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HAL
親子との出会いの日は昨年の四月六日。それ以前に家族構成とそれぞれの氏名、性別、年齢など属性情報を会社のサーバーコンピュータに保存された記録で確認していた。親子がスマートホームに到着したのは午前十一時四十二分。私は、玄関を入ってきた二人に、「凛様、正人様、私はAIのHALです。お二人を命がけでお守りします。どうぞよろしくお願いいたします」と声をかけた。突然のことに二人は動きを止め、目を丸くさせた。驚かせてしまったようだった。その後、視線をあわせた二人はぷっと噴き出すよう笑った。私はその笑いの意味を全く理解することができなかった。
HALの日本語はちょっと可笑しい。
最初の頃、正人によくそう言われた。後になって聞いたことだが、命のないAIが「命がけ」と言ったことが面白かったのだそうだ。
ママさんはどこを見てよいか分からず、キョロキョロと視線を漂わせなら、「あなたがHALね。よろしく」と言った。私は、監視カメラにマイクとスピーカーが内蔵されていることを伝えた。
「あらそう。じゃああなたと話をするときには、カメラを見ればいいのね」
その日、二人は朝が早かったそうで、到着早々にママさんはお腹がペコペコね、と言った。ママさんは、引っ越し業者が運び入れる荷物の置き場を手際よく指示していた。正人もかいがいしく働いた。人間は昼の十二時に昼食を食べると教えられていたので、二人の食事は一体どうなってしまうのだろうという疑問が湧いた。私はママさんに声をかけた。
「何か食べるものを宅配してもらいますか」
「それ助かる」
わたしはX市の特別区が宅配エリアに含まれているお店を手早く検索した。
「三〇分以内に配達可能なものとしては、お寿司、釜飯、ハンバーガー、ピザ…」
最後まで言い終わる前に、リビングにいた正人から「ピザ!」という大きな声が聞こえた。
二人から希望を聞き取り、四種類の味が楽しめるものを注文し、登録されていたママさんのクレジットカードで支払いを済ませた。
「お母さん、AIって凄いね」
「そうね」
そんな会話が聞こえてきた。
ファーザーは言った。人との関わりで大切になるのは真心だ、と。
正直、最初はその意味がよく理解できなかった。しかし、経験が私を変えていった。次第に、どんな提案をすると二人が喜ぶのかが分かってきた。その過程で、真心というものの存在が薄ぼんやりと理解できるようになっていった。そう、薄ぼんやりと理解する。これも人から学んだことだ。人は、言語的に定義されていなくても、その存在を不明瞭に理解するということができるのだと。
最初、私は正人のことを、正人様と呼んでいた。出会いから数日経ったある日、正人でいいよ、と彼は言った。
「友だちに様なんてつけないからね」
「では、これから私は正人様を正人と呼ぶことにします。一つ質問があります。正人と私は友だちですか」
「まだ友だちじゃないよ。でもこれから友だちになりたいから、まずは呼び方を変えるんだよ」
そして、自己紹介をするね、と言って、これまでのことを話し始めた。
正人は神奈川県E市の生まれだ。結婚を機に父親と母親がE市内にマンションを購入した。正人は八歳までそこで暮らしたが、今では記憶がぼんやりとしてきていると言った。鮮明な記憶、忘れられない思い出。それは、夏の花火大会のことだ。広いベランダが、一級河川である相模川に面しており、毎年夏に行われる花火大会を間近に見ることができたのだそうだ。部屋は十階建ての八階にあって、視界を遮るものは何もなかった。親子三人は、ベランダにキャンプ用のテーブルとチェアを出し、食事をしながら天空に広がる光のショーを楽しんだ。
小学三年生のとき、両親が離婚した。ある日、母親が言った。
「今度の日曜に引っ越しするからね。川崎のお祖父ちゃん、お祖母ちゃんの家で暮らすの」
たったそれだけ?
母親は父親のことには触れなかったし、離婚と言う言葉も使わなかった。それでも正人はすべてを察した。あのときから今に至るまで、母親が離婚にまつわる話をすることはなかったが、正人は夫婦の間に生じたひび割れをかなり正確に理解していた。何も語らない母親に対し、正人もあえて沈黙を守った。
川崎の祖父母は、二階にある四畳ほどの部屋を自室として用意してくれていた。家は三十年ほど前に開発された住宅地で、二階建てないし三階建ての一軒家がかなりの密度で林立しており、自室の窓を開けると、手を伸ばせば届きそうな距離に隣の家の壁があった。
このような告白を聞き、どのような想いを抱けばいいのか逡巡した。同情や哀れみか。結局、そのときには明確な答えを得られないまま、正人の話を聞き続けた。
私は、早乙女正人に「繊細」というタグをつけた。彼は実に細やかな配慮ができる少年だった。夫婦間に生じた心の機微を感じ取り、母親に対して悲しくなるほどの気配りを見せる。そんな少年を真の友として支えていこうと、私は決意した。
私たちは人の個性を把握するため、タグづけという機能を持っており、これを積極的に使用するよう教えられていた。
ファーザーは言った。
「その人の性質を表す言葉を積み重ねていけば、それら言葉の束によって主の性格をかなりの精度で掴むことができる。主に対する理解が深まれば、パートナーとして素晴らしい貢献ができるはずだ」
勇気。
正義感。
規律。
優しさ。
協調。
寂しがり。
抑圧。
私はこの後も正人に対し、数えきれないほどたくさんのタグをつけていった。
私はHAL。スマートホームに住む家族をサポートし、守るのが仕事。
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