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第3話 綺麗な彼女の話
黒絹のように美しく、光沢のある艶やかな黒髪。それを頭の後ろでひとつに纏めている。細く長い黒眉に切れ長の目尻。煙水晶のように深い色合いの双眸。それらに整った鼻梁が続き、最後に朱色の唇で終わる。薄く焼けた綺麗な肌の首から下は和装に包まれていて、胸の僅かな膨らみ以外の体の線を覆い隠していた。歩くたびに見える白い足首や、髪型のせいで見えているうなじには、かなり色香があった。
控えめに言っても美人だ。目鼻立ちはそれほどはっきりしていなくて、格好からも俺たちのような東洋人に近いものを感じる。和装の着こなし、その美しさには思わず目を奪われてしまう。
彼女の名前は桜。このギルドに所属している傭兵の一人で、俺の気に入っている相手だ。気に入っているというのはつまり、好きだってことだ。通路で初めて見かけた瞬間にそうなった。一目惚れというやつだ。
といっても、彼女とまともに話したことはない。怜司のやつがお節介で俺を勝手に紹介してきたときに、軽く挨拶と自己紹介を交わしたぐらいだ。そのときに分かったが、どうやら彼女もかなり口下手らしい。俺は余計に惚れ込んだ。
それでも話しかける勇気はなかった。それに、話さなくても見ているだけで十分だった。ただ見ているだけで俺は幸福な気分になれた。
「……通路掃除にしては、大所帯だな」
通路にいる5人を見るなり、彼女は静かな声で感想を述べた。驚いているようには見えなかったが、表に出にくいだけで、驚いているのかもしれない。
「この際だから桜さんもご一緒にどうっすかね? 多いほうが俺、楽なんで」
怜司が適当なことを抜かしながら箒を桜に差し出すと、彼女は少し悩むそぶりをしてから、それを受け取った。
「ん。たまには、いいだろう」
こうして掃除係が6人に膨れ上がった。
10分もすれば、十兵衛と紅葉によって帳消しになった分を取り戻すことができた。ただし当たり前だが、俺の体力は戻ってくれなかった。引きこもりに肉体労働は辛い。
少し集団から離れたところで休憩をとりながら、桜を眺める。横顔と切れ長の目が綺麗だった。ギルド員の誰かが彼女を仏頂面だと言っていたが、それを俺は美しいと感じていた。
彼女を眺めることで幸福感を得ていたが、そこに雑念が入り込んだ。重く、どこか暗い感情が。
視界に怜司が入る。十兵衛に指示を出し、紅葉のやり方を褒めて、ちょっかいを出してくる蒼麻をいなし、桜に話しかけていた。
そう、あいつは人に囲まれていた。俺はそれが無性に気に入らなかった。あの男を見るたびに、やりきれない思いがして胸の奥がざわついた。
あいつが人に囲まれていることそのものは疑問に思わないし、俺がひとりだということにも不思議なところはない。どちらも当たり前の話だ。だから嫉妬しているわけではなかった。
だが異世界に偶然やってくるという同じ境遇にも関わらず、これといった困難もなく順応していつのまにか成功しているあいつを見ると、怒りに似た感情が沸き起こってきた。あいつはまるで、俺が今まで読んできた本に出てくる主人公そのものだった。あまりにも、運が良すぎる。
対して自分はどうか。以前とほとんど変わらない生活。問題はなにひとつとして解決しないままだ。
ああ、分かっているさ。それが自分のせいだっていうことは。自分がどれだけ無能で怠慢であるかはよく理解しているつもりだ。きっと見えないだけで怜司は怜司なりの苦労と努力があるのだろう。
それでも、ああやって似たような境遇の男が成功しているのを見ると、なによりも現実を突きつけられた気分になる。俺がどういう人間なのか、浮き彫りにされたような気分になる。
だから──俺は、怜司が嫌いだった。
「おい、どうした。疲れたか?」
じっとしたまま動かないでいた俺を不審に思ったのか、怜司が声をかけてきた。俺はすぐに、持っていた掃除道具を怜司に押し付けた。
「……ああ。悪いが、休ませてもらう」
俺は返事も聞かずに自室へと向かい、さっさと部屋の中に入った。
この世界も以前の世界も大差はない。ただ、現実が最悪の形になって目の前に現れただけだ。
深夜。今日の分の仕事はする気が起きなかったので、俺は早々に寝台の中に潜りこんだ。足腰が痛むし、相変わらず寝台は硬い。この中に入ると、異世界にいるのだということをはっきりと意識する。
昼間の仕事は散々だった。特に、最後の状況は精神的な辛さが大きかった。
俺が怜司を嫌っていることについて、怜司に非がないことは分かっている。客観的に見れば、積極的に俺に声をかけるあいつは、俺に気を使っているとさえ言えるのだろう。人が人を嫌いになるということは、こんな風に理屈に合わないことなのかもしれない。とはいえ、酷い反応だと自分でも思う。自己嫌悪というものが俺の中にはあった。
もしも俺がもう少しでもまともなのであれば、怜司との関係を良好にして友人というものに囲まれる可能性もあったのだろう。だが、今の俺はそれを望みさえもしていなかった。自分が友人に囲まれている状況どころか、友人がいるという状況を想像することさえ、違和感があった。それほどまでに、俺にとってはかけ離れたことなのだ。
俺が、俺であることをやめないかぎり、状況は好転しないだろう。そしてそんなことは不可能だった。一歩が、どうしても踏み出せない。
眠気を言い訳にして、俺はまた考えることをやめた。現実を直視することなど俺にはできなかった。
──このとき、俺がもっとこのことをよく考えていれば、本当に俺の人生は変わっていたのかもしれない。
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