あなたのこと知ってます!

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
「私、あなたのこと知ってます!」 「は? あんた誰だよ」  俺はスマートフォンから聞える女性の声に向けて問いかけた。朝から変な電話をかけてくる奴がいたものだ。スマートフォンの画面には『非通知』と表示されていた。 「あなた、二年前に私の会社の運用資金三百万円を持ち逃げした元社員の田中さんでしょう。しらばっくれたって、こっちには分かってるんですよ。二百万円に利子とかナントカその他諸々つけて四百五十万円。きっちりと払ってください!」  いきなりなんなのだ。俺は恐ろしくなって電話を切った。  早朝から電話がかかってきて気持ちよく寝ているところを起こされたと思ったら、訳の分からないことを言われて朝から気分が悪かった。  誰だその田中とかいうやつは。  まあ、こんなどうでもいい電話のことは忘れて、もうひと眠りするとしよう。  俺はもう一度布団をかぶって目を閉じた。その瞬間、またスマートフィンがぶんぶんと振動を始めた。  画面にはまたも『非表示』の文字。俺は舌打ちをして、横になったまま電話に出た。 「はい?」 「俺、あんたのこと知ってるよ!」  今度は男性だった。五十くらいだろうか。厳めしい声をしている。 「はい? あなたどちらさま?」 「あんた章ちゃんだろう? ほら、俺だよ俺――って、覚えてないんだったな。懐かしいなー。ほら、一緒に沖縄旅行に行ったときのこと覚えてる? あんとき、一緒に夕日を見ながらさ、一緒に脱サラしてラーメン屋やろうって言ってさ、俺があんたのこと信じて開店資金の百万円預けた途端、とんずらしちゃうんだもん。そりゃねえよ……」それまで情けない声を出していた男だったが、急にどすの利いた声に変わった。「章ちゃん、預けた百万、耳揃えて返してもらおうか」  俺は慌てて電話を切った。  急になんだというのだ。俺がなにをしたというのだ。田中がやったという横領行為も、章ちゃんがやったという詐欺行為も、俺には全く身に覚えのないものだった。そもそも俺の名前は――――――  そのとき部屋のインターフォンが鳴った。  俺はどきりとした。背中には冷たい汗が伝っていた。今度はなんなのだ。俺はパジャマのまま慌てて玄関へ向かった。 「どちらさま?」  ドアを開けると、目の前に立っていた四十前後の女にいきなりぶん殴られた。俺は膝をついてその場に崩れ落ちた。 「いぎなりなにずんだ!」  俺は鼻血を垂らしながら抗議する。 「あんた健クンよね? 私と結婚するって約束したはずなのに、結局ほかの女と一緒になるなんてひどすぎるわ! 私がこの年になっても結婚できないのは、全部あんたのせいなんだから!」  女はわっと泣き出すが、俺には全く身に覚えのないことだった。 「ちょっと待ってくれ、俺は健クンなんかじゃない」 「じゃあ誰なのよ」 「それは――」ひどく頭が痛かった。女のパンチを喰らったせいでもあったが、それ以上に俺の脳内でなにか得体のしれないものが暴れているような感覚があった。 「これ、あんたでしょう」  女は俺に一枚の新聞記事の切り抜きを見せつけた。  そこにはこんな見出しがあった。 『誰か私のことを知りませんか?』  その新聞には、白い歯を見せて笑う俺の写真とともにこのようなことが書かれていた。  自分は本当の記憶を失っている。  本当の自分を知りたいと思い、思い切って新聞の広告を使って全国から自分の情報を募ることにした。  どんな些細な情報でもいいから、自分のことを知っている人は連絡してほしい。  住所:〇〇都○○区〇〇〇〇 電話番号:〇〇〇―〇〇〇〇—〇〇〇〇  俺は自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。と同時に、俺は納得もしていた。  俺が記憶喪失であるのなら、先ほどから自分過去や名前を思い出そうとしても一向に思い出すことができないことにも頷ける。  俺は女の両肩を掴んで尋ねた。 「俺の名前は本当に健クンなんだな?」  女は一瞬、たじろいたようだが、すぐに頷いた。 「だからそうだって言ってるでしょ。分かったら責任とって私と結婚――」  いや待てよ、本当にこの女の言うことを信じていいのだろうか。  俺が本当に健クンであるという保証はないし、そもそも俺が本当に健クンであったとしても、それを認めた場合、目の前にいる特に好きでもないあまり器量のいいとも言えない女性と結婚しなければいけない。それは自分にとって本当に得なのであろうか。 「ダメだ、俺は健クンじゃない! 帰ってくれ!」たぶん。  俺が叫ぶと、女は「ひどい!」と叫んで俺にもう一発パンチを喰らわせて走り去っていった。  なんて気性の激しい女だ……。だが――、滴る鼻血を拭きながら俺は確信した。俺は田中さんでも章ちゃんでも健クンでもない。  おそらくこういうことだろう。  全国にいるなんらかの被害にあって犯人が分からなかったり、犯人が分かっていても責任を負わせられなかったりしたやり切れない気持ちを抱えた人たちが、ある日、一斉にその新聞記事を目にしたのだ。 『誰か私のことを知りませんか?』  彼らはこぞって、俺のことを利用しようとしたのだろう。この男に過去の記憶がないのなら、あの事件やあの出来事の責任を負わせる哀れなスケープゴートにぴったりではないか――と。  鏡を見ると、そこには土のような顔色をした、新聞に載っていたのと同じ顔があった。額には大量の汗の粒が浮いていた。そうこうしている間にも、俺のスマートフォンは振動を続け、ドアを叩く音がひっきりなしに聞こえてきた。  とにかく、ここから逃げなくては。  俺は玄関から靴を持ってきて家の窓を開けると、パジャマのまま窓から飛び出し、家の裏口から通りへと抜け出した。  すれ違う誰もが俺のことを見ている気がした。どいつもこいつも、俺に押し付けることができる手ごろな失敗がないか、舌なめずりしながら思い返しているような表情をしていた。  騙されてなるものか。俺は両手で耳を塞ぎながら、貸していた金を返せだの誘拐された娘を返せだのと話しかけてくる有象無象を蹴散らしながらぐんぐんと通りを進んでいった。  たどり着いたのは渋谷センター街だった。  顔を伏せ、スクランブル交差点の人混みに紛れて束の間の安心を得ていると、頭上から聞きなれた声が聞こえた。顔を上げると、大型ビジョンには俺の顔が映っていた。 「いやー記憶を失っちゃいましてね。参っちゃいましたよ。誰か俺の過去を教えてクレタ島。なんちゃって。なっはっは」  テレビ出演までしていたのか――。俺は当時の自分をぶん殴ってやりたかった。 「おい、お前のこと知ってるぞ!」  そうこうしているうちに、後方からそんな声が聞こえてくる。 「わが国の機密情報を某国に流出させただろう! お前のせいでこの国はもう破滅だ」 「私のパソコンをハッキングして、私の恥ずかしい写真を流出させたのはあなたの仕業でしょう。そうに決まっているわ!」 「息子をそそのかしてマルチ商法に勧誘したのはお前だな! お前のせいで私は息子もろとも破滅だよ」  後ろから迫ってくる怒声を聞きながら、俺はあらん限りの声を張り上げた。 「俺じゃない! 俺じゃないんだ! 信じてくれ……」  間一髪で狭い路地に身をひそめることに成功した。  息を落ち着かせる間に、俺は今日これまでに起きた一連の出来事を思い返した。  その中で、ひとつだけ、どうしても分からないことがあった。  俺が記憶を失っているのは確かだろう。その証拠に、自分の名前や生い立ちなど、なにも思い出せることはなかった。  しかし、“俺が記憶喪失であることについて新聞広告を出したことやテレビ出演したうえで明らかにしていること”まで覚えていないのはどういうことだろうか?  もしかすると――俺の頭には閃くものがあった。  記憶喪失にもいくつか種類があり、過去に起きた出来事を丸ごと忘れてしまうこともあれば、例えば一定期間が経つたびにその期間に起きた出来事を忘れてしまうような例もあるらしい。  例えばだが、もし自分が一週間経つたびにその一週間の間に起きた出来事を忘れてしまうようなことがあれば、記憶喪失者として新聞やテレビCMに出演し、そのことを忘れてしまったとしてもなにも不思議ではないのだ――。  そうこうする間にも、俺のことを探す怒声があちこちから聞こえていた。  とにかく、どこか遠くに逃げるしかない。それにはまとまった金が必要になるだろう。こうなったら背に腹は代えられない。  俺は近くを通りかかったお婆さんに手招きして路地裏に呼び寄せると、とびきりのささやき声でお婆さんの耳元でこう呟いた。 「お姉さん、私、長谷川というものでしてね。いえ、決して怪しい者ではないんですよ。実は私、他の誰にも言っていない儲け話を知っていまして。この方法を使えばいま持っているお金が十倍にも二十倍にも増やせるっていう魔法のような方法なんですよ……。  え、詐欺ですって? とんでもない! お姉さん、私がそんな悪さをするような人間に見えますか? 私はお婆ちゃんっ子でしてね、お婆ちゃんから人に嘘をつくような人間にだけはなるな、なんて小さいころから言い聞かされてきましたからねえ。  それで、その儲け話っていうのがですね――」
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!