第二章 スマートシティ

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第二章 スマートシティ

刑事  女性は明らかに腹を立てていた。  身につけているのは、ブラウン系のセットアップスーツ。七分丈のジャケットにテーパードパンツ。出来る女性は誇示するかのような光沢感。おそらく高価なものだろう。その出で立ちとは対照的に、目元の隈が痛々しい。たぶん眠れていないのだろう。蓄積した疲労が表情に滲み出ている。  東京丸の内にあるオフィスビルの広々としたエントランス。一角で全国チェーンのカフェが営業している。広いスペースのあちらこちらにテーブルと椅子が置かれていて、数人のビジネスパーソンがカフェで買った飲み物を傍らにPCに向かっている。  女性の名は早乙女凛。現場となったスマートホームの住人だ。いや住人だった、と言うほうが正しいか。人が亡くなった家には住めないということで、現在は都内某所に転居している。 「済みません、職場にまで押しかけてしまって」 「やっぱり私たち親子は、疑われてるんですね」  早乙女凛は憮然とした口調で言った。 「自分の家で人に死なれて、それだけでもはた迷惑なことなのに、あろうことかそれを手引きしたのが私たち親子だなんて。息子に危害を加えていたのが、あの男の子だと知っていたら、殺してやりたいと思ったかもしれません。でも私は知らなかった」  知らなかった? 「今朝も出勤の途中に、テレビ局の男性に腕を掴まれました。何か一言くださいって、掴んだ腕を話してくれませんでした。しかもニヤニヤ笑っていましたよ。気持ちの悪い笑顔でした。他人の心を泥靴で踏みつけても何も感じない人なんでしょう。マスコミの人ってみんなあんな風なんですか。私にはあの人たちが自分と同じ血の通った人間に見えません。  あなたたち警察はどうなんですか? あなたたちにも人の心はあるんですか?  息子が暴力を振るわれるようになったとき、所轄の警察署に相談に行きました。あなたが勤務している署ですよ。でも警察は何もしてくれませんでした。子どもの喧嘩に警察は介入できないと言っていました。  すべてが終わって、正人はいじめからは解放されました。でも彼の心は傷ついたままです。息子は以前の息子ではなくなってしまいました。もともとはとても優しくて朗らかな子だったんです。いつも笑顔で友だちもたくさんいました。でも今は笑いません。たぶん人を信じる気持ちが無くなってしまったんです。息子を見ていると苦しくて、苦しくて。あなたたちにこの気持ちが分かりますか?」  感情の高ぶりとともに、早乙女凛の声は次第にボリュームを増した。はっと我に返り、辺りを見回す。見知った顔がないのを確認してほっとしたようだ。こんなときは、黙って聞いているに限る。人は吐き出すものを吐き出してしまえば、威勢を失う。 「私の仕事も滅茶苦茶です。大きなプロジェクトの担当から外されました。殺人犯になるかもしれない職員をクライアントの前には出せないからです。今は何も仕事がありません。同僚たちの見る眼も冷たくて、職場は針の筵です」 そこまで言うと、女性は脱力した。 「早乙女さん…」  女性は反応しない。 「私にも小さな子どもがいます。男の子です。来年には小学校に上がります。今のところつつがなく成長してくれていますが、息子がこの先、心無い暴力の被害に遭うようなことになったら、私はきっとその相手を許さないでしょう。ご心労が重なっていることについてもお気持ちをお察しします」  我々は仕事でここに来ているのだ。同情はするが、真実をこの眼で確かめるためには、この女性と話をしないわけにはいかないのだ。AIに殺人を命じることができた人物は限られている。この早乙女凛といじめの被害に遭っていた息子の正人が最重要人物であることに間違いはない。  この後、どのように話を進めていくか迷った。まさか、あなたはAIに人殺しを命じましたか、とストレートに聞くわけにもいくまい。 「私たちはあなたを殺人の首謀者と決めつけて、ここに来たわけではありません。不幸な出来事が起こるまでの経緯を知りたいのです。出来事はあなたの家で起きました。だから私たちはあなたにお話を聞く必要があるのです。そこのところ、ご理解いただけますか」  慎重に言葉を選んだ。  本件を「事件」と表現しないように。  長い沈黙。時が過ぎるのは待つ。  落ち着きを取り戻した早乙女凛が、少しずつ重たい口を開き始めた。  まずはスマートホームへの転居と権田少年との交友が始まったと思われる夏くらいまでのことを尋ねる。彼女が語ったところをまとめると次のようになる。  件の物件の契約を結んだのは昨年の三月二六日のこと。その日は息子、正人の誕生日だったので、はっきりとその日付を記憶していた。子どもの将来を想い、決めた転居であったが、一年もしないうちに平和な生活が無残にも打ち砕かれようとは夢にも思わなかったと語った。  物件の引き渡しが始まったのが四月一日。早乙女親子の入居は四月六日で、比較的早いほうだった。まだ街に人が疎らにしかいなかったそうだ。入居を急いだのは翌日の七日にある中学校の始業式に間に合わせたかったからだ。転居前の住所は川崎市A区。早乙女凛は五年前に夫と離婚している。離婚後、親子が身を寄せた川崎の家は、凛の実家であった。スマートホームへの転居は、彼女の通勤時間を短縮すること、正人の学習環境を整えることを考えてのことだった。  正人はバレー部に入部した。前の中学でも一年生ながらレギュラーとして活躍していた。ただ残念ながら、試合で躍動する息子の姿を、彼女は見ることはできなかった。入部してすぐに顧問の教師から連絡があった。髪を切るようにとの内容だった。このとき正人は髪を伸ばしていたのだ。 正人はある日、母親に尋ねた。 「母さん、ヘアドネーションって知ってる?」  それは、病気や事故で頭髪を失った子どもたちに髪の毛を寄付する活動のことだ。寄付された髪でウィッグがつくられ、子どもたちに届けられる。正人が髪の毛を寄付したいと言い出したのは、その四か月ほど前だった。すでに髪は肩にかかるほどになっていた。前の学校ではその点には鷹揚で、髪を縛っての部活参加が認められていたが、新しい学校では長髪が許されなかった。結局、四月下旬には退部届を提出した。  ゴールデンウィークが明けると今度は、担任教師から連絡が入った。用件はやはり頭髪のことだった。正人のそれは明らかに校則に違反しているとの話だった。早乙女凛は部活の顧問にも担任教師にも、一貫して息子の意思を尊重したいと答えた。学校からの連絡はその一回きり。その後、しばらくの間は静かな日常が続いた。夏休みが終わる頃、正人が学校に行きたくないと言い出した。理由を尋ねてもはっきりとした答えは返ってこなかった。九月に入り、新学期を迎えた。本人と話し合い、しばらく学校を休むことにした。結局、欠席は一週間だけで済んだ。理由はよく分からなかったが、とりあえず登校ができるようになったことで、安堵したという。 「その頃は大きな案件を抱えていて、仕事のことで頭が一杯でした。もっと息子に寄り添っていれば、もっと違った今があったのではないかと悔いています」  早乙女凛はそう言うとぎゅっと握られた手元に視線を落とした。  続けて、権田力の交友について聞く。  十月になると、週末に行先を告げずに出かけることが増えた。どこに行くの、と聞いても何も言わず出て行ってしまう。以前の息子ならそんなことはなかった、と。 「あの子たちとの係わりは、その頃にはとっくに始まっていたんですね」 あの子たちとは、権田力をリーダーとする不良グループのことだ。  十二月上旬のある日、早乙女正人が頬に大きな痣をつけて帰宅した。理由を問い質しても正人は黙ったままだった。凛は、学校で深刻ないじめを受けているのではないかと疑い、担任教師に連絡を取った。面談の約束を取りつけ、学校に出向いた彼女は担任教師から衝撃的な話を聞くことになった。  正人が権田力と一緒にいるところを複数の生徒に目撃されている、と。  豊田教諭も正人がグループのメンバーと一緒に、駅前のショッピングセンターに入って行くところを見かけたことがあると言う。  権田力の暴力性は、地域でも有名だった。とにかく暴れると手がつけられない。いつもカッターナイフを忍ばせていて、興奮するとすぐに人を切りつける。一昨年、地域の飼い犬が刃物で切り殺されるという事件が相次いだ。遺体につけられた数十か所に及ぶ傷口が残忍な犯人像を示していた。大切なパートナーを失った一人暮らしのある老女は、あまりのショックに寝込んでしまい、そのまま息を引き取った。地域の人々は口々に、犯人は権田さんところの一人息子に違いないと言った。  権田力には、いつも年少の取り巻きがいた。そのなかに自分の息子がいる。 「あんな子と正人が友だちになるなんて、今でも信じられません」  頬の痣が権田力によるものであるとは思っていなかったとも。母親が疑っていたのは、あくまでも学校の級友たちだった。  事件――早乙女凛にとっては事故なのだが――の発生日は日曜だったが、凛は会社にいた。午後四時頃、スマートフォンの着信に気づいた。送信者の表示は「まさと」。数分おきに六回の履歴が残っていた。繰り返されるスマートフォンの表示に何か尋常ならざるものを感じ、すぐに折り返した。正人はすぐに応答した。  友だちが部屋で死んでいる。  早乙女凛は、そのときの様子を追体験するかのように、押し黙ったまま何もないテーブルの上を見続けた。人は言葉を獲得することで、さまざまな種類の感情を定義できるようになった。しかし、あまりにも日常と解離した経験によって引き起こされた感情の渦を、容易には言葉にできない。沈黙を続ける女の姿に、真実を見た。  この女は嘘を言っていない。  俺はいくつかの質問を続けた。 「あなたが知っていたことはそれだけですか?」  早乙女凛は静かに頷いた。こちらをしっかりとした眼で見詰めながら。 「あなたは最初にも、知らなかった、と言いました。あなたは息子さんが権田    少年から暴力行為を受けていたことを知らなかったということですか?」 「知りませんでした。詳しいことを知ったのは、マスコミの報道からです」
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