最後の「バイバイ」

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最後の「バイバイ」

「ハイッというわけで、早速始めましょうか!」 ロケのオープニングのような掛け声を一人で出してみる。 誰もいない狭いアパートの部屋。 ずっと後回しにしていた作業に今から取りかかるのだ。 「では、最初に『ネタ帳』からいきましょうか!」 古いノートを手に取る。 表紙に書き殴った「ネタ帳」の文字。 何か勢いをつけないと! そう思ってテンションを上げて始めてみたが……。 手が止まった。 夜に思い出の品を整理するのは良くない。 そんなことは二十八年も生きていれば知っている。 当然だ。 知っていながら、気がつくと記憶の旅に出てしまった。 青春の一番輝いていた時間が蘇る。 ノートのページを開く。 ゆっくりと読んでいるヒマなど無いと思いながら……。 読む。 そして、笑う。 じっくりと読む。 つまらなすぎて笑う。 腰を据えて読む。 感傷に浸る。 涙がこみ上げる。 あ……。 今夜中に片付ける予定だったことを思い出す。 時計を見る。 日付が変わっている! あーあ、と思う。 全部捨てるつもりだったのに! 焦る。 とりあえず捨てる決意だけ捨てそうになる。 ヤバイ、それはヤバイ! 「やっぱり捨てないと」と思う。 でも、切なさに身もだえる。 グラグラと捨てる覚悟が揺らぎだす。 結局、元の箱に戻す。 あー、となる。 とりあえず、寝る。 あの頃を思い出しながら。 「それでも今夜しかないのだ! 明日は告白するんだからッ」 布団を飛び出し、もう一度部屋の電気を点ける。 再度、時計を見る。 日付が変わっているので、告白は「もう今日のことだな」と思う。 ドキドキしてくる。 その前に、思い出と決別する必要がある。 「よし!」 不退転の決意で、段ボール箱を布団の上でひっくり返す。 先程の「ネタ帳」や出演したお笑いライブのチラシ、売れ残りのチケット。 あと、先輩芸人のインタビュー記事が載った雑誌の切り抜きなど。 この辺りはもう捨てていいと思う。 問題は……。 もう一箱、押し入れの奥から封をした段ボール箱を取り出す。 箱を見るのも懐かしい。 あれからもう三年? ガムテープをバリバリッとはがす。 勢いをつけてその箱も布団の上でひっくり返す。 よくやった! その調子だ、オレ! 心の中で自分を褒める。 今の自分には深夜の奇妙なハイテンションが必要なのだ。 布団の上で散乱した箱の中身たちを眺める。 目についたのはまず、賞状! パンパカパーン! 芸人時代、一度だけ授かった栄誉。 『努力賞』と書かれた大きな文字の下に『ナオ平』のコンビ名。 『南谷ナオ 松根陽平』の名前がその横に小さく書き込まれている。 晴れやかなスポットライトを浴びた記憶はこれっきりだ。 パンパカパーン! おめでとう、あの頃のオレたち! もう一度、賞状の『南谷ナオ』の文字を見つめる。 ……あとは暗黒の時間だった。 どんなに明るく照らされた舞台に立っていても、暗闇の中にいるようだった。 とうとうオレたちの漫才で客席に爆笑は生み出せなかった。 「努力賞? 芸人がそんな賞もらったらオワリだろ?」 ある先輩芸人に言われたイヤミ。 いまだに耳に残っている。 たった一言の言葉がどうしていつまでも記憶に残っているのか? 不思議だ。 その先輩は努力賞も獲れずに芸人を辞めた。 何だったんだ、アイツ! さっきとは別の「ネタ帳」を開き、ペラペラと飛ばし読む。 クッダラナイ! やっぱりダメだな。 よく努力賞をもらえたよ。 「小学生がネタを書いたほうがマシなレベル」 同じ先輩に酷評されたことを思い出す。 その理由が今なら分かる気がした。 「ツマンナイ」のオンパレード。 あーあ。 布団の上に散らばった数々の思い出。 それらの上で大の字になる。 片付けが終わらないと寝られない状態にしたつもりなのに……。 無意識に……ZZZ。 「チュン、チュン」と鳴くスズメの声が窓越しに聞こえてくる。 ン……? 「やっべ!」 そのまま寝てしまった! 時計を見ると……七時四十五分。 まだ間に合う! でも、全速力で急がなきゃ。 会社に遅刻するかどうか瀬戸際のタイミングだ! ハンガーラックの一番端にずっと吊るしたままの紺色のスーツを手に取る。 思い切って、それをゴミ袋の中に押し込む。 クリーニング店の袋に入ったままだ。 派手な金色のストライプが入った舞台衣装だった。 袖口に光る金色のラインはナオが手で縫いつけてくれたものだ。 アイツがいかに几帳面な性格かは、その縫い目を見るだけで伝わってきた。 再びスーツをゴミ袋から取り出す。 ハンガーを抜き取り、丁寧にスーツを畳み直す。 そして、足元に転がっていたフォトフレームを掴み、畳んだスーツの隙間に挟んで一緒にゴミ袋に入れた。 フォトフレームの中にはオレとナオのツーショット写真。 楽屋で仲間の誰かが撮ってくれた写真だった。 五年前にコンビを解散してから三年前に芸人を辞めるまで、オレはずっとそのフォトフレームを部屋に飾っていた。 日々、その写真を見て奮起したものだった。 ナオとのコンビを解散してから、オレはピン芸人として一人で舞台に立ち続けた。 再びナオとコンビを再結成して舞台に上がることを願いながら……。 舞台と言っても客が数人だけの小さな劇場だった。 でも、そこがオレたちの夢を掴むための唯一の場所だと信じて疑うことはなかった。 結局足を洗うことに決めたきっかけは、忘れた。 きっとささいなことだったと思う。 「もう辞めよう」と、誰にも相談せずに劇場を去った。 引退なんて立派なものじゃない。 売れない芸人が月々きちんと働ける場所に転職したに過ぎない。 そう言えば、芸人を辞めたことをナオにはまだ報告してないな。 「知ったら怒るかな?」 ボソッと呟く。 だが、呟いている場合じゃなかった。 慌てて着替え、最後に賞状も筒ごとゴミ袋に投げ込んで部屋を飛び出す。 運良くいつも乗るバスに間に合った。 オレは運だけは良かった。 運良くオレだけが普通に生活をしている。 そして、芸人を辞めてすぐに運良く普通の会社に就職が決まった。 その会社で同じ部署の人を好きになって、今日はその人に告白しようとしている。 「運がいいな。オレだけ」 周りの乗客に聞こえないように、またボソッと呟いた。 罪悪感を少しでも体から逃がしたかった。 言葉にすれば体が軽くなる気がしたからだ。 「ナオ、ごめん」 オレは衣装のスーツとフォトフレームと賞状を入れたゴミ袋をさっきゴミ置き場の隅に残してきた。 本当はいつまでも手元に置いておきたかったナオとの思い出の品々。 それでも、サヨナラをしないといけない時はやって来る。 そんなことは二十八年も生きていれば知っている。 当然だ。 オレは自分を正当化した。 でも、どんな言い訳を考えても後ろめたさは変わらなかった。 要は、捨てたのだ。 捨てたフォトフレームの中でナオはずっと笑っている。 きっとゴミ置き場に残され、ゴミ袋越しにオレの背中を見送りながらでも。 ナオの笑顔を思い出す。 これからもずっと記憶の中で笑い続けていてほしい。 世界で一番笑顔が似合う人だから。 ごめんな、勝手なことばかり言って。 バスに窓に映るオレと目が合った。 ツマラナイ顔をしてるな、オレ。 勤めているヘルスケア商品を輸入販売する卸会社は雑居ビルの三階にあった。 こじんまりした会社だ。 今日は不良在庫を一掃するために倉庫の整理をする。 売れ残り品の品質保証が期限切れを迎える時期だった。 「これ、懐かしい!」 入社した当時販売していた美容液のボトルを手に取り、他の社員たちと思い出話をしながら廃棄処理の作業をした。 昼休みは一時期よく通った定食屋に行ってみた。 コロッケを一つサービスしてくれた。 ラッキーと思ったら、事情が違った。 「今月いっぱいで店を閉める」と高齢の店主の奥さんが教えてくれたのだ。 突然の店じまいに出くわし、名残惜しく店を出た。 いよいよ終業時間。 小田愛さんが本日で退職する。 オレと同じく中途採用で一年後に入社してきた同僚だ。 出荷のチェック作業では、いつもオレとコンビだった。 小田さんこそ、今日オレが告白したいと思っている相手だ。 ずっと胸に秘めていた想いを今から告白する。 帰宅しようとしていた小田さんの背中に思い切って声をかける。 「小田さん!」 小田さんが振り返る。 「別の職場に移っても、これからもオレとコンビを組まない?」 小田さんのキョトンとしたリアクションは想定内だ。 「好きなんだ」 精一杯の気持ちを伝えた。 だけど、小田さんは苦く笑った。 「ありがとう……でも今夜、実家に帰るの。東京もう離れるんだ」 落ち込むオレを同僚たちが飲みに誘ってくれた。 夜、八時半。 同僚の一人がオレを連れて、新宿の夜行バス乗り場に一緒に向かってくれた。 博多行きのバスに乗り込む小田さんの姿。 「元気でなッ!」 バスを見送るオレ。 泣き顔の小田さんが車窓越しにオレに手を振ってくれた。 角を曲がり、バスは見えなくなった。 「また会おうな!」とは言えなかった。 きっと、もう会うことはないだろうと思った。 帰り道、駅の前でビルの電光掲示板を見上げるたくさんの人たちがいた。 有名なシンガーソングライターが亡くなったらしい。 路上ライブをしていた青年が泣きながら彼の歌を弾き語り始める。 オレは立ち止まった。 青年の歌声に目頭が熱くなった。 アパートに帰ると一階の部屋の学生が引越しの荷物を外へ運び出していた。 部屋の中には手伝いの仲間がいた。 軽トラックにせっせと荷物を積み込んでいく若者たち。 彼らの未来が明るいものであってほしい。 オレのようなボタンの掛け違いみたいな人生は寂しいから。 心からそう思った。 階段を上がると、部屋のドアの前に今朝捨てたはずのゴミ袋が置かれていた。 朝、ゴミ置き場に捨てた時、これは「区切りの儀式」だと思った。 「とうとう手放した」 その感覚が心を自由にしてくれ、それと同時にとても不安になった。 これでオレとナオを結ぶモノは全部なくなった、と感じた。 そのはずだったのに……戻って来たのだ。 バスの中で、もう一度写真の中のナオに会いたい気持ちが湧き起こったせいだろうか? ゴミ袋の中にはフォトフレームだけが残っていた。 「プラスチックは燃えないゴミの日」 そんな注意書きのメモが貼られていた。 こんな形でナオの笑顔と再会するなんて。 フォトフレームの中の写真をじっと見つめる。 携帯電話が鳴る。 「?」 芸人時代のバイト先の友達からだった。 「おい、久しぶりだな。聞いたか? ナオのこと」 その友達はオレとナオの共通の友人だった。 「何かあった?」 「今朝、亡くなったって……」 「エッ!?」 時間が止まった。 「……そっか。知らなかった」 「お前には知らせないとな、と思って」 「ありがとう。教えてくれて」 通話が切れた後、スマホを持った手がだらんと下がる。 腕も足も重力に負けそうなほど重く感じて立ち尽くした。 「今朝か……」 フォトフレームの写真をぼんやりと見る。 涙で視界が歪んでいく。 あふれる感情に抑制は利かない。 嗚咽する。 咳き込むと、どんどん呼吸が苦しくなる。 それでも咳が出る。 部屋に入ろうと思ったが、鍵を出すことが出来ない。 階下から「終わったー!」と引越し作業をしていた学生の声が聞こえた。 「バタン」「バタン」と運転席と助手席のドアが閉まる音。 派手なエンジン音を響かせて軽トラックがアパートを離れていく。 なおも咳は止まらず、呼吸が出来ない。 苦しくて体がくの字に曲がる。 意識が薄れていく……。 オレは部屋の前で倒れ込んだ。 ……夢か? ナオがオレの目の前に現れた。 「何? 汚いな。鼻水と涙でぐちゃぐちゃやで」 「ナオが勝手に先に行くから」 「勝手にって、病気やからしょうがないやんか」 「努力すれば道は開けるんだろ?」 「無理言うなや。これでもよう頑張ったと思うで。五年も寝たきりで」 「……そうだな。うん、よく頑張った」 「アンタも頑張ってたんか? 彼女でも出来たか?」 「相変わらずキツイな。見てたのか? 俺がフラレるところ!」 「知らんがな。何や、彼女なしか」 「うるせえ」 「天国行っても自慢にならんな」 「何が?」 「ウチの相方、ダサい男で五年あっても誰も寄りつかんかった。ってか?」 「フン!」 「彼女おれへんくせに一回も見舞いにも来んし。何がそない忙しかったんかな?」 「いや……」 「まぁ、病院が大阪やし。仕方ないか?」 「……」 「すぐ黙る。芸人失格やな」 「ああ。失格だ」 「アホらし」 ナオがうつむいて黙り込む。 そのままゆっくりと消えてしまうのだろうか? 「待って! サヨナラを言いに来たんだろ?」 「ン?」 ナオが顔を上げた。 伝えたかった気持ちを急いで言葉にしないと。 「オレ、ナオに言い忘れたことが」 「何?」 「ごめん。ナオが倒れるまで……体を気遣ってやれなくて。本当にごめんな」 「アンタのせいちゃうよ。ウチら、コンビで下手やったから夜中まで稽古せなあかんかってん。売れるためのに努力すんのは当たり前のことや」 「それでも……ごめん」 「ええねんて。陽平のせいちゃう。アタシこそ悪かったな。あんなに毎晩遅くまで練習引っ張って。アンタが倒れんで良かったって、自分が倒れて思ったわ」 「オレが相方じゃなかったら、ナオをこんな目に遭わさずに済んだのかも……」 「そんなことは誰にも分からんことや。気にすんな。それとな、サヨナラなんか言いに来たんとちゃうで」 「え?」 「天国でまたコンビを組む日まで、しっかりとウチのこと忘れておいてって。それを言いに来てん」 「忘れる?」 「天国いうたらようさん人がおる所や。その中からでも、またウチを相方に選んでもらいたいねん」 「だったら尚更忘れちゃいけないだろ?」 「違う。ホンマに運命の相方やったら、忘れてもビビッとウチのこと見つけられるはずや。そうでないとアカン」 「ナオのこと、忘れられると思うか?」 「すぐにとは言わん。一週間のうち、まず一日。それから二日、三日と増やしていってな、どんどん忘れてほしい」 「寂しいこと言うなよ」 「約束やで。ちゃんと忘れてるか、じっと見張ってるからな」 「そんなことされたら、視線が気になって余計忘れられへんわ!」 「フフ……」 「何がおかしい?」 「……ヘンな関西弁」 「ありがとう。なるべく、忘れるように頑張る」 「頑張れよ。ウチはもう頑張るの卒業や」 「ああ。ゆっくりしいや」 「うん……ありがとう。ほな、行くわ」 「ああ」 「バイバイ」 ナオの姿が溶けるように消えていく。 気が抜けたようにオレはアパートの廊下の上でへたり込み、横になった。 そして、そのまま意識を失った。 どれだけ時間が経ったのだろうか? 雨の音で目が覚めた。 「バイバイ」 漫才の練習を終えた深夜、別れ際にいつもナオが口にした言葉だ。 ナオはその日その日を全力で駆け抜けるように生きていた。 お笑いもバイトも、常にパワーを出し切って悔いなく毎日を過ごそうとしていた。 夜中、クタクタに疲れた顔でムリに笑顔を作って言う「バイバイ」。 言われたオレは、それが本当に最後のお別れになりそうな気がして……。 「バイバイ」が正直、怖かった。 ナオの声を思い出す。 「バイバイ」 先に天国へなんか行きやがって。 早過ぎるだろ? それに、ナオのことを忘れられるわけがないだろ! 絶対に。 ……でも、約束を破ったらコンビを組んでもらえないかもしれないな。 ゆっくり、ゆっくり、忘れるよ。 そして……。 「また会おうな!」 (了)
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