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笹原嘉代子は静かな森に棲んでいる。時折人を殺しはするが、おおむね善い人間である。身長は160センチとやや長身で、生活そのものにより身体は鍛えられている。独りで森に棲むのは楽ではない。毎日のように薪を集め、小さな畑を耕しながら、月に一度は往復4時間歩き、街へ日用品を買い物に行く。こんな生活を続けていれば、いやでも身体は引き締まる。去年の夏に71歳の誕生日を迎えた嘉代子だが、衣服の下にはまるで現役のソフトボール選手のような筋肉が隠されている。
そんな嘉代子は今、自宅のダイニングテーブルでスーツを着た男と膝を突き合わせている。ここは昔、嘉代子の父が別荘として所有していた建物だ。都市部で暮らしていた父は、長期休暇は静かな森で過ごしたい、という思いからこの森一帯の土地を購入し、その真ん中に別荘を建てたのだが、結局ほとんど使わないまま死んでしまった。
「改めまして、株式会社FOF、代表の新城拓と申します」
スーツの男はそう名乗り、嘉代子に名刺を差し出した。
「まあ、社長さんでいらしたんですね」
嘉代子は口元に手をやり驚きを示す。その手は森の住人らしく土に汚れているが、仕草や口調は洒落た住宅街に住む誇り高きマダムを思わせる。じっさい、嘉代子も昔は洒落た住宅街で夫とともに暮らしていたのだ。
「社長さんがこんな寂しい年寄りにどういったご用件で? その、株式会社、エフ、オー……」
嘉代子は手に持った名刺を顔から遠ざけ、目を凝らす。最近は文字を読む機会もなかったため、こんなに老眼が進んでいることに気がつかなかった。今度街に行ったら老眼鏡を購入しよう。
「F、O、F、です」
新城はアルファベットを一文字ずつはっきりと、小さな子どもに言い聞かせるように口にした。そしてわざとらしく微笑んで、
「フレンズ、オブ、フォレスト、の略ですよ」
とつけ加えた。30代前半くらいと思われる新城は歳不相応に高級そうなグレーのスーツを着こなし、銀縁の眼鏡をかけていた。嘉代子は、5分ほど前に新城がここをたずねてきた瞬間からずっと「この人はだれかに似ているわ」と思っていたが、たった今、それが誰だかわかった。年号が平成に変わったころ、やたらと高額な羽毛布団を何度も売りつけにきた胡散臭いセールスマンだ。この人もきっと油断ならない、と嘉代子は判断し、身構えた。そう簡単に言いくるめられないわよ、わたしは!
「フレンズオブフォレスト……」
嘉代子はそうつぶやきながら、不信感がしっかり相手に伝わるようにわざと大げさに眉をひそめた。
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