二   拝啓 嫌いな未来へ

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 その日の夜、不安定な精神状態が記憶を呼び覚ます夢を見せた。  夜中の二時。小学生の幼いジンは家で一人、震えながら毛布にくるまる。すぐそこに恐ろしい悪魔がいる気がする。深い暗黒が絶えることなく全身を飲み込もうと迫ってくる。  防ぐ為の防御壁は、クタクタになった毛布しかない。悪魔は自分を殺そうと機を伺っている。  幼いジンは涙をこらえるため、形が変わりそうなほど強く奥歯を噛みしめた。  朝が恋しい——  泣いちゃだめだ——  自分だけの秘密の基地を作った事がある。押し入れの中を整頓して、シーツを広げて当時はまっていた漫画を持ち込んだだけの簡素な秘密基地。あの暗い中のワクワク感とは明らかに異なる「本物」の闇の中で、孤独と格闘していた。  玄関のドアが開く音がはっきりと聞こえた。快活そうな母親の声と知らない男の人の声がアハハと耳に届く。部屋の電気がパッとつくと母親の陽気な呼びかけが聞こえた。 「ごめんね~ジン君。ママ帰ってきたよ」  俺も一緒ですっ、と知らない男の人の声も遅れて聞こえてきた。母親が毛布をめくりジンの顔をのぞき込んだ。閉じたまぶたの裏側がぼう、と明るくなった。しかし眠ったふりをすることしか出来なかった。 ——理由はよく分からない。わからないけれど、そのほうがなにも起こらない。  父親はいない。  一人っ子。  次々と変わる母親の彼氏。  そんな家庭の事情が十歳になった少年の居場所を緩やかに解体していった。  いつもテーブルの上にある五百円玉で買ったカップうどんが家庭の味だった。  母親が彼氏といる時はゴミを見るような眼でこっちを見ているような気がしていた。  母親が何か電話で話をしていた。自分に向けられた罵詈雑言に聞こえた。  全てが嫌になった反動は突然やってきたのだった。  それは学校の給食の時間。大好きだったはずのカレーの味が全くしなくなった。クラスメイトの話し声が自分への悪口に聞こえた。自分は「ここにいてはいけない」気がすると同時に尊厳が損なわれた気がした。 ——生きている実感が欲しい。  歯止めの効かない衝動がすぐそこに、すでにぶっ壊れた理性は使い物にならなくなった。  ジンは手に持っていたお皿を地面に叩きつけた。割れた音が響き渡る。心臓の動きが速くなる。静まりかえる教室に放送委員会が流したクラシックが場違いのように響く。  ジンの目にはサラダを食すためのフォークがキラキラと煌めいて見えた。  コントロールの効かなくなった精神は身体を乗っ取るように、フォークを逆手に握りこませた。視界は限定されてしまった。自分の左手しか見えなくなった。浅くなった呼吸は不規則になり、奇妙なリズムを刻むとその息遣いに合わせて左手を一突きした。  鋭く突き刺すような悲鳴とともにジンの周囲から人が消えていった——。  放課後、保護者を呼んで話し合うことになったが母親はその場に現れなかった。  担任の先生は優しい若い女性の先生。建前ばかりの自分の本音を見抜いてくれたのはこの時の先生の「言葉」だった。 「ジンさん。自分の言葉で表現しよう。じゃないとあなたはこの世にいないことと同じ。自己表現することで君の存在を証明するんだ。あなたの人生、一生かけて表現した全てで存在を証明しなきゃだめなんだ」  先生はクラスメイトから『あの先生は何をいっているのか難しくてわからない』と言われていた。しかし、あの時のジンにとって先生の「言葉」は安らぎを与える薬だった。得体の知れない感情を浄化する効果をあげていた気がした。 「私もジンさんも「表現者」なんだ。人間は言葉をもったから歴史が作られたように、言葉を持たない生き物に歴史は作られないんだよ」  震える声。涙を堪えている赤い眼差し。目の前の女の先生は無理して笑顔を作ってくれている、と幼いジンでもわかった——。  そんな理解ある眼差しがジンの心に刺さった。恩師のようになりたい。そのためなら人生を捧げてもいい、とジンは確信を得た。  その日から一心不乱に図書室に籠もり、興味関心の赴くままに本を読み漁った。実に様々な文学は共感と安心感、そして生活に潤いをもたらしてくれた気がする。  自己表現が苦手な自分にとって文学の、等身大で「言葉を駆使した表現の世界」は「あの日」のフォークよりも光り輝いて見えるのだった。  死んだふりをしながら生きていたのが、バカバカしくなる———  睡眠中、無意識に流れる映像はピタリと消失するとジンは静かに目を開けた。  あれから十二年の歳月が経った。採用試験の結果を待つ不安定な精神状態が幼い頃の記憶を掘り起こしたに違いない。過去の映像は鮮明に夢に現れた。  ジンは現実を直視するようにベッドの上から見えない悪魔を睨みつけた。
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