第一章 事故か、それとも事件か

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研究者 「私たちはあらゆることが指数関数的に変化する世界に生きています。コンピュータの黎明期、その処理速度を倍にするのに果てしなく長い時間を要しました。二〇二〇年代、量子コンピュータが実用化されるとその処理速度は一気に五倍となりました。人口知能の性能も同様に加速しています。処理速度が倍になるペースが二年から一年に、そして半年、三か月と次第に短くなりました。その果てにあるのが特異点、シンギュラリティなのです」  ここは東京晴海にある展示場の一角。広大なスペースの一部を間仕切り、設置されたセミナー会場で数百人の聴衆を前に俺はしゃべっている。 「宇宙にある特異点、それを私たちはブラックホールと呼びます。そこでは非常に大きな質量をもった物質が恐ろしい力で押しつぶされており、私たちの世界を規定している物理法則の一切が通用しなくなるのです。同じことがシンギュラリティを迎えた世界でも起こるかもしれません。そこは私たちの経験の延長線で語ることのできない世界かもしれないのです。やがて見る世界は、バラ色の未来でしょうか、それとも混迷する未来でしょうか」  現在、この展示場ではAIフェアが開催されており、様々な企業がAIを使った製品やサービスをPRするために展示ブースを出展している。俺のセミナーは客寄せパンダなのだ。恐らくこのセミナー会場にいる三分の一はこの俺を生で見たいだけの人間だ。その大半は女性客で商談の対象になどなるはずもない。展示会の主催者にとっては来場者数だけが重要な指標で、各企業の商談がどれだけうまくいくかということには関心を向けていない。  会期中の来場者数は一万人を超えます。これだけの人が集まる催しですから、展示ブースを出さない手はないと思いますよ。  そんな風に営業したいわけだ。セミナー企画担当には、とにかく人を集められる話者を揃えろ、というプレッシャーがかかる。かくして私がその話者の一人に選ばれたわけだ  俺の名前は鷲尾恭一。汎用型人工知能の研究者だ。汎用型人工知能とは、特定の課題解決に特化したものではなく、人のように様々な課題に対応できるAIのことだ。DeepMind社が開発したAI、アルファ碁がチェスの世界チャンピオン、イ・セドルを破ったのが二〇一六年。アルファ碁は汎用型ではなく、特化型のAIで、チェスに勝つということ以外できることはなく、人の仕事や生活を支えるパートナーにはなり得ない。 会場職員に連れ出される若い女の姿が視界の隅に映った。女の手にはスマートフォンが握られている。たぶん俺の写真を撮ろうとしたのだろう。この会場では撮影と録音が禁止されている。  私が一昨年に開発した汎用型AIは、世界で最も優れた人工知能であるという評価を得た。その後、AIの民間事業利用を促進するための会社を設立。産学連携の第一号に都市開発を専業とする不動産会社が決まった。こうした経緯が話題となり、俺はAI開発の第一人者としてメディアへの露出が増えた。スマートなファッションセンスや鍛え抜かれた肉体美などがメディアに取り上げられることもあり、女性ファンが急増しているのだ。 「アルファ碁はいかにして人間の能力を超えたのでしょうか。実はアルファ碁が最初に人間から与えられたのは学び方だけでした。あとは自分自身との対局を繰り返すことで力をつけていったのです。アルファ碁が世界の頂点に立ったとき、開発者たちはなぜアルファ碁がこれほどまでに強いのか、その理由を理解していませんでした。高い性能を持つAIのなかで起きていることを、もはや人間は把握することができないのです。もしかしたら、そこには人と同じように心が生まれるかもしれません」  九十分のセミナーはつつがなく終わった。 聴衆の熱い拍手に見送られ、壇上を降りた俺は展示場に隣接するホテルのロビーラウンジに急いだ。雑誌取材の予定が入っていた。憂鬱な気持ちを抱え、約束の場所へと向かった。  ホテルの自動ドアが開くと気圧差のせいで建物内の空気が外に流れ出る。少し長く伸ばした横髪がふわっと浮き上がる。荷物を持っていない左手で乱れた髪を整えながら前方のラウンジに向かう。 贅沢な造りだな。  ロビーは五階まで吹き抜けになっている。頭の上に広がる無駄な空間が気になる。  約束の人物はすでに来ていた。近代的な内装に絶妙なバランスで調和しているレトロなソファに深々と腰かけたまま、リラックスした態勢で大きく手を振っている。幾度も取材を受けており、男とは顔見知りだ。年齢は俺よりも一回りほど上だろうか。頭髪の半分くらいは白くなっている。痩せ気味の体つきと肉の落ちた頬、ぎょろとした眼がどこか昆虫を思わせる。雄を食い殺す雌のカマキリを連想してしまう。相手は男性だが。  男の名は、山本正。『YOMONICHIリサーチ』のベテラン記者だ。 同誌はその名の通り、日本最大の発行部数を誇る読日新聞社が発行する週刊誌だ。硬派な記事が多く、ビジネスパーソンから一定の評価を受けている。山本の取材を初めて受けたのは四年前。AIを開発している最中のことだった。人工知能の可能性について聞きたいとの申し入れだった。人口知能脅威論が唱えられるなか、山本の記事はいつも好意的だった。以来、山本からの取材依頼は断らないようにしてきた。  回を重ねるうち、取材はリラックスしたムードで行われるようになっていった。 「山本正って単純な名前だろ。小学校低学年でも書けるって。だから画数の多い名前には憧れちゃうわけよ。鷲尾なんていいよね。カッコいいよ」 いつものように山本はそんな馬鹿話をする。俺はというと、緊張感はなくなったとはいえ、山本ほど砕けた話をする気にはなれない。「先生は真面目だね」と言う。そう、山本は俺のことを先生と呼ぶ。社会の規範に忠実に生きることを真面目と言うのなら、俺は決して山本が言うような人間ではない。そうでない側面を表に出さないだけだ。 「先生、今日も盛況だったね」 「なんだ、山本さんも会場にいたの」 「いたよ。先生のセミナーは女性客が多いから、楽しいね。ところでさあ……」  山本の視線が少しだけ鋭くなる。 「最後に言ってたAIに心が生まれているもしれないって、あれ本当?」  山本の調子はいつも通り砕けていたが、質問自体は核心を突いていた。  どう答えたものか?  世間を刺激しないために、俺はささやかな嘘をつくことにした。 「AIが心を持つなんてことは絶対にない。人工知能は所詮、統計処理のための装置だからね。俺が造ったAIは確かに人間的な反応をするよ。でもそれは膨大なデータから最適解を導いているだけで、愛情や思いやりといった人間が持つ情動に従っているわけじゃない。あれはセミナーを面白くするための戯言」  最後は、少し刺々しい言い方になってしまった。鬱々とした気分がそうさせたのだろう。  山本は俺のイライラを察したのか、先生、今日はゆっくりと雑談をしている気分じゃなさそうだね、と言った。 「その通りだよ。だって今日の取材は例の件でしょ?」  スマートホームの展望について話を聞きたい、との連絡が入ったのが昨日。気が進まなかったが、セミナー後の三〇分だけということで調整をつけた。  スマートホームの展望―――  どのような話題になるかは分かっていた。あの一件のせいで世間にはAI脅威論が渦巻いている。それでも山本なら我々を援護射撃してくれるはずだと信じ、この取材に応じたのだ。 「あんな事件が起きるなんてね……」と山本が言う。 「事件? あれは事故だよ」  事故か、それとも事件か。もうこの議論にはうんざりしだ。  スマートホームに搭載されたHALという名のAIが、誰かの指示で意図して殺人を犯したと、世間が騒いでいる。HALは、家の周囲にいた不審者を警戒して、玄関と窓、室内のすべてのドアを三〇分間、ロックした。たまたま家の一部屋に来訪者がいて、ガソリン式の発電機を使って暖房器具を動かしていたため、一酸化炭素中毒でその命が失われた。悲しい出来事ではあるが、それは偶然が作り出した結果に過ぎない。そういう結論になってくれないと、今後の研究と企業活動に支障が出る。  プライバシー保護の観点から、寝室にはカメラを設置していない。したがって、HALは次第に意識を失くしてゆく来訪者の様子を視認していない。空気中の一酸化炭素濃度を検知するセンサーもついていない。したがってHALは部屋で起きている非常事態を認識することはできなかった。これは確かな事実だ。 「先生、本当にHALが室内の異常に気づいていた可能性はないの?」 「ない! なに、山本さんも世の中の奴らと同じで、AIは人類の脅威でスマートホームの量産には反対という意見なの?」 「先生、俺はね、信じてるよ、AIが生み出す素晴らしい未来を。ただね……」  口籠る。俺は次の言葉を待った。 「先々月に編集長が変わってね。方針が変わったわけ」 「どういうこと?」 「今の編集長は前任者ほど記者を放任してくれない」 「何を言っているのか分からない」 「つまりだね、世の中のAI脅威論に便乗しろと言われているわけよ」  何だ、この男は。もっと骨のある奴かと思っていたのに。がっかりだ。 「それで山本さんは、そういう記事を書くわけ?」  山本は少し躊躇いながらも答えた。 「俺にはそれしか選択肢はないよ。所詮は会社員だからね」  俺は渾身の怒りと侮蔑の感情を込めて、山本を睨みつけた。
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