第一章 事故か、それとも事件か

3/4
前へ
/33ページ
次へ
刑事 「だいぶ早く着いちゃいましたね。約束まであと四〇分もありますよ」 「いいじゃねえか。せっかくだからゆっくりしようや」と若い相棒に答えた。  大華徳不動産株式会社本社ビル正面のカフェに後輩刑事の柿谷とともに腰を落ち着けた。  注文したブレンドコーヒーが二つ運ばれてきた。心地よい香りが広がる。俺も柿谷も無類のコーヒー好きなのだ。  中国人留学生と思われる女性店員が立ち去るのを待って、柿谷が口を開く。 「しかし、露骨な社名ですよね。音無さんは、そう思いませんか?」 「何が?」  俺はそっけなく応じた。 「あの社名ですよ。偉大なる中国に徳がある、ですよ」  柿谷がガラスの向こう、尊大に構えるビルを指差しながら言った。口調が刺々しい。 「随分とご立腹のようだな」  柿谷は肩を落としながら、振られたんですよ、と言った。  またか。  この男はほとほと女運がない。コンビを組んで五年。毎年のように女に振られた話を聞かされている。 「原因はまた職業か?」  柿谷曰く、刑事をしていると伝えると女たちは、潮が引くように去っていくのだとか。 「それが今回は違ったんですよ。超安定志向の女性で、刑事なら失業はないねって嬉しそうにしてたんです」 「じゃあ、原因は何だ?」 「俺より好きな人が出来たって」  柿谷は再び、肩を落とした。 「その相手が中国人なんですよ。中国系企業のエリート社員で、今頃、上海で盛大な結婚式を挙げているはずです」  日本に駐在した中国人男性の間では、日本人女性を婚約者として本国に連れて帰るのがトレンドらしいですよ、と渾身の怒りを込めて吐き捨てた。 男性の未婚率は二〇〇〇年代になって急上昇を始めた。二〇三〇年代に入ると、生涯を未婚で過ごす男性の割合は三〇パーセントを超えた。原因は労働環境の悪化にある。非正規社員の増加に呼応して、結婚に踏み切れない男性が増えていったのだ。低収入が性愛からの排除に繋がる。悲しい現実だ。それに加え、外国人が日本人女性をさらっていく。これを踏んだり蹴ったりと言わず、何と言おう。  この哀れな若者の話を黙って聞いてやろうじゃないか。  柿谷は興奮気味に続けた。 「音無さん、日中デジタル貿易協定って知っていますか。え? 知らないんですか。音無さんは時勢に疎いですね」  少し棘のある言い方だった。 「あのですね、数年前に日中の政府間で交わされたものですけど、この協定によってデータ設備を日本国内に設置する必要がなくなったんです。大華徳のホストコンピュータは本社がある青島(チンタオ)にあります。X市の特別行政地区は生活のすべてがIT化されています。経済活動を例にするとですね、区内では現金のやり取りは一切ありません。住民カードを使えば買い物や各種サービスの支払いはすべてキャッシュレスでできます。住民の購買データはすべて青島に送られます。各戸に設置されたAIの記録も同様です。住民の生活はほぼ丸裸にされていると思っていいわけです。しかも中国にはクラウド法というのがあって、政府は中国国内の企業に、保有しているデータの開示を要求できます。それに応じない企業のトップには最大三十年の禁固刑が科せられます」  柿谷はここまで一気に捲し立てた。  この十年ほどで中国企業の日本市場への進出が急速に進んだ。丸の内あたりを歩いていても中国語を耳にすることが増えた。我が国は、中国の金融植民地に成り下がった、と指摘する識者も多い。 「ちなみに今日のアポイントの相手は日本人だったよな?」  柿谷の表情が仕事モードに戻った。 「そうです。都市開発課の課長と例の物件の管理担当者で、いずれも日本人です。あのビルで働くのは大半が日本人ですよ。母体は日本の財閥系不動産会社ですから。ところで……」 「なんだ?」 「音無さんは今回の件、事故だと思いますか。それともやはり事件だと?」  俺は返答に窮した。  正直、よく分からない。事故なのか事件なのか。犯人がいるのか、いないのか。  長い刑事人生でこんなヘンテコな捜査は初めてだ。  それは計画停電が行われたある冬の日に起きた。東京都X市の特別行政地区、通称スマートシティで起きた。子ども部屋で十六歳の少年が一酸化炭素中毒で亡くなったのだ。部屋にはガソリン式の発電機が置かれており、それに温風ヒーターが繋がっていた。その日は最高気温が三℃と非常に寒い一日だった。三時間の停電中にヒーターで暖を取っていたようだ。死亡したのはその家に住む十四歳男子の友人だった。名前は権田力。適切な換気を行えばこのような悲劇は起きなかったわけだが、その日時にそれを行うのは不可能だった。戸外に不審者を認識したAIが安全モードを起動。AIは不審者の侵入を防ぐため、すべての部屋のドアと窓をロックしていた。部屋のドアと窓は、内からも外からも開けられない状態だった。部屋が閉ざされていた時間は僅か三〇分だったが、少年の命を奪うには十分な時間だった。空気中の一酸化炭素濃度は0.5パーセントほどまで急上昇したと考えられる。恐らく少年は数分で意識を失い、絶命までは二〇分ほどだったはずだ。体調に異変を感じたとき、なぜ少年は発電機のスイッチを切らなかったのか。残念ながら彼には、その知恵がなかったのだろう。  と、ここまでで話が終わっていたら、本件は事故として処理され、俺たち捜査員が投入されることもなかった。状況を変えたのは署に届いた一通の手紙だった。そこには現場となった家の一人息子、早乙女正人に対する壮絶ないじめの様子と、その加害者が死亡した権田力であることが記されていた。そして、本件はAIが、早乙女正人を守るために行った計画的な殺人であるとも。 当該のAIは、人の命令には忠実であるという。そのタレコミが事実なのだとしたら、AIに殺人を命じた者がいるはずだ。  かくして捜査班が組成された。世間の注目を集めてはいるものの、事件――もしかしたら事故かもしれないが――としては大きなものではないため、投入された捜査員は六名だけだった。音無・柿谷チームは、件のスマートホームに住む早乙女家とその周辺を担当。動機の有無を確かめる。俺たちと同じ刑事局捜査一課の二名、竹田と佐橋――こちらも俺たちと同じ、ベテランと若手のコンビだ――が死亡した権田力サイドから暴力行為の有無を確かめる。ちなみに竹田は俺の同期だ。その他、捜査支援課のITチームが大華徳不動産株式会社から提供を受けた膨大な映像記録を解析するという分担だ。  例年よりもだいぶ遅れてやって来た春一番が街路樹を大きく揺らしている。スーツ姿の男女が歩調を緩め、手で顔を覆う。一人の男性が眼を押さえている。砂埃を含む強い向かい風に、ただただその場に立ち尽くす人々の姿をぼんやりと眺めた。 「風が強そうだな」  俺はぽつりとつぶやいた。たぶん柿谷は俺の答えを待っている。 「分からん。その答えを見つけるのが俺たちの仕事だろ」  柿谷はそうですね、と頷いた。  俺はカップに残ったコーヒーを一気に飲み干した。 「じゃあ行くか、答えを見つけに」  少し出っ張り気味の腹をポンと一つ叩いて、席を立った。
/33ページ

最初のコメントを投稿しよう!

16人が本棚に入れています
本棚に追加