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「ちょっと、僕のこと罵倒してみてくれませんか」
風が吹き抜けて、黒い髪が揺れて。足元でわふっと愛犬が鳴く。
まさかそんなセリフを言われる日が来ようとは、生まれてこの二十数年考えたこともなかった。
晴れ渡った空…とまではいかないが、散歩するにはうってつけの薄曇りの平日。まだまだ寒さが厳しい冬の、ちょっとだけその寒さが緩んだ日。
かわいいかわいい愛犬のいつもの散歩コースは休日はジョギングやら家族連れやらで人がいっぱいだが、平日は閑散としていた。
人が多いと「かわいいねぇ」と声を掛けてくれる人が多くて楽しいし、人が少ないとそれはそれで散歩はしやすい。俺はこの公園での散歩の時間がとても好きだ。
そして今日も我が愛犬がかわいい。歩いているお尻がすでにかわいい。そんなことを考えながらいつもの道をルンルンと歩いているその時だった。
視線の先のベンチで、俯いて座っている人がいる。普通に休憩しているのかと初めは思ったが、その体勢と放たれる「もうアカン」みたいなオーラからもしかして体調が優れないのかと思った。
そんな俺と以心伝心なのか何も考えていないのか、かわいいお尻を振って愛犬がそのベンチへと駆けていく。すると自動的に、リードを持っていた俺も引っ張られる形でそのベンチの人の方へと近づいていくことになったわけだが…。
目の前まで来て、どう声を掛けようか、そもそも声を掛けていいのか迷ってしまった。だってただ単にマジで休憩してるだけかもしれないじゃん。
いやでも心配ではあるしな…と迷っているうちに、足元から一声。
「わんっ」
「あっ」
「………?」
あぁ。お前ってホント心優しいのか何も考えてないのか分からん。でもそこが愛らしいと思う。
突然聞こえてきた犬の声に驚いたのかは分からないが、座り込んでいた人はのっそりと顔を上げた。それから、ゆっくりと一回、時を閉じ込めるような瞬きをする。
風が葉っぱを揺らす音も、誰かが後ろを歩き去っていく足音も、愛犬の息遣いも…すべてがスローモーションのように聞こえた。
目の前にはじいっと俺を見つめる綺麗ななにか。一瞬ものすごく精巧な人形か、アンドロイドかとも思った。紅い。
よく晴れた日の夕暮れみたいな瞳がきらきらしている。それが長い睫毛に隠されて、もう一度現れた時に俺の時間は元に戻った。
びっくりした…動いた。いやさっきも動いてたか。こんなに綺麗なひとがこの公園にいたなんて、今まで気づかなかった。今日初めて来たんだろうか。
ぐるぐる考えていると、精巧な機械でも人形でもないらしい薄いピンク色の唇がそっと開かれた。
「…きみ」
「あ、はい!邪魔しちゃってすいませ…」
「ちょっと、僕のこと罵倒してみてくれませんか」
「………は?」
「わふっ」
そうして冒頭のセリフへ。一瞬自分が話しているのと違う言語で話されたのかと思った。それにしてはやけにはっきり聞き取れるし…「きみ」とか「僕」って言ったから多分同じ言語だと思う。
でもバトウってなんだ?俺が知ってる単語?だとしたらあれ、人を罵るやつしか思い浮かばん。あと何かある?
一瞬だけ某有名な俳句の人が浮かんだが絶対関係ない。松尾の芭蕉さんは絶対関係ないだろう、失礼だろ。
こいつは何を言ってるんだと思われるかもしれないが、それこそこっちのセリフだ。意味が分からなさ過ぎると人は一旦現実逃避するらしい。
だが足元でもう一度愛犬が「わふっ」と鳴いたので、そこでハッと我に返った。
「あの…聞き間違えたっぽいのでもう一度言ってくれませんかね」
「ちょっと僕を罵ってみて。初対面で悪いんだけど」
「あ、無理です、では」
「…ほう」
いやいや、何でそっちがちょっとびっくりしたみたいな顔してんの?
全くもって訳が分からん…。これは長居は無用だと悟ったので会話を強制終了し、さっさとその場を去ろうとする。全力で早く離れようとする。のに、何故か動かない。
俺ではない。我が愛しきアホな愛犬だ。かわいいかわいいお尻を地面につけ、何故だかベンチの前から動こうとしないのだ。
いつもはまぁまぁ言う事聞いてくれるくせに!!
「きみのご主人さまは、早くここから離れたいらしいね」
「わふ」
「きみはいいの?」
「くぅ」
「そっか。バカで優しいねぇ」
「うちの子悪く言わないでくれますっ!?」
「あ、怒った。ごめんなさい」
俺の踏ん張り虚しく、結局その変な美人さんの隣に座ることになった。なぜ。今日は散歩してあとは家でまったりもふもふ過ごす予定だったのに。
「いやあ、初対面で怖がらせてごめんね」
「いや本当に」
「ばっさり言うねぇ。やっぱちょっと僕のこと罵倒してみて欲しい」
「あ?」
「ははっ!一文字でも分かりやすいもんだな」
俺は徐に、足元にちょこんと大人しく座っていた愛犬を抱き上げ、変な美人さんから引き離そうとした。なるべくベンチの端に座るも、距離はあんまり遠くならない。
俺の腕の中で彼の方へ近づこうとする愛犬は、実は普段からこんなに人懐っこいわけではない。寧ろ知らない人は割と怖がるんだが…本当にどうしたんだ。
「で、もう満足ですか」
「まだ一文字しかもらってないけど…。まぁいいや。ありがとう」
「…はぁ」
「わふ」
まさか睨みつけてお礼を言われる日が来ようとも思わなかった。マジで変な奴だ…。
じっと観察するみたいにそのひとを見ていたからだろうか、彼はふっと口元だけで微笑った。
ちょっと、寂しそうだとか思ってしまった。
「たまにさ、」
「…はい」
「人に罵倒されたいなぁって時、ない?」
「俺はないですね」
「そっかぁ、だよなぁ」
さっきの寂しそうな顔はどこへやら、そのひとは今度はからりと笑った。その顔が意外と幼く見えたのは、ちらりと見えた八重歯のせいかもしれない。
紅い瞳やこの歯といい…もしかして、と思っていたらまるで心を読んだみたいに彼は続けた。
「珍しい見た目っしょ?僕」
「え、あー、ううん…」
「いいよ、正直に」
「まぁ、あんまり周りにいない感じですかね」
「きみはオブラートに包めるひとなんだね」
「まぁ一応」
また悪戯っぽく笑った彼の膝の上に、俺の腕の中にいたはずの愛犬がぴょんと飛び移った。まるで机の上からおやつを掻っ攫っていく時みたいな俊敏さで止める間もなくて、気づけば奴は黒いスラックスの上で色白な手に撫で撫でされていた。
今更すぎるが、犬が苦手とかじゃないだろうか。アレルギーは?というかそんなに密着してたら、綺麗な服に毛が…。
あわあわする飼い主をよそに、愛犬も彼も嬉しそうでちょっと嫉妬する。浮気か?
「ごめん、勝手に撫でちゃった。かわいいねぇ」
「そうでしょうそうでしょう。こちらこそすいません」
「いいや全然。めちゃめちゃ癒されるから寧ろありがとうって感じ。飼い主さんに似てるね?かわいい」
え、どこが?なんて言う前にまたあの紅い瞳が俺を見た。真っ黒いさらさらの髪の間から覗いた瞳は鮮やかすぎるくらいなのに、見ていて不安にならない。
でもちょっと気まずいし、言うことはともかくお顔は綺麗すぎるくらい綺麗だし、段々と恥ずかしくなってくる。
そしてそんな俺の反応を楽しんでいるかのような彼の悪戯っぽい笑みが腹立たしくもあって、何より視界の端に見える膝の上の愛犬がすっかりおねむモードになっているのも複雑極まりなかった。浮気だ!
いつもは安心した環境でしかそんな寝方しないくせに!俺の膝よりこの変な美人さんの膝の上の方がいいっていうのか!…ちょっと複雑。
それでも続くにらめっこタイムにもうだめだ!なんて思って先に目を瞑ってしまった。ぎゅっと思い切り目を閉じると、その先で今までで一番大きな笑い声がする。
そうっと開いた視界には目に涙を浮かべた青年と、笑い声でびっくりして起きてしまったらしい愛犬のかわいい顔。
何がそんなに可笑しかったのか聞く前にまた、彼がくっくっと声を零しながらもスマホを取り出した。
「さっきの顔、撮っていい?」
「………なんで?」
「おもろかわいかったから」
「おもろか…?」
「見る度元気出そうだなって」
「いや撮影はちょっと…」
「だめ?」
「だ………めです」
「そっかぁ。残念」
髪を揺らし、かわいらしく首をこてんと傾げながら聞かれたけれど、なんとか流されずに耐えた俺。こんな顔はずるい。まるでご飯を食べた後におやつをねだってくる我が愛犬のようだった…見事…。
格好良くてかわいくて綺麗ってすごい。言動も行動もちょいちょい変なんだけど。
膝の上で愛犬がまた「わう」と鳴いた。どうやら腹が減ったらしい。じゃ、この辺で帰るか。
俺がベンチから立つとぴょんと愛犬も彼の膝から下りて、食欲に忠実に歩き出していく。
振り返ると、彼はもう「もうアカン」オーラは出していなくてほっとした。
本当はもっと引き留められるかと思ったのだが、意外にも青年はひらひらと手を振って俺たちを見送ってくれた。
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