月の裏側

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 セミがうるさい。確かにうるさい。けれどその声は遠い。  太陽も遠い。視界を埋める、すぐ足元のひび割れた茶色い地面も遠い。  傍らの古藤さんだけは少し近い。  止まらなくなったのは、そのせいだと思う。 「私も騙されたんです。ばかだから。子供だから? 子供は作れるのに子供だから?」 「仁羽さん」 「その名字嫌いです。珍しいから。産婦人科医の子供が、未成年で妊娠するなんて。どんな風に言われるんだろうって、そんなことが怖かった。それも許せないんです、自分が。好きな人を全員嫌いになりました。子供の父親も、友達も、お母さんも、自分のことも。どうして? 子供ができるってそんなもの?」  鼻水が詰まってしゃべりにくい。  目からこぼれる涙の粒が、ビー玉みたいな大きさに感じられる。 「君の言う通りです。そんな男は、死刑だ」 「そうですよ。死ねばいい。なんでのうのうと生きてるんですか、ああいう男たちは。自分が妊娠する立場だったら、絶対にそんなことできないはずなのに」 「その通りです。男は死ぬまで、妊娠に関してはばかです」 「私は、お母さんにも騙されました」  誰にも言うつもりはなかった。  でも、本当は誰かに聞いて欲しかった。そんな気持ちに、初めて気づく。自分一人だけの秘密にしておくことさえ、悔しかった。 「お母さんに?」 「私は、妊娠した後、お母さんに見てもらったんです。流産だと言われました。それで、必要な処置をしました」 「それは……」 「あの時はなにも分からなかったけど、今なら分かります。あれは違った。絶対に違った。流産じゃなかった!」  古藤さんの、今度の沈黙は、長かった。  彼からはなにも言えないだろうと、私にだって分かった。  私は彼に甘えたのだ。彼なら、昨日妹さんと一緒に産婦人科に来た彼なら、聞いてくれると思って、話した。  それでも、抱き着いた胸から顔を放す時を決めるのは、抱き着いた本人であるべきだろう。  だから私は、言葉を絞り出した。 「私、……大丈夫っていう言葉が嫌いなんです」  古藤さんはまだ無言でいる。  でも、私を見つめている。私は地面を睨んでいたけれど、それくらいは分かる。 「だって、そう言われて大丈夫だったことなんてなかったから。でも――」  私はようやく、顔を上げて、古藤さんを見た。  古藤さんも私を見ていた。多分ずっと。 「――でも、妹さんには、大丈夫って言ってあげたいです。私と、ほかの人では、きっと聞こえ方が違うと思うから。必要であればですけど」 「……ありがとうございます。必要ですよ。芙実さんは必要です」 「月の裏側……」 「え?」 「楽しいことばっかりの月の裏側、私も見たいです」
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