喫茶金木犀で、またね

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「すみません、道に迷ってしまったようで。微かにコーヒーの香りがあって、手で感じた外観からも、お店かと思ったものでしたから」  研ぎ澄まされた感覚は、赤い唇の動きから僕の目前に言葉を導き出す。顔色が少し青白い、綺麗な女の人だった。 「行きたいところがあるのですが、それがどのあたりにあるのか、教えてくれませんか」  と、続けて言っているように見えた。彼女は器用にポケットからスマホを取り出し、僕の立っているところより少し外れた角度から身を乗り出す。それで僕が答えられるはずもなく、カウンターを隔てて動けないままでいた。沈黙が流れているであろう最中で、僕の頭の中は警報灯が真っ赤になって点滅している。  どうしよう、どうしよう、どうしよう。  頼みの綱だった僕のスマホが充電切れになっているのを脇目に気付く。それがより焦燥を煽らせた。普段はかなり気を付けている筈なのに、どうしてこんなときに限って。「お前、結構慌てん坊だからな」と、麗音がツッコミの眼差しで見上げているような、そんなどうでも良いことに思考が囚われてしまう。  人の気配があるのに、何も答えてくれないこの状況に、彼女は次第に首を傾けてきた。そして、申し訳なさそうに「あの……」と、眉を下げる。いっそ、このまま何もしないで彼女が出ていくのを待つという手段もあったが、僕は咄嗟に首を振る。僕が受けてきた仕打ちを、彼女には絶対に受けさせたくなかった。  何としても、話をしなければ。そのために必要な僕の行動はなんだ。そう思い巡らせたとき、僕は目を瞑って息を吸い、覚悟もまだままならぬうちに、早まる鼓動に合わせて言葉を発する。 「ういあえん、ああい、いいあ、いおえあえん」  すみません、わたし、みみがきこえません。  下手糞な口語だったろう。こちとら生まれながらのろう者、音を知れず手話を第一言語とした僕は、口語がめっぽう苦手である。どんなに頑張っても母音しか発することが出来ない。その母音の辿りだけで分かってもらうしかなかったのだ。  彼女は最初、からかっているのかと思ったか、怪訝に片眉をあげていた。誤解であることを示すために僕は繰り返し、必死に腕を振って続ける。 「ういあえん、ああい、いいあ、いおえあえん」  すみません、わたし、みみがきこえません。 「ういえあん! ああい! いいあ! いおえあいおえん!」  すみません! わたし! みみがきこえないのです!  散々馬鹿にされてきた口語を、精いっぱい表現するのはこれが初めてだった。冷や汗が滲み出て、声も更に上擦るような唇の震えを為す。  すると、僕の身振り手振りから覇気を感じ取ったのか、彼女は僕の方へと身体の向きを整える。そして、スマホの角を顎に添えて思案に耽ると、僅かなタイムラグを経て、あっと驚いた顔で唇を開け、切り揃えた黒髪を振って後ずさるのだ。 「よっしゃ! 気づいてくれた!」  なんて、ガッツポーズしている場合ではない。そこから先は、彼女の出方次第になる。彼女も彼女で、まさか相手が耳の聞こえない人とは思わなかったであろう。あちこちに首を振りながら、白杖の先を叩くことしかできない。そこで僕は、例え見えていないと分かっても指を差す。僕と彼女を結べる唯一の手段、それは彼女の持っている電子機器。 「うあお うあお」  繰り返し指してスマホと言うと、彼女は思い出したように笑顔になっては、「あっ」と口を開く。が、それが良くなかった。  慌ててスマホを取り出すと同時に、店内の段差に足を掬われてしまったのだ。脇にいた盲導犬が咄嗟の機転で身を引くことで留まったものの、スマホだけはあっけなく宙を飛び、僕がこだわり抜いて選んだ鉄椅子の背もたれに丁度良く当たってしまう。僕は部品の欠片が飛ぶ様を見て、彼女は劈く音を聞いて叫んだ。 「あああああー!」  カウンターに転がり落ちたスマホは、見るも無残な有様になっていた。こうして僕らは、唯一の手段をもなくしてしまったのだ。
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