月の裏側

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「その男は、妹には、なにがあっても責任を取るし、一生大切にすると言っていたそうです。つまりは騙されたわけですね」 「最悪です。もちろん妹さんや妊娠のことではなく、その男が」 「今更、責任なんて取らなくてもいいです。取る方法も器量もないでしょうし。ただ、できることなら殴り倒してやりたいですが」 「水を差すようですけど、殴るだけでは、慰謝料ももらえないし、諸費用を出させることもできないのでは。もっと実利を得られるような行動をしたほうがいいのではありませんか」 「そうですよね。なんの意味もないという人もいるでしょうけど、忘れにくくはなるでしょう。あの男が、自分のしたことを。子供を作ったことじゃありませんよ。逃げたことです」  確かに、殴られなくては分からない人間というのはいるのだろう。  文明がいくら発達しても、単純な暴力でしか学べない輩というのは、絶えないのかもしれない。  そんなことを考えていたら、つい、ぽろりと私の口から呟きが漏れた。 「……人間は不思議ですね」 「不思議?」 「若く、元気なうちに子供を作るのはいいことじゃないですか。私から見たって、三十代を超えたりして体力が落ちる時期より、気合でなんでもできそうな十代のうちに子供を作る方が理にかなっていると思うんですよ」 「活力のみに着目すれば、確かにそうですね」 「ほかの生き物は、子供を作るのに一番適した繁殖期に全力で子作りします。なのに人間だけが、学校とか仕事とか、子作り以外のことに一番活力のある時代を捧げて、後からなんとか取返しをつけようとするじゃないですか」 「一理あると思います。おれも、今子供を作ろうとは思えませんからね」 「人間社会全体が、そういう生き方でないと生きにくくなっています。万物の霊長って、ずいぶん間の抜けたことをするんだなって思います」  私はどんどん早口になる。 「確かに、人類の不合理さには、驚かされることが多いと、おれも思います」 「妊娠や出産は、どんな生命にとっても純粋に喜びの象徴のはずじゃないですか。なのに、人間だけが、一番元気な時期に子供を作ると、それは不幸と悲しみの象徴になります。しかも先進国って言われる国ほどそうなります。これで繁栄なんて、どうやってできるんですか。人類って、じゃないですか?」 「もしかしたら、繁殖よりも大切なことがあるのかもしれませんよ、人間には」  それまでどんどん先を促されていたのに、急にいさめられたようで、そのおかげで私はようやく頭が冷えた。  頭に上っていた熱が、額や頬に一気に集中して、文字通り火が出そうになる。 「し、失礼しました。私、くだらないことをべらべらと」  ああ。変なやつだと思われた。痛い人間だと思われた。  恥ずかしさのあまりの歯ぎしりの音が頭蓋骨の中に反響する。  けれど、古藤さんの顔に浮かんでいる微笑みは、嘲笑ではなかった。
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