優しいネクタイ

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 俺が普段使っているネクタイは、恋人である佳音(かのん)からもらったものだ。  薄い桃色の、無地のネクタイ。  少し派手すぎやしないかと言ったが、あのオシャレ好きな佳音が似合ってるというからには、似合っているんだろう。毎日ありがたく使わせてもらっている。  驚いたことにこのネクタイ、喋る。  いや本当に。ひっくり返せばそこには、まるでアイロンプリントされたような、素朴で愛らしい目と口があって、ころころと表情を変えながら喋るのだ。 「ぼくは佳音ちゃんの、きみを思う気持ちから生まれたんだよ☆」  佳音が帰った後に改めて手に取ったネクタイに、ウインクしながら初めてそう言われたときには、さすがに腰を抜かした。ちなみに彼(?)曰く、佳音はこのネクタイが喋るということを知らないらしい。  気味悪かったのは確かだが、まあその後はなんだかんだ事実を受け入れて早一か月、今では彼とは同居人のような関係でうまくやっている。佳音がくれたネクタイなんだから、悪いやつなはずがない。  そして、この同居人(ネクタイ)、俺と佳音の恋バナが大好物。 「えー!? また佳音ちゃんとケンカしたの!?」  デート帰りの俺を、ハンガーの上からなじるネクタイ。 「なんでなんで?」 「佳音のやつ、今日のこと忘れてやがったんだよ」 「今日のこと? ……あ、記念日? 楽しみにしてたもんね」 「今まで忘れたことなんて一度もなかったのに。何にも言わないまま帰りそうだったから、しびれを切らしてこっちから言ったら、『そうだっけ? ごめーん、忘れてた!』だとよ」 「そっかぁ……」 「佳音、最近変なんだよな。前は毎日むこうから電話かけてきてたのに、今じゃそんなこと滅多になくなったし、記念日も忘れるし。遊びに誘っても、なんだか渋るようになってきて……。  ……なあ、俺、佳音に嫌われちゃったのかなあ……」  そうつぶやくと同時に、視界がぼやけてきた。 「えっ! ちょっとちょっと、泣かないでよ。はいティッシュ」  ネクタイは、器用に体をくねらせて、スーツのポケットに入っていたポケットティッシュを取り出し、俺に渡す。 「……ありがとう」  俺が鼻をかんでいると、彼はいつになく真面目な表情で、意を決したように話し始めた。 「あのね、ぼくね、きみの佳音ちゃんへの愛は、とっても大きいと思うんだ」 「え? ……そりゃまあ、恋人だし当然だろ」 「そうじゃなくて、なんというか……、きみの特性? 性格っていうか。  きみは、相手を本当に大切にする人なんだなって、この一か月一緒に過ごしてみて思ったんだよ」 「……そう、か?」 「でね、それに対して、佳音ちゃんは、……ちょっと、疲れちゃってるのかなって」 「え?」 「勘違いしないでね! 決して迷惑がってるわけじゃないと思うよ!  ただ……、きみと佳音ちゃんでは、波長が合わない部分があるのかなって、ぼくは見てて思うんだ。最近のふたりを見てると、なんだかぼく、つらくなってくるんだよ……」 「……お前は、何が言いたいんだ?」  俺が問うと、ネクタイはまっすぐに俺を見て言った。 「……これ以上一緒にいると、幸せになれないんじゃないかな。  きみも、佳音ちゃんも」  遠慮がちに告げた彼は、顔のパーツは単純なはずなのに、表情は複雑だった。 「……俺に、佳音と別れろ、って言ってんのか……?」 「……」 「……ふざけんなよ。つーかお前、“佳音が俺を思う気持ち”から生まれたんじゃねーのかよ!?  なんで俺と佳音の仲を裂くようなこと言うんだよ!?」 「……ぼくが、“佳音ちゃんがきみを思う気持ち”から生まれたからだよ」 「は……?」 「ぼくが願うのは、佳音ちゃんときみの幸せ。ふたりの幸せな未来は、ふたりが一緒にいることで生まれるとは限らないんだよ」 「……でもっ!」 「ぼくは、きみと、きみが大好きな佳音ちゃんに、幸せになってもらいたいんだ」  泣いているような、笑っているような顔で、ネクタイは言った。  そのあとのことは、あまり良く覚えていない。どうやら俺は、怒りとショックでそのままふて寝したらしい。  翌朝、冷静になった俺の頭に、ふと佳音の顔が浮かんだ。そして、いろいろな思い出がよみがえる。思い出す佳音の顔は、いつでも笑っていた。俺が愛してやまない、世界一可愛く美しい笑顔だ。  俺は、壁にかかったハンガーを見る。俺が起きると、いつも元気よく挨拶してくるネクタイは、今日は何も言ってこなかった。  昨日の彼の言葉と、佳音の笑顔が重なる。その日、俺は丸一日ひとり苦しんだ。  そして翌日、俺は佳音と別れた。
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