《真仁の朝》

1/1
33人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ

《真仁の朝》

 ()(こと)の要望通り、あさりの吸い物を作り出した俺は、未だに安定した味が出せず苦闘している。きっと達者な料理人なら目を(つむ)りながらでも作れるだろう単純なものだが、彼女の期待値が高い分、()()いものを作ろうと意気込み過ぎて、何度も味を調(ととの)えなければ完成には至らない。これを伝えてみたところで、麻琴が信じないのは分かっている。しかし、汁物に妥協できない俺の性質が、作るたびに混乱を極めてしまう。そんなときは決まって、あさりの出来の悪さのせいにしながら、都度つど味見して己に辟易する。味噌汁みたいに上手くやれたらいいのに、どうしたって吸い物は苦手だ。  俺は元々、無駄口が多い男だった。人の悪口も言っていたし、恋人への不満だって本人を前に述べていた。言葉遣いはきれいだと言われるが、その言葉に毒があるともよく言われた。口は災いの元。大事な親友にひどく誤解されたこともあったし、片恋を実らせた恋人を深く傷つけたこともあった。軽はずみな言動で窮地に立たされ、自ら友情や愛情を破壊してしまったこともあった。何度もそれを繰り返しているうちに、本音を語る場面でも言葉が出せず、言うべきときに言うべき言葉を言えない男になっていた。  そんなときだ、麻琴に出会ったのは。  彼女とは最初から通じ合うものがあった。事実、俺たちはどちらからも愛の告白をしていない。けれども自然の流れで共に暮らし始め、もう五年も一緒にいる。過去のトラウマから言葉少なになった俺にとって、麻琴はすべての意を汲んでくれる至高の相棒だった。二人が同じ部屋にいるとき、二人は同じタイミングで口づけたいと思う。二人の時間の中では、数えきれないぐらい愛の行為を繰り返した。どちらともが一途であり、どちらともが互いを欠かせない。昔からよく言われている「人という字は支え合うから人なのだ」という言葉を体現しながら、閑静な住宅街にあるアパートの一室で過ごす日々。車や人通りが極端に少なく、雑音がないこの部屋での生活は、まるで童話の中にいるみたいで心地よかった。職場では電話やら靴音やら叱責やらが耳障りで(かん)(さわ)るが、この部屋に戻ってくると、耳に聞こえる音は途端に何のノイズにもなりはしない。  しかし、ただ一つ、欲しい音が聞こえない。  それは俺のトラウマによるもので、結果、響く音が響かずにいた。  自分の責任と言って済む問題ではないが、きっともうその鐘は鳴らないのだろう。  味見した吸い物は、麻琴が好きな味になってきた。  何度も調えれば形になる料理のように、二人の心も調えられたら良かった。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!