちが笑顔でそう言っているのを見て、Aさんは心底安堵した。今の彼らに、あの時の不気味さは少しも感じられなかった。  (アレはきっと夢だったんだ)  本心からそう信じることが出来た。Aさんは、涙ぐみながら笑った。  と、同時に気付いた。  「・・・一人、足りなくないか?」  あの『人間のようなモノ』に連れて行かれた男、そいつがいない。  仲間たちの笑顔から、すうっと人間味が消えていった。  そして、言った。  ーーーアイツはね、『いいところ』に行ったよ。  みんな、魚の目をしていた。  それ以降、Aさんは血縁以外の全ての人間関係を断ち、日本を出国した。  現在は、海の無い国で暮らしているという。        
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