静けさを奏でる

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「だ・か・ら!違う!!もう何度言わせるの!?」 その日、音楽室には先生のけたたましい声が響き渡っていた。 「それじゃあ全然“静けさ”の表現になってないでしょ!」 もっとこうなめらかに、風を感じながら弾くのよ!と講評してくださる先生のキンキン声を半分聞き流しながら私はチェロを抱えなおす。 課題曲はドヴォルザークの『森の静けさ』。 私はこの曲の静けさの表現に大苦戦していた。 ぶっ通しで練習しすぎて肩が痛いし左手も開かなくなってきた。ついでにキンキン声を聞きすぎて頭も痛い。 「あなたは一度感覚を掴んでしまえば上手いのに、それまでが本当に大変ね…」 長時間付き合わせてしまっている先生にも申し訳ないと思っている。 こんなに出来の悪い生徒にも全力で向き合ってくれる本当にいい先生だ。 声はけたたましいが、指導とチェロの腕は一級品なのだ。 「あなたはまず森に住み着いた、田舎の暴走族を追い出しなさいな」 …ついでに嫌味の切れ味も一級品だ。 「あ゛〜〜!やってらんねぇ……」 後で聞いてあげるから練習してらっしゃい。と追い出された私は、レッスン室でひとりごちる。 完全に手詰まりに陥り、チェロを抱えたままレッスン室の天井を見上げる。 そのまま目を閉じていると、他のレッスン室から様々な楽器の音が聞こえてきた。 ちぐはぐで何のまとまりもないその音を聴くのが私は嫌いじゃなかった。そう、音楽とは本来騒々しくて楽しいものであるはずだ。 まず音を鳴らしているのに静けさを表現するってのが分からない。弱く弾けばいいのかと試したら、蚊の鳴くような音を出すんじゃないと怒られた。理不尽極まりない。 そもそも音を“鳴らす”のに“静か”とか完全に禅問答の世界じゃないかと一人で悩んでいると、隣のレッスン室の扉がガチャリと開く。 透明なガラス越しに隣を見れば、それは勝手にライバル視している同じチェロ科の学生だった。 声を聞いたことはない。 というか学内の誰も声を聞いたことがないと思う。 静けさそのものを体現しているような奴だった。 隣からチェロをチューニングする音が聞こえてくる。 何となしにその様子を眺めていたら、チラリと一瞬目があった気がした。 一呼吸ついたソイツが曲を弾き始める。 ドヴォルザークの『森の静けさ』。 私の周りに鳴り響いていた雑多な楽器の音が全てソイツの“静けさ”にかき消される。 レッスン室の壁が消え失せ、私とソイツの周りに森が広がっていく。 雄大な自然の圧倒的な静けさ───。 ソイツのチェロが弾き手自身よりも雄弁に静けさを語っていた。 「くっそ…」 やっぱり、ムカつくほど上手い…。 弾き終わったソイツと、今度ははっきり目が合う。 私は何も言わないし、ソイツも何も言ってこない。 言葉はなくともソイツの目が雄弁に語りかけてくる。 今度はお前の“静けさ”を聴かせろと。 私はチェロを構え直し、一度目を閉じて私の中から全ての音を追い出す。 私とソイツ、そしてチェロ以外は何もいらない。 その絶対的な静寂の中で、私は更なる静けさを奏ではじめた。
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