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「ど、ど、ど、どうしよう。どどうど、どうしよう」
風の又三郎かよ。と、頭の隅でツッコミを入れつつ、慌ただしくカウンターから向かいの店内へ回り込む。遂に僕は、隔たりを超えて彼女と対した。壊れたスマホを手に取り、足踏みでどこにいるのかを伝えながら、階下に立って真っ白な画面を指で叩いて差し出した。僕の黒い指紋から虹色の波紋を為したけれど、画面が元に戻ることはないだろう。スマホを通じて触れる彼女の指はとても冷たく、寒い思いをしながら外にいたのだと悟らせる。
一方で彼女は、細長い指でスマホのひび割れを知っては、呆然として声も出ないようだ。再び気まずい空気が流れていく。
ああ、遂に万事休すか。スマホまで壊してしまって結局僕はまた、人に迷惑をかけてしまうことしか出来ないのか。
懺悔の思いに浸るも、謝る手段すらも見出せずに、僕も冷え切った身体を強張らせる。すると、空気が揺れる余波を鼻先で感じ、咄嗟に顔を上げた。彼女が階段の上で腕を振りあげていたのだ。何事かと身構えたが、足音から悟った僕の立つ位置に向けて、やがて彼女はゆっくりと動き出す。僕は瞬時に既視感を覚えて目を瞬かせた。
空中へ指を突き出し、間を置いて拳を形作った両腕を交互に振り、両手の掌を天井へ並行にあげて首を傾ける一連の動作。そうか、彼女はジェスチャーで僕に伝えようとしているのだ。それで今、「行きたいところがあるが、場所が分からない」と、言っている。
唇の動きから把握した事実が、ここでさめざめと明らかになっていく。やはり僕にとっては、身振り手振りが何より透き通って頭に入ってくるのだ。得た感触に涙が出そうになり、悟られまいとぐっと息を飲み込んだ。
「いいあい おおお あうお?」
行きたいところ あるの?
そして僕も答える。今度は慌てずに、間をおいてゆっくり話してみると、意味を読み取り、また伝わった喜びに口角をあげて彼女は大きく頷く。僕も手ごたえを得て、開いた両手を交互に上下させた。
「おお?」
どこ?
今度はスマホを掲げ、彼女は口語でゆっくりとある会社の略称を答え、スマホを掴む手と熊の手を交差させる。僕は思わず手を叩いた。
「ああ、スマホを買い直しにきたのか!」
そこから途端に申し訳なくなって、頭を下げてしまう。
「おえんああい! おいおえいえ!」
ごめんなさい、僕のせいで。声を震わすニュアンスで繰り返し頭を下げると、彼女は首と手を振った。合掌した手を頬に添えることで眠る仕草をすると、次に背伸びをして起きるポーズをする。続いてスマホを手に持って、驚きに顔を近づけて画面をいじくると、深くため息をついて前を向き、踏み出すという動作をした。ああなるほど、元々そうするつもりだったんだ、と、読み取って僕は思わず――、
「おうお おあっあえうえ」
丁度 良かったですね。
なんて言ってしまった。咄嗟に出た失言に、か細い声を出して自ら咎めると、その声からか、または言葉を解したのか彼女は吹き出した。小さなチップを取り出すジェスチャーから、胸をどんどんと叩いてふんぞりかえる。バックアップはしているから大丈夫だよ。と、いう意味だろう。日差しに翳された彼女の笑顔はとても眩く、僕も沸きあがる情動に合わせて一緒に笑ってしまった。
実はそのとき、僕もここの土地には馴染みがなく、会社の場所も知らなかったけれど、どうしようと焦ることはもうなくなった。
「おおあん あんあい いあう おああいあん」
交番、案内します。おまわりさん。
少し失礼になるけれど、出来る限り言葉少なに簡潔に。分かりやすいニュアンスで肝心の言葉を繰り返す。
「いうえい いあう」
失礼します。と、付け加え、足を勢いよく上げて自分が近づく様子を示すと、彼女もその意図を悟り掌を差し出した。「あいあおう」と、優しく手の甲に触れて、掌の中心に円を描いて足踏みを一つ。それがここです、と、合図をする。続いて、円より右にずれたところから指で線を引き、彼女の手首の辺りで右に曲がり、小指の位置に止まって腕に向かって再び真っすぐに進む。位置だけでなく距離感も表しながら、二の腕のところでとん、と、柔く突いたことで、一通りの案内を終えた。
「おうお、おおあえ」
どうぞ、外まで。
そして、彼女の腕に僅かに触れる形で肘をついてみる。僕の唐突な仕草に彼女も最初は驚きに身を引いたが、やがて、慣れないでいる僕の動作を寛容に受け入れて、円を作る僕の腕を掴んだのだった。
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