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傍からすれば、準備は上々に見えるだろう。
蚤の市で買い揃えた家具の配置も終えて、考え抜いた豆の種類もメモにまとめた。手作りの紺色エプロンも我ながら様になっていて、脇にいる柴犬の麗音(レオン)は今日も元気。あと、肝心の店の名前さえ決まっていれば。
「どうしようかな……」
深いため息をついても、頭はぼやけて何も思い浮かばない。けれど勿論、適当に考えたくもない。僕はリフレッシュのために、コーヒーを淹れようと立ち上がる。お湯を沸かして、豆を測って挽く。湯気と一緒に漂う香りを顔に受けながら、僕はどこかのヴァイオリニストが「発表会で使うヴァイオリンで練習しなければ、練習する意味もない」と語っていたTV番組をぼんやりと思い出していた。
そう言って数億円もするヴァイオリンを持った彼女の奏でる音色は、果たしてどんなものだろうと思い馳せつつ、僕もそれに肖って、店で使うドリップポットで注ぎ入れるのだ。開店まであと数週間。空調の設備が行き届かないがらんどうの店内は、立て付けの悪い窓ガラスから吹く秋風に澄んでいて、鼻の勘も鋭くなったような気がした。
「うん。やっと、ここまで来れたかな」
厨房で淹れたコーヒーの香りを吸い込み、ちょっと粋がってみたところで、隣に座っていた麗音が鼻先を後ろに向ける。一方で僕は、コーヒーの香りに耽る時間を憚られたことに閉口していた。
鍵を掛け忘れてしまった僕も悪いけど、立て看板には『開店準備中』と書いてあったはずなのに、なんでかな、と、首を傾げながら脇に置いてあったペンとメモ帳を取って振り返る。麗音の足取りを追い、厨房からカウンターへと藍染の暖簾を潜り抜ければ、まだブラインドをつけていない店内は秋晴れに眩しかった。
思わず眉を顰めた先には、細長い影が立っていた。開かれた扉からは向かいの家に咲く金木犀がうかがえる。やがて、真っ黒だった影の正体がオレンジ色の花を背後に、薄着の白いコートを纏い、赤いロングスカートを履いた女性だったと知ると、僕は驚きで渡そうとしたメモを落としてしまった。
目の前に立つ彼女の手には、白杖があった。脇にはクリーム色のラブラドルレトリバーが白いハーネスを携えて僕を見上げていた。
彼女は目が見えない人だったのだ。それを悟ったとき、僕は初めて静けさの中にあったと知る。全ての感覚が研ぎ澄まされて、逆に一切が感じられなくなるこの瞬間。
それは、全く耳が聞こえない僕が唯一感じた、音のない空間であった。
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