0人が本棚に入れています
本棚に追加
重い扉を背中で押すように開くと、秋の風が僕らの髪を舞い上げる。その先に広がるのは、向かいの垣根からはみ出るように、オレンジ色の花弁を散らす金木犀だ。艶やかな光沢を放つ深緑の葉から、鮮やかで小さな花々の密集が高貴な香りを放っている。
香りが風に漂って僕らの顔に当たると、二人同時に気付いて顔をあげる。咄嗟に顔を見合わせて、白い歯を見せて笑い合う。言葉は交わさなかったけれど、僕らは確かにそのときも、何かを通じ合わせのだ。
「あっいえうお」
あっちですよ。
やがて僕の案内を受けて、その手は離された。この以上のお世話は不要だと、掌をこちらに翳す彼女の意志を尊重し、僕は深く頷く。彼女の声かけに合わせて盲導犬が白い足で踏み出し、彼女を大通りの方へ導いていく。彼女は赤いスカートを靡かせると会釈をして去っていく。僕はしばらく麗音と道路の脇に並び、彼らを見守っていた。
迷いやすい曲り道があるのが気がかりだったけれど、堂々とした背筋を見てその心配はなさそうだと知る。僕は安堵のため息をついて目を逸らす。途端に温い疲労が背中を覆ったけれど、それがまた程良くて僕は微笑んでいた。
そうだ、この喫茶店の名前は金木犀にしよう。澄み切った空に思い馳せ、僕は店を仰いだ。
僕らは今、香りで同時に金木犀に気付いたのだ。あのときように、様々なハンデを背負う人たちでもすぐに分かる、便利で心地の良い喫茶店にしようと決める。僕は『しるべ』を見上げて意気込んだ。
課題はたくさんあるだろう。僕の反省点も多くある。僕も聞こえる人に傷つけられたことはあるけれど、僕もまた彼らと同じように、気遣いのないところがあった。準備はまだ、終わっていなかったのだ。
入口には案内のための点字を設ける必要もあるだろうし、店に入るまでの階段にはスロープを作らなければならないだろう。色んな当事者たちに僕の喫茶店のどこが不便なのかを、確認することも必須だ。これからの手間とお金を考えると少し眩みそうになる、けれど。
地面を見下ろすと、麗音が円らな瞳で僕を見上げつつ、鼻先を大通りの方へ向けた。なんだろうと思って顔をあげると、遠目の彼女が僕に向かって手を振っていたのだ。もう片方の手で口を囲い、肩を上げて勢いよく何か話しかけている。
僕がいないかもしれないのに、僕にはもう彼女が何を言っているか分からないのに、きょとんとしているような盲導犬の横で懸命に手を振っている。じわりと滲む愛しさとともに、啜る僕の鼻先に金木犀の香りがつんと過った。
「そうですね、なんとかやってみせますよ」
そして僕も、例え彼女が見えずとも分からずとも、自分の率直な思いを一番表せられるもので返すのだ。
肩の前で握った右手の拳から、中指と人差し指を出し、手の甲を彼女に向けつつ胸の前に置いて笑う。
その手話の意味は。
終
最初のコメントを投稿しよう!